第2話 尾張、清洲が笑う
桶狭間での敗報は、瞬く間に尾張全土を駆け巡った。
信長が命からがら清洲城へと逃げ帰った翌朝、城内の空気は通夜のように重く、それでいてどこか刺々しいものに変わっていた。
大広間に集まった家臣たちの視線は、上座に座る信長へと突き刺さる。
左目に巻かれた痛々しい包帯が、敗北の象徴として彼らの目に映っていた。
「……以上が、昨夜の戦果報告にございます。我が方の損害は甚大。今川勢は依然として大高、鳴海の両城に留まり、本隊は知多へと兵を進めております」
報告を終えた林秀貞の声には、隠しきれない失望と、冷ややかな侮蔑の色が混じっていた。
「殿。あれほど無謀だと申し上げたのに……。奇襲が失敗した今、織田家は滅亡の淵にありますぞ」
秀貞の言葉を皮切りに、あちこちで不満の火が噴き出した。
「左様。もはや『うつけ』では済まされぬ。これほど多くの将兵を犬死にさせるとは!」
「今川義元公に降伏し、お家存続を請うべきではないか?」
罵声に近い言葉が飛び交う。
かつて信長に従っていたはずの者たちが、勝ち目のなくなった主君を、寄ってたかって引きずり下ろそうとしていた。
◇◆◇
そんな喧騒の中、信長はただ黙って、残された右目で家臣たちを眺めていた。
怒鳴り散らすことも、言い訳をすることもない。
(……くく。現金なものよな。昨日の今頃までは、首の一つも獲れば英雄と崇めるつもりだった癖に)
視界の半分を失ったことで、逆に周囲の「本音」が鮮明に見える気がした。
忠誠などという脆いものではなく、利害だけで動く獣たちの群れ。
やがて、筆頭家臣である柴田勝家が重い口を開いた。
「殿。……もはや、清洲の衆を抑え込むのは難しゅうございます。此度の責め、何らかの形で取っていただかねばなりませぬ」
それは事実上の更迭勧告であった。
「信長ではダメだ、別の織田を立てるべきだ」という清洲派の意志が、明確な形となって突きつけられたのだ。
広間が静まり返る。
誰もが、信長の激昂を予想していた。あるいは、絶望して肩を落とす姿を。
だが、信長は笑った。
ひび割れた土から芽吹く花のような、低く不気味な笑い声だった。
「ひ、ひひっ……あーはははははッ!」
家臣たちが毒気に当てられたように仰け反る。
「……何がおかしいのですか、殿!」
秀貞が声を荒らげる。
信長は、包帯に手を当てながら立ち上がった。
「おかしくてたまらぬわ。貴様ら、この期に及んでまだ『織田家』という看板に執着しておるのか。そんな古臭い木の板、今川の土足で踏み折られれば終わりよ」
信長は一歩、家臣たちの方へ踏み出す。
右目から放たれる眼光は、敗者のそれとは思えないほど鋭かった。
「よいか。俺はもう、織田という家督を継ぐ『うつけ』ではない。今日この時をもって、織田という枠すら捨ててやるわ」
「な……何を仰る!」
「林、柴田。清洲の連中に伝えておけ。不満があるなら勝手にしろ。だがな……」
信長は、広間の床を強く踏みつけた。
「俺が取るのは『織田』という小さな器ではない。この尾張そのもの、そしてその先にある天下よ。武で勝てぬのなら、貴様らの想像もつかぬやり方で、すべてを飲み込んでやる」
清洲派が唖然とする中、信長は広間を後にした。
その背中を追える者は、一人もいなかった。
◇◆◇
城の廊下を歩く信長の前に、一人の女性が立ちはだかった。
凛とした空気と、どこか憂いを帯びた瞳。正室、濃姫である。
「……殿。随分と威勢の良い大見得を切りなさいましたね」
「帰蝶か。笑いたければ笑え。左目は見えんが、右目はまだ健在だ」
濃姫は夫の痛々しい顔を見つめ、そっとその頬に手を添えた。
「笑いませぬ。……父、斎藤道三が愛した『うつけ』がようやく消え、本当の怪物が目を覚ましたようですから」
彼女の指先は冷たかったが、その言葉には確かな熱がこもっていた。
「今川は強く、清洲は背を向け、美濃も動き出しております。……三重苦でございますね」
「ああ。最高に面白い盤面だ。これほど不利な賭場は、そうそうお目にかかれんぞ」
信長は、濃姫の手を力強く握り返した。
「猿を呼べ。それから、城下で最も欲深い商人たちに文を出せ。……戦のやり方を変える。剣を振るう前に、奴らの足元を米と金で腐らせてやるわ」
敗北によって「うつけ」の仮面を脱ぎ捨てた信長の、非情な算術が動き出そうとしていた。




