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ワシ、桶狭間で負けたんだがや~それでも成り上がる・信長~  作者: 塩野さち


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第10話 信長はそれでも成り上がる

 尾張の国境近く、古びた寺の境内。

 かつて数万の大軍を率いて尾張を蹂躙しようとした今川義元は、わずか数十の護衛と共に、そこに座していた。

 白塗りの顔は汚れ、豪華な装束は泥と雨で変色している。だが、その背筋だけは、公家の意地のようにピンと伸びていた。


「……待たせたな、義元」


 本堂の奥から、黒い眼帯をした織田信長が姿を現す。

 供回りは、木下藤吉郎と数人の小姓のみ。丸腰に近い格好だが、その体から放たれる覇気は、義元を圧倒していた。


「信長……! よくも余を、ここまでコケにしてくれたな」


 義元がギリッと歯を食いしばる。

 信長は鼻で笑い、ドカッと胡座をかいた。


「コケにした覚えはない。俺はただ、算盤を弾いただけだ。……お前の軍にはもう、一粒の米もないだろう?」


 信長は懐から一枚の書状を取り出し、義元の前にバサッと投げ捨てた。


「降伏せよとは言わん。だが、ここから生きて駿河へ帰りたければ、その紙に花押を記せ。……『買い取り』の契約書だ」


 義元は震える手で書状を拾い上げる。

 そこに書かれていた条件は、過酷なものだった。今川が持つ金銀の譲渡、尾張からの完全撤退、領土の割譲、そして松平元康の独立を公式に認めること。


「……余の命を、銭で買えと言うのか」


「そうだ。武士の情けで首を刎ねてやるほど、俺は優しくないぞ。お前は国に帰り、一生、負け犬としての惨めさを背負って生きろ」


 義元は書状を握りしめ、信長の残された右目を睨み返した。

 そこに、かつて「うつけ」と呼ばれた若者の面影はない。執念と合理で国を回す、恐ろしい怪物の目であった。


「……余の負けだ。完膚なきまでにな」


 義元はついに首を垂れ、筆をとった。

 血みどろの城攻めでも、華々しい決戦でもない。天下の覇権を争った戦いは、一枚の紙切れによる「政治決着」という形で、静かに幕を下ろしたのである。


◇◆◇


 数日後。清洲城。

 今川軍が完全に尾張から退去したという報せに、城内は歓喜に沸いていた。

 税を免除された商人たちがもたらす活気で、清洲の町は以前よりもはるかに豊かになっている。


「殿! やりましたな! これで尾張は安泰でございます!」


 柴田勝家が、顔を真っ赤にして喜んでいる。

 しかし、信長は縁側に立ち、さらに遠くを見つめていた。


「安泰だと? 莫迦を言え。これはまだ、ただの始まりに過ぎん」


 信長の傍らで、濃姫が静かに微笑む。


「そうですわね。美濃の竹中半兵衛殿からも、引き続きよしなにと、文が届いております。三河の松平殿も、同盟の使者を送ってくるでしょう」


 信長は黒い眼帯にそっと触れた。

 桶狭間で失った左目。身内の裏切りで負った背中の傷。

 もし、あの日、奇襲が成功して義元の首を獲っていれば、自分は今頃、ただの「運のいい英雄」として天狗になっていたはずだ。


「……猿」


「ははッ! ここに!」


 藤吉郎が平伏する。


「次は美濃、その次は京だ。商人どもをさらに走らせろ。俺の算盤は、天下を丸ごと買い取るまで止まらんぞ」


「承知いたしましたッ!」


 信長は、からりと晴れ渡った青空を見上げ、ニヤリと口角を上げた。


「桶狭間で勝った信長は、ただの英雄。負けた信長は、天下を獲る」


 歴史のうねりが、ここから大きく形を変えていく。

 常識外れの経済力と情報網で乱世を駆け上がる。

 真の天下取りは、この「敗北」から始まったのである。


【完】


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