第1話 桶狭間、首は落ちず
永禄三年五月十九日。
空を真っ黒に塗り潰した入道雲が、激しい雷雨を吐き出していた。
視界を遮る雨のカーテンを突き破り、織田信長は愛馬を駆る。
狙うはただ一つ。田楽狭間で休息に耽る、今川義元の本陣のみ。
「かかれッ! 義元の首、我が手に持てッ!」
信長の咆哮が、雷鳴と重なった。
数に勝る今川軍も、この豪雨と奇襲には狼狽した。山あいに響く怒号と悲鳴。織田の精鋭たちが、獲物を狙う狼のごとく今川の陣へ突き刺さる。
勝った。
信長は確信していた。
目の前には、金色の輿が転倒し、慌てふためく今川の旗本たちの姿がある。
だが。
◇◆◇
「……甘いのう、織田の小倅」
低く、地を這うような声が雨音を貫いた。
信長の視線の先。
白塗りの顔に、うっすらと朱が差している。
服部小平太の槍を、自らの手で掴み取った男がいた。
今川治部大輔義元。
「海道一の弓取り」と称される男は、輿から引きずり出されながらも、その目は冷徹な光を失っていなかった。
「ぐ、あああッ!?」
小平太が弾き飛ばされる。
続いて斬りかかった毛利新介の太刀を、義元は側に転がっていた手近な抜き身で受け流した。
義元の肩口からは血が流れている。
しかし、その傷は浅い。
「者共、出会え! 織田の鼠どもを、一匹残らず叩き潰せ!」
義元の号令とともに、周囲の空気が変わった。
混乱していた今川の兵たちが、主君の健在を確認し、獣のような殺気を放ち始める。
逆に、織田軍の勢いが止まった。
刺し違えてでも首を獲る――その特攻精神は、標的が「生きて反撃してきた」瞬間に、恐怖へと変わる。
(仕損じた……!)
信長は歯噛みした。
周囲を見渡せば、山の上から今川の別働隊が続々と駆け下りてくるのが見える。
数千の敵に包囲されるのは時間の問題だった。
「退け! 退けいッ! 熱田まで引くぞ!」
信長の声は、激しい雨に掻き消されそうだった。
◇◆◇
深夜。
清洲城の奥の間で、信長は一人、濡れた具足を脱ぎ捨てていた。
左の目蓋を深く切り裂かれている。
傷口を拭う布が、どす黒い血で染まった。
(視界が……半分、見えぬか……)
視神経にまで傷が達したのか、左目の視界は酷く歪み、霧がかかったようになっている。
だが、肉体の痛みなど、今の信長にはどうでもよかった。
この一戦で、織田家は主力を失った。
何より、「今川を倒せる」という奇跡の幻想が、木っ端微塵に砕け散ったのだ。
その時。
部屋の隅に控えていた一人の若者が、震える声で口を開いた。
「殿……申し訳ございませぬ。情報の収集が、甘く……」
木下藤吉郎。
後に「猿」と呼ばれることになる男が、畳に額を擦り付けていた。
信長は、残った右目で藤吉郎をじろりと睨みつける。
その瞳には、以前のような「うつけ」の狂気はなかった。
あるのは、極めて冷ややかな、計算の光だ。
「猿、泣くな。無能を晒す時間は終わった」
信長は立ち上がり、壁に掛けられた地図を指差した。
「義元は死ななかった。だが、俺も生きている」
その頃、今川の本陣では。
肩の傷を処置された義元が、静かに、しかし冷酷に命じていた。
「織田を、根から刈り取る。駿河へは戻らぬ。このまま尾張を、余の庭とするのだ」
負けが「終わり」ではない。
地獄のような「始まり」が、幕を上げた。
信長は歪んだ視界の中で、自嘲気味に笑った。
「……面白い。武力で勝てぬのなら、この世の理すべてを使って、あの公家野郎を跪かせてやるわ」
それは、静かで深い、決意であった。




