「金で婚約者を買った不細工な女」と蔑まれ婚約破棄された商家の娘ですが、白い結婚のはずだった辺境伯に溺愛され、極北を王国一の聖地にしました
私は、ずっと――恵まれていた。
エーベル家は、王都でも指折りの大商家だった。
広い屋敷。
使用人の列。
困ったことなど、一度もない暮らし。
けれど。
それでも私は、いつも自分が“足りない”と感じていた。
妹は美しく、社交的で、誰からも愛された。
私は、地味で、不器用で、目立たない。
お金はあっても、自信はなかった。
――誰かに、選ばれたかった。
心から、必要とされてみたかった。
アルベルト・リューゲンと出会ったのは、十五歳の春だった。
王都の夜会。
壁際で一人、飲み物を眺めていたとき。
「……君、一人?」
そう声をかけてきたのが、彼だった。
端正な顔立ち。
柔らかな笑み。
優しい声。
私は、心臓が止まるかと思った。
「……は、はい……」
まともに返事もできない私に、彼は微笑んだ。
「よかったら、一緒に話さない?」
たった、それだけ。
たった一言。
それだけで、私は――舞い上がった。
(私に……話しかけてくれた……)
王都でも有名な侯爵家の跡取りが。
こんな私に。
その日から、私は彼のことしか考えられなくなった。
彼は、優しかった。
少なくとも、表向きは。
「真面目だね」
「努力家なんだ」
そんな言葉を、時々くれた。
私は、それを宝物のように抱えた。
――きっと、私を好きになってくれる。
そう信じて疑わなかった。
だから私は、父に頭を下げた。
「……お願い。アルベルト様と、結婚したいの」
何度も。
何度も。
涙を流して、懇願した。
父は困った顔をしていた。
「アコ……あちらは、望んでいないようだが……」
「それでも……! 私、頑張るから……!」
私は、必死だった。
彼を失うことが、怖かった。
この恋が終わることが、耐えられなかった。
結果。
父は、持参金と援助を条件に、婚約をまとめた。
エーベル家の財力で。
私は、“花嫁の席”を買った。
婚約が決まった日。
アルベルトは、微笑んでいた。
でも、その目は、冷たかった。
「……ありがとう」
それだけ。
喜びも、愛情もなかった。
私は、気づかないふりをした。
だって。
気づいたら、壊れてしまうから。
ーー
私は、必死に“いい婚約者”になろうとした。
彼の好みを研究し、
彼の予定を優先し、
彼の家のために勉強した。
笑顔でいなければ。
重荷になってはいけない。
そう、自分に言い聞かせながら。
でも――。
彼は、次第に距離を置くようになった。
連絡は減り。
約束は守られず。
視線は、いつも他の令嬢へ。
それでも私は、信じた。
(きっと、私の努力が足りないだけ)
ーー
そして、今夜。
王宮の舞踏会。
私は、最後の望みを抱いていた。
今日はきっと、うまくいく。
今日はきっと、認めてもらえる。
そう、信じたかった。
「――本日をもって、アコ・エーベルとの婚約を破棄する」
楽団の音が止まり。
視線が集まり。
囁きが渦を巻く。
「不細工だ」
「金で買った婚約」
「哀れね」
アルベルトは続けた。
「君は退屈だし、恥ずかしい存在だ」
「美しくない。もう一緒にいたくない」
その言葉で。
私の七年間は、すべて終わった。
しかも――。
私自身の手で、始めた恋だった。
私自身が、しがみついた結果だった。
(……私、何をしていたんだろう)
惨めで。
愚かで。
どうしようもなくて。
私は、その場で、何も言えずに立ち尽くしていた。
ーー
婚約が破棄された翌日から、王都は別の街になった。
同じ通り。
同じ店。
同じ屋敷。
なのに、空気だけが、まるで違った。
馬車を降りて歩けば、視線が刺さる。
「……あの人よ」
「捨てられたって……」
「お金で婚約したのにね」
囁きは、私の背中にまとわりついた。
以前は笑顔で迎えてくれた店主も、今はどこかよそよそしい。
「……今日は、お忙しくて」
そう言って、視線を逸らす。
茶会に招かれることはなくなった。
招待状は、ぱたりと途絶えた。
かつて親しかった令嬢たちも、私を見ると遠回りする。
――関わりたくないのだ。
婚約破棄された“傷物”と一緒にいると、自分まで評価が下がるから。
私は、次第に外出しなくなった。
窓から、賑やかな街を眺めるだけ。
笑い声が、遠い。
まるで、別世界だった。
縁談の話も、来なかった。
父は、何通もの手紙を送った。
持参金の額も、条件も、下げた。
それでも、返事はない。
あるいは、丁重な断り。
「……今回は、ご縁が……」
その言葉の裏にある本音を、私は理解していた。
――要らない。
私は、そう判断されたのだ。
ある夜、鏡の前で、私は自分に問いかけた。
「……私、何者なんだろう」
婚約をお金で買おうとした不細工な女。
元婚約者に捨てられた令嬢。
傷物になった女。
笑いもの。
それ以外の肩書きが、何も残っていなかった。
私は、布団の中で声を殺して泣いた。
誰にも、聞かれないように。
ーー
「……シュタイッチ辺境伯から、縁談だ」
父の声は、ひどく疲れていた。
書斎の窓から差し込む夕陽が、机の上の書類を赤く染めていた。
私は、その紙をじっと見つめた。
北方。
寒冷地。
戦地。
条件は、厳しい。
けれど、私は迷わなかった。
「……行きます」
父は、驚いたように顔を上げた。
「……いいのか?」
「……ここにいても、何も変わりませんから」
それは、本心だった。
王都にいる限り、私は過去の失敗として生き続ける。
それなら。
遠くへ行きたかった。
何も知らない場所へ。
出発の日。
屋敷の門の前で、私は振り返った。
育った家。
慣れ親しんだ街。
でも、そこに“私の居場所”は、もうなかった。
馬車は、静かに走り出した。
舗装された道は、やがて土道になり、
家並みは森に変わり、
緑は白へと変わっていく。
窓に映る自分の顔は、疲れて、老けて見えた。
(……ここで、終わってもいい)
そんな考えすら、浮かんだ。
ーー
辺境伯の城は、想像以上に厳めしかった。
厚い石壁。
小さな窓。
吹き荒れる雪。
まるで、戦うためだけに作られた城。
門の前で、私は深く息を吸った。
(……ここが、最後の場所)
そう覚悟した。
そこに、クスコスが立っていた。
黒い外套に身を包み、雪の中でも微動だにせず。
「……遠かっただろう」
低い声。
それだけで、少し緊張が解けた。
「……来てくれて、ありがとう」
その言葉は、ぎこちなくて、不器用で。
でも、嘘がなかった。
「無理はさせない。白い結婚でも構わない」
「……嫌なら、いつでも言ってくれ」
私は、思わず目を見開いた。
逃げ道を、最初からくれる人なんて、初めてだった。
「……ありがとうございます」
胸が、じんわり温かくなった。
自分が不細工で可愛げがないということを私は知っていたので、
私は辺境伯との関係を白い結婚にすることにした。
私は、これ以上傷つくのが怖かった。
辺境伯を愛して、また捨てられたくなかった。
ーー
数週間後。
私は、城の書庫で偶然、領地の資料を見つけた。
埃をかぶった帳簿。
古い地図。
報告書。
何気なく読んで、息を呑んだ。
(……もったいない)
温泉。
湖。
薬草の山。
雪景色。
宝の山だった。
なのに、管理が雑で、宣伝も皆無。
私は、夜遅くまで資料を読み込んだ。
紙の上に、構想を書き連ねる。
ある日、意を決して言った。
「……観光地にしませんか」
クスコスは、驚いた顔をした。
「……観光?」
「はい。王都の貴族は、こういう場所を求めています」
震える声。
否定されると思っていた。
でも。
「……君が、そう思うなら」
「任せる」
即答だった。
私は、泣きそうになった。
信じてもらえた。
それだけで、救われた。
ーー
改革は、簡単ではなかった。
雪で道が崩れ、
資金が足りず、
人手も足りない。
「無理だ」
「夢物語だ」
何度も言われた。
宿を作っては失敗し、
祭りは客が来ず、
料理は不評だった。
私は、夜ごと布団の中で泣いた。
(……また、失敗するの?)
それでも、やめなかった。
今度こそ、逃げたくなかった。
半年後、少しずつ客が増えた。
一年後、評判が広がった。
二年後、街は生き返った。
辺境は聖地のようだといわれ、
大人気の観光地になった。
笑い声が戻った。
商人が集まり、子どもが増えた。
私は、初めて誇らしかった。
ーー
ある夜。
城の塔の上で、私たちは並んで星を見ていた。
澄んだ夜空には、無数の光が瞬いている。
冷たい風が、頬をなぞった。
「……君が来てから、すべてが変わった」
クスコスが、ぽつりと言った。
「……俺は、ずっと一人で戦っていた」
遠くを見るような目。
「でも……今は違う」
ゆっくりと、彼は私を見た。
灰色の瞳が、真っ直ぐに私を映す。
「……君が、好きだ」
心臓が、大きく跳ねた。
「白い結婚でいたくない」
「……君に、触れたい」
震える声。
ぎこちなく伸ばされた手が、私の指先に触れる。
私は、涙をこらえきれなかった。
――誰かに選ばれるって、
こんなにも、温かいことなんだ。
「……私も、好きです」
そう答えると、彼はほっとしたように息をついた。
ゆっくりと、距離が縮まる。
彼の唇が、そっと近づいてきて――
私は、幸せな気持ちで目を閉じた。
ーー
私はもう、比べない。
誰かの代わりじゃない。
金で買った席でもない。
ここは、私の場所。
不器用で優しい夫と、
一緒に築いた、かけがえのない場所。
私を心から愛してくれる人と、
生きていける未来。
――それだけで、私は十分すぎるほど幸せだった。




