二人だけの暗号
ラズは、ミアのためにキッチンでコーヒーを丁寧にドリップしていた。挽きたてのコーヒーの香りが店内を包み込む。
ドリッパーに注がれるお湯の音と、琥珀色の雫がカップへと落ちる滴りが、魔法のようにミアの心を落ち着かせた。
ミニチュアの水差しのような陶器にミルクを添えて二人分のコーヒーを席に運び、ラズはミアの正面の席に座った。
「ミアちゃん。この席はね、レイが一番好きだった席なのよ。」
ミアは赤くなった目をこすりながら、レイがこの席が好きだった理由を探すように、周りをあちこちと見渡した。
「実はね、レイが亡くなる前の日、この席で二人でオープン記念のパーティーをしたの。
でね、そこで二人で暗号を作ったんだ」
「暗号……ですか?」
少し落ち着いた様子のミアに、ラズは、ほっとした笑みを浮かべて続けた。
「そう、暗号。私たちね、二人で暗号を作って遊んでたの。ほら、この店の名前も
『シャルル ラポーレ』って。聞いたことない単語でしょ?これも『特別な幸せ』って意味の暗号なのよ」
ミアは、確かに聞き覚えのない言葉に、フランス語か何かだと思っていた。
しかし、この「暗号」というフレーズに引き込まれ、ラズの話に耳を傾けた。
ラズは、あの幸せな思い出をまるで初めて語るかのように、少し微笑みながら話し始めた。
「でね、二人で料理をたべながら、『一緒』って意味の暗号を作ろうって言って、
『ファン』て暗号を作ったのよ。」
そういうとラズは、ほんの一瞬曇った表情を見せた。
ラズはあの時レイに伝えなかった思いが蘇った。
それは、ラズの中にレイと繋いだ、もう一つの命、ノアの存在のことだった。
お腹に宿っていたその命の事を、ラズはレストランオープンの日に伝えようと思っていたのだ。
しかし、レイはその日に事故に遭ってしまい、秘密は永遠へと葬られてしまった。
伝えられなかったこの後悔だけは、長い年月が過ぎても、ラズの胸の中の影を解放してくれなかった。
ラズは、はっとして、すぐに優しく微笑んで見せた。
「ねぇ、ミアちゃん。私たちもこの席で、二人の暗号作らない?」
ラズの言葉に、ミアは時が止まったような気がした。
ラズとレイが愛を紡ぐために、使ってきた大切な暗号。
それを今、ミアと一緒に作ろうとしてくれている。
「二人だけの暗号?」
ラズはにっこり笑って、うなずいた。
「例えば、そうねぇ……『輝く』って言葉暗号にしてみない?レイが守ってくれたあなたの人生、もっと輝かせなきゃね」
ミアは、驚きながらも、どこか心がときめく気がした。
「『リベル』とか、響きがきれいね?」
ミアは、ラズが作った暗号を言葉でなぞってみた。
「リベル…」
言葉を口にした途端、暗闇だった心に柔らかな光が灯った。
「そう。この暗号があれば、きっとあなたは前を向ける。レイもきっとそれを望んでるわ。」
ミアは、今ラズから手渡された暗号を決して忘れないようにと、両手を胸に当てて何度も心で唱えた。
「あと、これは二人だけの暗号だから、他の人には内緒よ?」
そういって、いたずらっぽくウィンクした。
ミアは、ラズの仕草にくすりと笑い、「はい」と先ほどよりも高い声で歯切れよく答えた。
ミアは、夕日に染まるような赤い目で、そっとラズに感謝を伝えた。
「また、一緒にお話ししててくれますか?レイさんのこととか、ノア君のこととか」
「もちろん。またいらっしゃい。当店はいつでもお客様をお待ちしておりますよ?」
ラズは、笑顔でミアに返した。
ミアは店を出て、ラズと二人で作った暗号を思い返した。
「リベル……かぁ」
ミアは、暗号を胸にレイに守ってもらったこの日々を、きっと意味のあるものにしようと心に決めて、一人帰路についた。




