2-4.先
四月。桜の花びらがまだ歩道に貼りついている頃、藍時は密かに胸を弾ませていた。
二年生になった。今度は迎える側だ。新入生を相手にする――それは自分がついに“先輩”の立場になる、初めての春だった。
大学の新歓――軽い言葉で済まされるが、実際には部やサークルの存亡を懸けた“狩猟の季節”である。
藍時が所属する"トランプ同好会"は、数あるサークルの中でもとりわけ地味だった。いや、正確に言えば、地味であることに心地良さを覚えている奇特な集団だった。
毎年の加入者は、せいぜい一人。藍時は"今年も最低一人"と密かに闘志を燃やした。ビラを刷り、掲示板に貼り、講義の後方でそっと配った。だが結果は――
新歓コンパに来たのは三人。一人は"最後にトランプを触ったのは小学生"と笑い、もう一人は"UNOは含まれますか"と真顔で尋ね、最後の一人はスマホから目を離さなかった。どう見ても“タダ飯狙い”だった。
四月も終わりに差しかかったある午後。藍時は学生会館の片隅にある同好会室へ向かった。狭く古びた部屋だが、トランプを切る音だけが心地よく響く、自分の小さな居場所だった。
ドアの前に、見知らぬ青年が立っていた。
ここ……トランプ同好会で合ってますか?
整った口調だった。黒髪をきちんと分け、目立たない服装なのに、妙に人目を引く雰囲気を纏っている。海都――そう名乗った青年だった。
その日は藍時一人しかいなかった。
あ、上がる?……いや、どうぞ上がってください。
口がぎこちなくなったのは、自分が“先輩”であることを意識したからだろう。海都は小さく"失礼します"と言い、腰を低くして部屋に入った。
それから、会話は途切れることなく続いた。
神経衰弱、スピード、ポーカー、ナポレオン。ルールの奥深さ、心理戦の妙、そしてゲームの起源――海都の知識は底なしだった。
あれは、本当は○○朝時代の兵士の間で流行した遊戯が原型で……
ジョーカーの色には、実は○○という意味があって……
一言一句が藍時の心を掴んだ。まるで風化しかけた好奇心を一つずつ掘り起こされるようだった。
その日のうちに二人はファミレスへ移動し、ドリンクバーとポテトを前に話し込んだ。気付けば深夜になっていた。
数日後。海都は正式に入会した。その場には同好会の会長央太も顔を出していた。
お、新入りか?
はい。見学して、入らせてもらうことにしました。
海都が頭を下げると、央太は頷き、デッキから数枚のカードを抜いた。
じゃあ、いきなりクイズだ。ジョーカーはどうやって生まれた?
試すような語調だが嫌味はない。
海都は微笑み、淀みなく答えた。
十九世紀のアメリカで流行したユーカーというゲームの最高の切り札――“三枚目のジャック”、ベストバウアーが原型です。その後“ジョーカー”と呼ばれるようになった。語源はユーカーから来た説もありますが……冗談を言う者、ジョークから派生したとする説の方が有力でしょうね。
……おぉ、正解。期待以上だな。どうやってそんな知識を?
央太の声には、軽やかだが探るような響きが混じっていた。海都は一瞬、視線を伏せた。
あ、あ……兄の影響です。昔から一緒に遊んでいて…気づけば深みに。ルールも歴史も、全部兄から学びました。
へぇ。いい兄貴じゃないか。
央太がそう呟いた瞬間、藍時の胸に小さな棘が刺さった。
――自分がのめり込んだのは“趣味”。彼にとっては“家族の記憶”。
その差が、先輩という立場を揺らがせた。
とにかく、トランプ同好会へようこそ。変わった奴ばかりだが、よろしく頼むな。
央太が笑い、肩を軽く叩いた。海都は素直に笑った。それから三人の関係は自然に形づくられていった。
藍時と海都は毎日のように顔を合わせ、くだらない話から戦略談義まで尽きることなく語り合った。央太は時折やってきては、ゲームに興じ、終わったあとは三人で飲みに行き、親睦を深めた。
このメンツで繰り返すゲームの中に、奇妙な安定感があった。
――だが。
ある日の帰り際、央太が何気なく漏らした一言だけが、藍時の心に長く残った。
そういやさ、あいつ……“兄に教わった”って言ったとき、一瞬どもって目が泳いでたよな。
きっと、冗談交じりの軽口に過ぎない。けれど、藍時はなぜか笑えなかった。




