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2-1.益

土曜の早朝。まだ夢の余韻が瞼の裏に揺れている内に無理やり体を揺り起こされるのは、それだけで酷なことだった。恐らく、見た目のイメージと一致していると思うが、私は朝が苦手だ。そこに三時間を超える船旅が加わるのだから、心身には一層堪える。


甲板の下で唸るエンジン音が、一定のリズムで体を震わせる。波に合わせて船は細かく揺れ、時折、大きなうねりに船体ごと持ち上げられる。そのたびに、胃の奥がきゅっと引き絞られるような感覚が走った。潮の匂いが鼻腔にこびりつき、肌には水気を含んだ風が纏わりつく。眠気はしつこく残っていたが、むしろその不快さが頭を強制的に覚醒させていた。


けれど――


事件の当事者から直接話を聞ける機会は限られている。眠気など、すぐに吹き飛んだ。胸の奥でじわじわと高揚感が広がっていく。これから得られる証言が、きっとこの事件の扉を開ける鍵になる。


私たちが声をかけたのは、デッキの手すりに寄りかかり、ひとりで海を見つめていた女性だった。潮風がカーディガンをふくらませ、頼りなげな背中をさらに小さく見せていた。振り返った横顔は、想像より若く、だが目元には確かな疲労の色が宿っていた。


 こんにちは!殺人事件コンサルタントの吉岡です。このたびはご相談いただきありがとうございます。


 ああ……あなたが。働くお母さんは大変ですね。こんな遠くまで娘さんを連れて。


 え?


思わず間の抜けた声が漏れた。耳慣れない言葉に頭が追いつかない。隣の恋さんがぴくりと反応する。ちらりと視線を寄越し、口を開きかけたが――結局、何も言わなかった。代わりに小さく咳払いをして、にこりと笑う。だが、その笑みはどこかぎこちなく、仮面のようだった。


──あーあ…


私の中で警報が鳴る。これは、あとで絶対に何か言われるやつだ。 

(私は何も悪くないのに……)


恋さんとはまだ数ヶ月の付き合いなのだが、親子に間違われたのは実は2回目だった。


 す、すみません。違いましたか……?


 いえ、ま、まあ……そんなところです!


恋さんは無理やりにでも受け流すことにしたらしい。声をわざと明るく弾ませて、空気を切り替えた。


 それより佐々木さん、事件について少しお話を伺えますか?


 ……分かりました。


佐々木彩ささき あや、二十二歳。N大学四年生。被害者・高石央太と同級生で、大学一年から同じトランプ同好会に所属していたという。


落ち着いた雰囲気を纏い、一言ごとに言葉を吟味するような口調。だが弱々しい印象ではない。むしろ、きっぱりと的確に答えるその姿勢には、彼女なりの誠実さと覚悟がにじんでいた。


黒いカーディガンの裾が潮風に揺れ、薄茶のショートヘアが横顔に自然と馴染む。装いは飾り気がなく控えめ。だが、それがかえって彼女を際立たせていた。人目を引く華やかさではなく、静かに目を離せなくさせるような存在感。


やがて、彼女の口から事件の断片が語られた。


死亡推定時刻は午前二時から四時。全員が就寝していた時間帯で、確かなアリバイを持つ者はいない。


遺体を発見したのは三人。その中には、海都の名もあった。朝食の時間になっても央太が現れず、不審に思って見に行ったのだという。発見時刻は午前八時半。


現場はユニットバス付きのプレハブ小屋。部屋は一間だけ。そこで央太は、部屋の中央に仰向けで倒れていた。死因は絞殺。だが凶器は見つかっていない。近くの海や砂浜に投棄されたのだろうと警察は見ている。


だが、それ以上に気になる点があった。


央太の体格だ。身長一八六センチ、体重九三キロ。見上げるほどの巨体。対して容疑者たちは皆、どちらかといえば細身で華奢。力任せに押さえ込み、抵抗を封じるなど、不可能に近い。


この矛盾を埋めるかのように、被害者の体内から睡眠薬の成分が検出されたとの警察からの情報があった。つまり央太は眠らされた上で命を奪われたということだ。抵抗の暇もなく、声を上げる間もなく。音も立てずに。


 動機については、何か心当たりはありますか?


 恋さんの問いに、彩は一瞬だけ視線を泳がせた。


 ……ありません。彼は誰かと揉めたり、恨まれたりする人ではなかったと思います。


静かで穏やかな口調。しかし、その瞳はどこか沈んでいた。まるで、心の奥に何かを沈め込んでいるかのように。


現場は密室。動機は不明。被害者は眠らされ、抵抗の余地もなく命を奪われた。一見すればシンプルな構図。だが、その背後には幾重もの“見えない壁”が存在している気がしてならなかった。


ちょうどその時、潮風がふっと止まり、船体が大きく軋んだ。デッキに沈黙が落ちる。誰も口を開かない時間が、不思議なほど長く感じられた。その沈黙の奥に、まだ語られていない何かが潜んでいる。私は直感的にそう思った。


──きっと、ここからだ。


最初の歪み。最初の違和感。そこに、この事件の核心へと続く道がある。


 さ、未凪ちゃん。次は誰から話を聞こうかしら?


"さっきの一件"を引きずっているのか、恋さんの声にはわずかな棘が混じっていた。私の胸に、小さなため息が引っかかる。


こうして、目的地に着くまでの時間を使い、私たちは六人の容疑者一人一人に話を聞いていった。船旅の揺れと潮風が、緊張をさらに鮮明にしていく。

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