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神座村  作者:
2/2

――もし、上巻を読み終えたあなたが、

 まだこの村のことを「怖い場所」だと思っているなら。


 下巻で描かれるのは、

 “侵される側”から “還っていく側” へと立場が反転する物語です。


 影が消え、声が混じり、

 やがて「高瀬」という名前さえ溶けていく。


 それは本当に悲劇なのか。

 それとも、疲れ切った心が選んだ、ひとつの救いなのか。


 神座村は、何も強制しません。

 ただ「帰りたい」と願った者を、静かに受け入れるだけです。


 最後のページを閉じるとき、

 あなたの中で、この村が“ホラー”として残るのか、

 “ちいさな天国”として残るのか――それは、あなたに委ねます。

第一章 


 朝になっても、胸のざわめきは消えなかった。

 あの廃屋で見た日記のことが頭から離れない。

 “聞いてはいけない”――たった一行のその文字が、

 夢の中の声みたいに脳裏で繰り返されていた。


 部屋の空気は朝のはずなのに、湿って重い。

 外からは村人たちの笑い声が聞こえる。

 昨日と同じ声、同じ調子。

 まるで録音を再生しているみたいに規則正しい。


 机の上に置いた荷物を探っていると、

 見覚えのないノートがひとつ入っていた。

 古びた表紙、角が擦れている。

 昨夜、確かにこんなものを持ち帰った覚えはない。


 恐る恐る開くと、中の文字がところどころ滲んでいる。

 けれど、読み進めるうちに奇妙な既視感が広がった。


 > 「この村はやさしい。

 >  みんな笑って迎えてくれる。

 >  夜になると川の方から声がするが、怖くはない。

 >  むしろ懐かしい気がする。」


 胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 “懐かしい”――その言葉が、どこかで引っかかる。

 さらに読み進める。


 > 「村の人たちは言う。

 >  “ここでは誰も死なない。ただ形を変えるだけだ”と。

 >  それがどういう意味か、少しずつわかってきた気がする。」


 その文字を読んだ瞬間、手が止まった。

 行間にこびりついた泥のようなシミを指でなぞる。

 それはまるで、湿った土を触っているような感触だった。


 ページの端に、小さな落書きのような絵があった。

 ――カエル。

 丸い目が二つ、簡単な線で描かれている。

 けれどその筆跡は、見覚えがあった。

 日記帳の文字も、落書きの線も。


 まるで、俺の字だ。


 喉の奥がつまったように息ができなくなる。

 ノートを閉じた手のひらが、汗でじっとりと濡れていた。


「……なんだ、これ」


 思わず呟く。

 けれど声が自分の口から出た瞬間、どこか他人の声のように聞こえた。

 低く、湿って、喉の奥で“クゥ”と鳴るような音を混じらせながら。


―――――――――――――――――


第二章


 その夜、またあの声がした。

 眠りの底から引きずられるように目を覚ますと、

 障子の向こうで、かすかに“俺の名”を呼ぶ声がする。


 水の底で鳴るような、泡立つような声。

 けれど、それがなぜか懐かしかった。

 遠い昔に誰かが優しく呼んでくれたような――そんな響き。


 外に出ると、村は深い闇に沈んでいた。

 風も、虫の音もない。

 けれど不思議と怖くはなかった。

 むしろ、帰り道を思い出したような安心があった。


 足が自然に、あの廃屋へ向かう。

 途中、道端に光るものが見えた。

 小さなカエルが一匹、こちらを見上げていた。

 その目の奥に、淡い光が灯っている。

 まるで「こっちだよ」と導くように、跳ねて先を行く。


 廃屋の前で足が止まる。

 昨日よりも湿った空気。

 扉に手をかけると、冷たいのに、どこか懐かしい。


 中に入ると、土と水の匂いが全身を包みこんだ。

 奥の闇の中に、人影がしゃがんでいる。

 肩が震えていた。


「……誰だ」


 声をかけると、影が振り向いた。

 濡れた頬、泥に汚れた髪。

 それは、俺の顔だった。


 俺は息を呑む。

 その“もう一人の俺”が、穏やかに微笑んだ。


「やっと戻ってきたね」


 その声を聞いた瞬間、

 胸の奥のざわめきがすっと消えた。


 背後で、村人たちの提灯が灯る。

 誰もが優しく微笑んでいた。


 「おかえりなさい」

 「もう、だいじょうぶですよ」


 彼らの声が重なるたび、心が溶けていく。

 恐怖も疑いも、もうどうでもよかった。

 この光に包まれているだけでいい。

 柔らかく、温かく、心地いい。


 ふと、足元で水が跳ねた。

 覗きこむと、小さなカエルが一匹、俺を見上げていた。

 その丸い目の中に、夕暮れの村と、笑う人々が映っている。

 それを見て、なぜか涙が出た。


 ――ああ、やっと帰ってこられた。


 自分でも理由はわからない。

 ただ、その思いだけが胸いっぱいに広がっていった。


 光がゆっくりと白に変わっていく。

 全てがやさしい音に包まれて、

 やがて、世界は静かに“鳴いた”。


 “クゥ……クゥ……”


 それはまるで、祈りのように美しい声だった。


―――――――――――――――――


第三章


 朝だった。

 眩しい光が差し込み、鳥の羽音が聞こえる。

 昨日とまったく同じ光景。

 ただ、空気の匂いだけが少し違っていた。

 甘く、濃く、どこか湿っている。


 外に出ると、村人たちはまた笑っていた。

 昨日と同じ位置で、同じ言葉を交わしている。

 まるで、舞台の上で同じ場面を繰り返しているようだった。


「おはようございます」

「いい朝ですね」

「ええ、まったく」


 声の抑揚、笑顔の角度、呼吸の間――

 すべてが、昨日と寸分違わなかった。


 その時、背後の森の方から鳴き声がした。

 “クゥ……クゥ……”

 今まででいちばんはっきりと聞こえる。

 まるで、俺を呼んでいるようだった。


 足は自然と、森の奥へ向かっていた。

 木々の間を抜けると、小さな祠があった。

 苔むした屋根、崩れかけた石段。

 周囲だけが生きているように湿っている。

 そしてここには――音があった。


 カエルの鳴き声。

 無数の声が重なって、まるで祈りのように響いている。

 村の中心ではもう聞こえなくなった音だ。


 祠の前に、古びた木札が立っていた。

 泥を拭うと、掠れた文字が浮かび上がる。


 > 「還る者、笑う者」


 その言葉を見た瞬間、背後から声がした。


「ようやく、思い出しましたか」


 振り返ると、村長が立っていた。

 昨日と同じ笑顔。

 けれどその目だけが、底知れないほど静かだった。


「ここはね、“帰る場所”なんですよ」


「帰る……?」


「ええ。みんな疲れてしまったでしょう。

  都会のことも、人の声も、全部。

  だから、ここに来る。

  そして――形を変えて、やり直すんです」


 村長は祠の奥を指した。

 そこには、浅い池があった。

 水面がゆっくりと揺れている。

 その中で、無数のカエルが穏やかに浮かんでいた。

 どの顔も、どこかで見た気がした。


「……これが、村の人たち?」


「ええ。みんな笑っているでしょう?」


 確かに、カエルたちは口角を上げていた。

 それは“微笑”というよりも、“安堵”の表情だった。


 村長が言葉を続ける。


「あなたも、前にここにいましたよ。

  そして、一度“帰った”。

  けれど、また疲れて戻ってきたんです。

  だから、またここで休めばいい」


 胸の奥がひどく温かくなった。

 まるで、遠い昔に母親の腕の中に戻ったような感覚。

 思い出す。

 あの日記も、あの声も、全部――俺自身のものだった。


「聞いてはいけない」


 そう書いたのは、前の俺だ。

 けれど今は、聞こえる。

 聞こえてしまった。

 この優しい声が、心の底から。


 池の方を見る。

 カエルの一匹がこちらを見上げた。

 その目の中に、俺の顔が映っている。

 そして、小さく鳴いた。


 “おかえり”


 涙が頬を伝った。

 笑っている自分に気づいた。

 どこまでも穏やかな、やわらかな笑み。


 村長の声が遠くで響く。


「ここでは、誰も悲しまない。

  みんな、帰るだけなんですよ」


 光が差し込み、池が眩しく輝いた。

 音がすべて溶けていく。

 その白い世界の中で、

 俺は静かに、深く、息を吐いた。


 ――そして、世界は“鳴いた”。


―――――――――――――――――


最終章


 朝の光が障子を透かして部屋に満ちていた。

 眩しいはずなのに、今日は目を細めることもなかった。

 光はあたたかく、やさしく、俺の全身を包みこんでいる。


 川のせせらぎ、鳥の羽音、村人たちの笑い声。

 すべてが調和していた。

 昨日まで感じていた違和感は、もうどこにもなかった。


 外へ出ると、村長が立っていた。

 にこやかに微笑みながら言う。


「おはようございます。今日から、あなたもこの村の一員ですよ」


 俺は自然に頷いた。

 その言葉が、胸の奥に静かに染みこんでいく。


 川辺に行くと、カエルたちが鳴いていた。

 その声が心地よくて、耳を澄ませる。

 ひとつ、ふたつ、そして無数に重なりあう声。

 まるで村そのものが歌っているようだった。


 ふと、水面に目を落とす。

 そこに映っていたのは、自分の顔。

 でも、少しだけ違う。

 輪郭がやわらかく、目が丸く、肌が水のように透けていた。

 それでも、それが俺だとすぐにわかった。


「……きれいだ」


 呟いた声は、どこか湿っていた。

 けれど、嫌な感じはなかった。

 安らかで、心地よく、まるで世界とひとつになったようだった。


 遠くで、子どもたちの笑い声がした。

 村は今日も穏やかだ。

 時間は流れず、ただ光だけが優しく降り注いでいる。


 ――その頃。


 村の外れの道に、一台の軽トラックが停まった。

 降りてきたのは、疲れた表情の男。

 都会の埃をまだ背中に背負っている。


「ここが……神座村、か」


 男は深呼吸をした。

 空気は澄んでいて、土の匂いが懐かしい。

 村長が笑顔で歩み寄ってくる。


「ようこそ。ここでは、ゆっくり休めますよ」


 男が軽く会釈すると、足元に何かが落ちていた。

 古びたノート。

 表紙は泥で汚れ、ところどころ破れている。


 拾い上げて、そっと開く。

 最初のページには、滲んだ文字でこう書かれていた。


 > 『聞いてはいけない』


 風が吹いた。

 ページが一枚、勝手にめくれる。


――高瀬の日記――


「一日目」

村に着いた。山に囲まれた静かな場所だ。

空気がきれいで、人も穏やかだ。

夜、川の方から鳴き声がする。

カエルだろう。懐かしい音だ。


「二日目」

村人たちが優しい。

子どもたちの笑い声が絶えない。

影が薄い気がするが、疲れているだけだろう。

夜、鳴き声が少し近づいてきた。

まるで呼ばれているみたいだ。


「三日目」

川のそばに古い祠がある。

誰も近づかないらしい。

祠の前で小さなカエルを見た。

俺を見て、鳴いた。

その声が胸に響いた。

懐かしくて、安心する音だった。


「四日目」

朝、影がなかった。

誰も気にしない。

俺も気にならなくなってきた。

村の味噌汁は少し塩辛い。

それが、だんだんおいしく感じる。


「五日目」

夜、また祠へ行った。

カエルが増えている。

皆、こっちを見ていた。

鳴き声が耳の奥で響く。

それは言葉みたいだった。

「おかえり」と、そう聞こえた。


「六日目」

手のひらが冷たい。

皮膚がしっとりしている。

朝日がやけに眩しい。

けれど、心は穏やかだ。

女将が言った。「もうすぐですね」と。


「七日目」

夢を見た。

川の底に村があった。

人の形をしたカエルたちが笑っていた。

俺も笑っていた。

息ができる。苦しくない。

光が、やさしい。


「八日目」

祠の前で目が覚めた。

村の声が水の中から聞こえる。

名前を呼ばれた気がする。

“高瀬”という音が、だんだん溶けていく。

もう一度鳴いた。

とても、幸せな気分だった。


――


 ページの最後には、

 にじんだ丸い水跡のようなものがあった。

 それは、まるでカエルの小さな足跡のようだった。


(完)

ここまで読んでくれて、本当にありがとう。


 「神座村 下」では、

 上巻で“異物”だった高瀬が、

 少しずつ「この村側の存在」へと変わっていく過程を書きました。


 ホラーとして読めば、

 現実から逃げて“カエルになる”という、

 どうしようもなく不気味な結末かもしれません。


 でも同時に、

 「もう頑張れない人が、静かに休める場所」として読むこともできます。


 神座村は、決して人を追いかけてはこないし、

 誰かを無理やり引きずり込んだりもしません。

 ただ、疲れて迷い込んできた人に

 「おかえり」と言うだけの場所です。


 この物語が、

 「怖かった」と感じた人にとっては純粋なホラーとして、

 「少しだけ救われた」と感じた人にとってはささやかな祈りとして、

 どちらの顔も持ち続けてくれたら嬉しいです。


 もし現実が苦しくなったとき、

 ふと神座村のことを思い出したなら――

 そのときは、どうかページの中だけで訪れてください。

 “聞いてはいけない”声は、物語の向こう側にだけあればいいから。


 読んでくれて、ありがとう。

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