上
──山深く、地図にもほとんど載らない場所に、人知れず佇む村がある。
その名を**神座村**という。
これは、偶然その村へ迷い込んだ一人の男が体験した、
“静かに、しかし確実に侵されていく日々”の記録である。
都市の喧騒から逃れるために選んだ旅先が、
人と自然と境界の曖昧な世界だったと知ったのは──
戻れなくなりかけた頃のことだった。
もし、あなたがこの先を読み進めるのなら、
どうか夜には読まないほうがいい。
音が……すこし、寄ってくるから。
一章
山を三つ越えた先に、その村はあった。
カーナビの案内は途中で沈黙し、あとは地図も頼りにならなくなった。
細い舗装路を抜けると、霧が急に濃くなり、窓の外は白一色になった。
ハンドルを握る手に汗が滲む。けれど、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、あの都会の騒音から遠ざかっていくことに、安堵を覚えていた。
霧の向こうから、最初に聞こえてきたのはカエルの声だった。
低く、湿った音が、まるで土の底から響いてくるようだった。
川のせせらぎと重なり合い、それがこの村の“呼吸”のように感じられた。
やがて霧が少し晴れ、盆地の底に、古びた屋根が点々と見えた。
瓦の間から草が伸び、畑の土は黒く濡れている。
空気はやけに甘く、花のような香りがした。
それは心を落ち着かせるはずなのに、どこか鼻の奥に残る。
「ここが……神座村、か」
思わず声に出すと、霧の向こうで何かが返事をしたように思えた。
風の音か、それとも誰かの声か、判断がつかない。
村に入ると、最初に目に入ったのは木の立札だった。
表には“神座村”と墨で書かれている。
裏面を何気なく覗くと、真っ白だった。
まるで名前を持たない誰かの名札のようで、なぜか心がざわついた。
古びた民宿の前で車を止めると、年配の男がゆっくりと近づいてきた。
「ようこそ、遠いところを。狩野と申します。この村の……まぁ、まとめ役のようなものです」
柔らかな笑みと、焦点の定まらない瞳。
どこか“笑顔を覚えている顔”のようで、少しだけ違和感があった。
彼に案内され、細い路地を抜け、俺は小さな平屋に通された。
茅葺き屋根の下、軒先には白い花が吊るされている。
風が吹くたびに、花弁がわずかに震え、鈴のような音を立てた。
「穏花です。この村ではどの家にも飾るんですよ」
そう言って村長は、にこやかに頭を下げた。
その夜、窓を少し開けて外気を吸うと、蛙の声が一斉に鳴き始めた。
懐かしい田舎の音――そう思ったのも束の間、
その合間に、かすかに混じる“人の声”があった。
呻くような、泣くような、あるいは笑っているような。
耳を澄ますほどに、それははっきりとしていった。
だが、疲れが出始め瞼が重くなっていた俺は、
「きっと風の音だろう」
と自分に言い聞かせ、布団にもぐり込んだ。
眠りに落ちる直前、ふと気づいた。
――蛙の声が、ひとつも聞こえなくなっていた。
⸻
二章
翌朝、外に出ると、空気がひんやりとしていた。
山に囲まれた盆地のせいか、陽の光が届くまで時間がかかるようだ。
軒先に吊るされた穏花が、夜露を吸って白く濁っている。
指先で触れると、花弁は冷たく、少しだけぬめりがあった。
朝食をとりに村の共同食堂へ向かうと、数人の村人がもう集まっていた。
皆、穏やかな笑顔で「おはようございます」と声をかけてくる。
その声が、妙にそろっていることに気づく。
まるで同じ人の声を、何人かで分け合っているようだった。
木の椀に盛られた味噌汁を啜る。味は悪くない。
けれど、具が何なのかよくわからない。
豆腐のようで、少し弾力があり、噛むと微かに土の匂いがした。
「この味噌汁、独特ですね」
と言うと、隣にいた老婆がにこりと笑った。
「村の味ですよ。きっと気に入ります」
そう言ったきり、老婆は同じ姿勢のまま動かなくなった。
まぶたを閉じたまま、穏やかに微笑んでいる。
俺は、箸を持つ手をゆっくりと下ろした。
昼過ぎ、村長の狩野が訪ねてきた。
「昨夜は、よく眠れましたか?」
「ああ……まぁ。ただ、夜中に少し、声が聞こえたような」
狩野の笑顔が、わずかに固まった。
「声?」
「カエルの鳴き声に混じって、うめきみたいな……」
「この辺りは湿地が多いですからね。風の通り道で音が響くんですよ」
そう言って、まるで安心させるように笑った。
けれど、その目だけは笑っていなかった。
村の午後は、驚くほど静かだった。
風の音も、虫の羽音もない。
遠くで子どもたちの声がしたと思ったが、それもすぐに消えた。
時間の流れが、少し遅れているような感覚。
庭の向こう、川沿いの広場に目をやると、子どもたちが数人集まっていた。
彼らは手をつなぎ、円を描いて歌をうたっていた。
♪
かえろう、かえろう、かわのした
みずのむこうは、あおいそら
まるくなって、ねむるだけ
♪
同じ節を、延々と繰り返している。
子どもたちの表情は明るく、みな楽しそうに笑っていた。
けれど、その笑顔が不思議と同じ角度で、同じ瞬間に生まれることに気づいた。
まるで、誰かが見えないところで合図を送っているように。
まぶたの裏にその旋律が残り、頭の中で響き続けた。
ふと視線を感じて顔を上げると、歌の輪の中の一人の少女がこちらを見ていた。
じっと、まばたきもせず。
その瞬間、全員が同時に歌を止めた。
川面に風が走り、穏花の花弁がひとつ、水に落ちる。
まるで合図のように。
その晩、外が薄暗くなりかけたころ、戸を叩く音がした。
出ると、昼間見かけた少女が立っていた。
どこか遠い目をしていて、声はとても小さかった。
「夜は……耳を、ふさいでください」
そう言うと、少女は頭を下げて、霧の中へと消えた。
呼び止める間もなく、白い花びらだけが足元に残された。
夜になると、俺は不安を感じて耳栓を探した。
見つけた古い綿を丸めて耳に詰める。
だが、すぐに気づいた。
――音がする。
耳栓の向こう側から、かすかな鳴き声が響いている。
遠くのようで、すぐ近くのようで、境界がない。
それはやがて、鳴き声ではなく、呼吸のように聞こえはじめた。
最初は、何かを言っているように思えた。
けれど、すぐにそれは形を失った。
母音だけが残り、ゆるやかに溶けていく。
まるで水の底で誰かが息をしているような音。
次の瞬間、すべての“言葉”が消えた。
鳴き声と、人の呼吸と、水の泡――その境目がなくなった。
夜気が少し震え、霧が窓を撫でた。
しん、とした。
それなのに、耳の奥にはまだ何かが残っていた。
かすかに、ほんの一瞬だけ。
――ぽちゃん。
それは、遠くの水面に何かが沈んだ音だった。
三章
目が覚めた。
眩しいほどの光が障子を透かして部屋に満ちていた。
外からは、川のせせらぎと鳥の羽ばたく音が微かに聞こえる。
昨日の夜のことが夢だったように、部屋の空気は穏やかで澄んでいた。
布団から起き上がると、木の床がほんのり温かい。
山あいの朝にしては、やけに陽の力が強い気がした。
窓を開けると、村のあちこちから笑い声が聞こえてくる。
昨日と同じように穏やかで、昨日と同じように楽しげな声。
遠くの畑では、男たちが鍬を振るい、女たちが籠を抱えて立ち話をしている。
俺が顔を出すと、数人が手を振ってくれた。
反射的に俺も手を上げた――
俺の影がどこにもなかった。
眩しさのせいかと瞬きをしてみたが、やはり見えない。
代わりに、畑の男たちや女たちの影は、確かに地面に落ちている。
俺の立つ足元だけが、まるでそこに “光の穴” が開いているように白く抜けていた。
「……おかしいな」
独り言のようにつぶやいた声は、空気に吸い込まれるように消えた。
鳥の声が聞こえないことに気づいたのは、その少し後だった。
羽音は確かにするのに、鳴き声がない。
村の屋根を滑るように飛んでいく影が見えるが、音がない。
まるで音というものが、この村の朝からそっと取り除かれてしまったようだった。
気を紛らわせるように外へ出る。
風が頬をなでていく。冷たさが心地よい。
通りを歩くと、いつものように村人たちが声をかけてくれた。
「おはようございます」
「いい天気ですね」
その声の抑揚がどこか同じに聞こえる。
まるで同じ声が何人もの口から出ているような、そんな感覚だった。
村の中心にある食堂の戸を開けると、香ばしい味噌の匂いが漂ってきた。
カウンターには数人の村人が座っていて、笑いながら箸を動かしている。
「おはようございます」
俺が挨拶すると、女将がにこやかに顔を上げた。
「おはよう。昨日と同じでいいかい?」
俺は頷いた。
出てきたのは、味噌汁と焼き魚、そして山菜の和え物。
昨日とまったく同じ献立だ。
箸をつけると、ほんの少しだけ塩気が強い。
その違いが、どうしてか胸の奥をざわつかせた。
「おいしいですね」
と言うと、女将は柔らかく笑った。
「ええ、この村の味ですから」
その笑顔を見ていると、急に背筋が冷たくなった。
まるで彼女の顔が一瞬だけ、別の誰かの顔にすり替わったような気がした。
食堂を出ると、広場の方からかすかに歌声が聞こえた。
昨日、子どもたちが歌っていたあの旋律だ。
足が自然とそちらへ向かう。
しかし、広場に着いた時には誰もいなかった。
風が吹き抜け、川の水面がきらめいている。
穏花の花がいくつも流れていた。
花の隙間に泡がひとつ、ぷくりと浮かび上がり、弾けた。
「……?」
耳の奥で、かすかに自分の名前を呼ぶ声がした。
振り返っても、誰もいない。
風の音すら、どこか遠くに押しやられている。
日が昇るにつれて、光はさらに強くなった。
影がどこまでも薄くなり、空気の輪郭が曖昧になる。
村全体が白く溶けていくような、そんな錯覚を覚えた。
昼過ぎ、村の道を歩いていると、ちょうど村長とすれ違った。
「調子はどうだね、高瀬さん」
穏やかな笑顔。
その背後で、虫の声ひとつしない。
俺は思わず昨夜のことを尋ねた。
「夜中に、川の方から声が聞こえたんですが……」
村長はしばらく考えるふりをして、静かに首を振った。
「夢でも見たんでしょう。この村は静かですよ」
そう言って笑ったその顔が、光に溶けていくように見えた。
俺がまばたきをしたときには、もう彼の姿は少し離れた場所にあった。
夕方になり、家へ戻る。
部屋の中は朝と同じ明るさのままだった。
まるで太陽が一日中、真上から差し込み続けているように。
夜になっても、部屋の明るさはほとんど変わらなかった。
障子の向こうの闇が、どこか薄い。
まるで光と闇の境目そのものが、少しずつ滲んでいくようだった。
布団に横たわっても、眠気は訪れない。
代わりに耳の奥で、湿った音がゆっくりと膨らんでいく。
「クゥ、クゥ……」
昨日よりも近い。
それは確かに、川の方から聞こえてくる。
カエルの鳴き声――のはずなのに、どこか人の声に似ている。
誰かが、苦しそうに喉の奥でうめいているような。
胸の奥がざわめいた。
このまま寝てしまえば、またあの声が夢に入り込んでくる気がした。
俺は上着を羽織り、そっと戸を開けた。
外の空気はぬるかった。
昼の白い光が、まだ村のあちこちに残っている。
月がないのに、夜は薄く明るい。
影が、どこにも落ちていない。
「……川の方か」
足音を殺して歩く。
草の匂いが濃い。
湿った土の感触が足裏から伝わる。
鳴き声は、途切れず続いていた。
まるで道を示すように。
やがて、森の奥にぽつんと黒い影が見えた。
昼間、遠くから見えた廃屋だった。
屋根の板は落ち、窓は割れ、風が通るたびに柱が小さく軋む。
なのに、戸口の隙間から淡い光が漏れている。
呼吸を忘れるほどの静けさ。
近づくにつれ、鳴き声は一匹分の音に変わった。
足元の石の上に、小さなカエルがじっと座っている。
光を反射する黒い瞳が、こちらを見ていた。
その視線に、なぜか温かさのようなものを感じた。
敵意ではなく、どこか“満足した人間の目”のように見えた。
その瞬間、戸口の隙間から光がふっと消えた。
空気が冷たくなり、森のざわめきが止む。
気づけば、あのカエルもいなかった。
俺は戸を押した。
重い音とともに、家の中からひんやりとした空気が流れ出る。
中は想像していたよりも整っていた。
崩れた家具の中に、ひとつだけ埃のない机がある。
その上に、一冊のノート。
明かりのない室内で、それだけがぼんやりと白く浮かんで見えた。
恐る恐る手を伸ばし、開く。
紙は乾いている。
だが、ページをめくるたびに指先がじっとりと濡れていくような感覚があった。
最初の数ページは真っ白だ。
ただ、何かがそこに「書かれていた跡」だけが、うっすらと浮かんでいる。
最後のページに、黒いインクで一行だけ。
――聞いてはいけない。
瞬間、背後から「クゥ」と鳴き声がした。
それはもう、カエルの声ではなかった。
人が、何かを堪えるように喉を震わせる音。
振り返ったとき、誰もいなかった。
けれど、床の上には濡れた足跡が続いていた。
それは、まっすぐ俺の足元で止まっていた。
影が消える理由、村人たちの“同じ声”、
穏花の正体、そして川辺の歌──
まだすべては表には出ていない。
この村で起きていることは、“ほんの入り口”にすぎないからだ。
主人公・高瀬が見たものは、
まだ “村が見せていい範囲” の現象だけ。
本当の怪異は、もっと深い場所にある。




