マニキュア
彼女の指先が喫茶店のやわらかな照明の下できらきらと輝いていた。ラメ入りのマニキュアを塗っているらしい。薄い桃色が彼女の上品な雰囲気によくなじんでいた。彼女の指先に見とれていたのも束の間。はっとした僕はそのまま床が抜け落ちるかのように絶望へと突き落とされた。変わっていたのは指先だけでは無かった。彼女の服装ははいつもよりも洗練されたものであった。それはただ同じ喫茶店の常連客で、たまに会話するような関係だけの人物のためではないだろう。ああ、きっと彼氏のためだ。この後デートなのだろうか。もう会った後?そんな考えが頭によぎっては消えていく。もしデートなのだとしたら、きっと彼と映画を一緒に観て、ショッピングモールで買い物をして。彼女が選んだ服を彼氏が微笑みながら似合ってるよなんて言うんだろう。それを聞いて口元を持っている服で隠しながら照れる彼女。もしかしたらそのマニキュアも…?彼女のいつもの服装も…?
コーヒーカップを両手で持ちながらぐるぐると妄想を巡らせる。本当は口にコーヒーを含ませようと思って手に取ったのだが、ふとカウンターテーブルの僕の横に座る彼女の指先が目に入ってしまいつい妄想に耽ってしまった。自分勝手でありきたりな妄想でいろんな意味で気分が落ち込んだのでそのままカップは机に戻した。
もちろん、いままでのは全て妄想である。彼女のデート風景なんて見たことないし、そもそも彼氏がいるのかすら知らない。だって仕方ないじゃないか。彼女が僕のことを好きになること自体、絵空事なのだから。きっと彼女は僕じゃないべつの…僕の知らない男と付き合うのだろう。
「もしもーし」
急に声をかけられて、はっとして顔を横に向けた。席一つ分開けたカウンターテーブルの先で彼女が手を振っていた。
「ぼーっとしていたけど、考え事?」
気楽な調子で彼女は僕に尋ねた。
「えっと、はい。そんな感じです。」
「あんまり良くないよ、一人で考え込むの。どうしたの?」
「えっ、えーと…。」
唐突に始まった彼女の会話にたじたじになってしまった。頬を搔きながら、ちらり、と彼女のカップに添えた指先を見た。
「今日は、マニキュアを塗っているんですね?」
彼女の話を逸らしながら、僕はマニキュアのことについて触れた。
彼女はぱっと花が開くように嬉しそうに笑った。
「気づいてくれたの?そうなの。地味な色だけど、ラメが可愛いよね。」
彼女は僕にマニキュアを塗った両手を見せるように前に出した。
「すごく、似合ってると思います。」
僕は内心汗だくになりながらかねてから言おうと思っていた決め台詞を言った。彼女はたまらなくうれしそうな顔をしてふふふと笑い声を零した。
「ほんとはね、買うつもりは無かったの。ただ、薬局でマニキュアの売り場があってあなたを思い出したの。そしたら、いつのまにか買っちゃった。」
「え?」
彼女の言葉に僕はひどく動揺した。じんわりと背中に淡い期待が滲んだ。
「どうして、ですか?」
彼女は目の前のコーヒーに視線を移して少し照れながら言った。
「あなたっていつもおしゃれなマニキュアをしているじゃない。私もそんな風にしてみたいな、って。」
そして、彼女は意を決したように僕の方に顔を向けると、そのまま横移動で僕の方に席を詰めてずいっと距離を詰めた。急に近くなった彼女のきれいな顔に僕は言葉を失った。
「ねえ、お願いがあるの。」
「私の、お友達になってほしいの。」
「え?」
「だって、同じ喫茶店の常連客で、女の子同士だもの。私ずっとあなたと仲良くしたいって思っていたのよ。」
そう言って彼女は僕ににこりと微笑んだ。相対して、僕は内心酷い罪悪感に苛まれた。なにかズルをしているような気がした。だが、彼女の無垢な笑顔から滲む優しさに縋りたいと思ってしまった。
僕は彼女と一緒に微笑んだ。ぎこちない笑顔だったかもしれない。それでも彼女は僕が友達になりたいというお願いを承諾したように受けっ取ったようだった。
コーヒーは冷めた。僕のカップにはただの苦くて生ぬるい液体が残った。