迷子札
夏の盛りの暑い日だった。どこからか入り込んだ蚊が、ぶんぶん飛び回っている。蚊取線香を出そうとした僕を、ばあちゃんが止めた。
「なんで?」
「今日は終戦の日だからね。無益な殺生はしたくない」
「そっか」
じいさんが亡くなって、数ヶ月経っていた。ばあちゃんも歳で足腰が弱っているから、僕が遺品整理を任された。じいさんがとっておいた品物をあれこれと引っ張り出す。古い本や写真がほとんどだ。遺品をひとつひとつ確認していると、その中に古びた名札を見つけた。分厚くてしっかりした手触りの、布でできた名札だった。
「なにこれ?」
「迷子札だねぇ」
迷子札には、住所と名前、年齢、血液型が墨で書いてある。二十五歳……今の僕と近い年齢だ。
「ええ? こんな歳で迷子になる?」
思わず笑ってしまった僕に、ばあちゃんはゆっくりと答えた。
「空襲に遭っちゃうと、顔がわからなくなっちゃうことがあるから。ご遺体がちゃんと家族の元に帰れるように、迷子札をつけてたのよ」
思ってもみなかった答えに、僕は言葉を詰まらせた。じいちゃんが名前札を大切にとっておいた理由がわかるような気がする。そっと机の引き出しに戻す。
先ほど笑ってしまったことを恥じて「ごめん」と小さく伝えると、ばあちゃんは首をゆっくりと横に振った。
「おじいさん、びっこひいてたでしょう。だから徴兵はされなかったんだけどね」
そのとき、テレビの中から追悼のサイレンが聞こえてきた。ばあちゃんはテレビに向き直り、静かに手を合わせた。僕もその隣で、そっと手を合わせる。
セミの鳴き声が、汗がじわじわと浮かぶように、耳の奥に染み込んでいった。
【おわり】
正午の黙祷に間に合うように、11時30分の投稿にしました。
この作品を読まれた方が、一人でも手を合わせてくれますように。
網笠せい