06. 実験:触れ合い
大衆浴場の処置室でラモン先生のお手伝いをするようになり、数日が経った。
事前に先生が零していたとおり、あの処置室に駆け込んでくる患者は存外多い。そのすべてが食べていくのが精一杯である貧困層の人々だ。
彼らと接していて気づいたのは、わたしが教会で治癒を施していた平民とはやはり違う階層の人なのだという事実だった。
髪や肌、身なり、話し方が違った。
教会に来ていた人たちは裕福な層の人々だったのだなと改めて感じる。同時に神のもと人は平等と説いているはずの教会への不信感が強まってしまった。
ちなみにラモン先生は治療費を金銭では受け取っていない。畑で採れた野菜など心ばかりの御礼を貰うだけのようだった。
それで処置室を運営していくのに問題はないのか尋ねてみたところ、なんと領主であるフィアストン公爵様がこっそり援助してくれているのだという。
ラモン先生が神官だった頃に面識があったことが縁だそうだ。街の治安維持の一環として意義のある場所だと領主様自らが認めてくれているらしい。
……領主様は素晴らしい方なのね。
善政を敷くフィアストン公爵様に頭が下がる思いだ。
そして本日。
その偉大なる領主様のご子息であり、宮廷魔法師団の団長でもあるレイビス様がいよいよ約一週間ぶりに訪ねてくる日だった。
もちろん実験の二回目を行うために。
◇◇◇
「ではさっそく検証を始める」
「は、はい……」
一回目の時と同様、レイビス様はわたしの隣に座ると、実験開始の合図を告げた。
まだ始まってもいないのに、息づかいが聞こえてきそうな距離間にドキドキしてしまう。
わたしは必死に心を落ち着かせながら、少し上擦った声で返事をした。
……今日はなにをするんだろう……?
前回の見つめ合いだけでも相当心に負荷がかかった事実を思うと、未知なる行為にどうしても恐れを感じる。
「前回の実験により、距離感が重要であることが分かった。近いほど好反応が得られる兆しがある。そこで今回は身体的な接触を試してみたいと思う」
身体的な接触。
その一言にわたしは思わずゴクリと唾を呑み込んだ。
この前、最後にレイビス様がそれらしきことを漏らしていたので、まさかと思っていたが、そのまさかだった。
……わたしとレイビス様が触れ合う? 嘘でしょう……?
雲の上のような存在のこの高貴な人に触れるだなんて恐れ多すぎる。
そんなわたしの心情を慮ることはもちろんなく、レイビス様は機械的な動きでわたしの方へ手を伸ばしてくると、膝の上に乗せていた手に触れた。
わたしの手の上にに大きな手が重なる。
自分の体温より低いひんやりとした感触を手の甲から感じ、わたしはビクリと体を震わせた。
「ティナは体温が高いな」
「そ、そうですか? 普通だと思います」
「治癒魔法は手から発せられるのだろう? なにか感じるか?」
「い、いえ。特に変化はないです」
レイビス様は無表情のまま、淡々と質問を投げかけてくる。
手に触れるなど大したことではないという態度だが、一方のわたしの心の内は大混乱だ。
治癒行為などを除けば、いまだかつて男性にこんなふうに触れられた経験などなく、どうしていいのか分からない。
……レイビス様は慣れているから平然とされているのだろうけど、わたしは今にも卒倒しそう……!
でもこれは実験だ。
そう、実験なのだ。
目的があって実行する行為、つまり治癒行為とさして変わらないはずだ。
……処置をする時に触れるのを躊躇うことはないものね。うん、それと一緒! だから落ち着かなきゃ……!
わたしは瞼をギュッと閉じ、こっそり息を細く吐き出す。
深呼吸をしてなんとか心を整えようとしていたのだが、そんなわたしを嘲笑うかのように、レイビス様は次なる行動に出た。
重ねられていた手が離れたかと思うと、次の瞬間、指を絡めて手を握ってきたのだ。
「………ッ!」
不意打ちで訪れたさらなる接触に、わたしは声にならない声を零した。
先程よりも密着度が高い気がする。
手のひらは隙間なくぴったり重なり、指は絡み合い、まるで一つになろうと溶け合うかのようだ。
「これはどうだ?」
「……………」
「ティナ?」
「……と、特に変化はありません」
激しく動揺したわたしは、レイビス様からの問いかけに答えるのもやっとだ。
恥ずかしさから体が熱くなって、手に汗をかいてくる。
……どうしよう。このままじゃわたしの汗でレイビス様の手を汚してしまうわ……!
だが、残念なことに焦れば焦るほど手のひらはじっとり汗ばんできた。
「ん? 汗をかいているのか?」
そしてとうとうレイビス様に気づかれてしまい、指摘までされてしまった。
穴があったら入りたい気持ちだ。
「なるほど。少し変化が現れたな。これは治癒魔法が再び発現する兆しか?」
ただ恥ずかしいだけなのに、レイビス様はわたしのこの反応を好反応と受け取ったようだ。
繋いだ手をそのまま持ち上げて、目の高さまで持ってくると、ぶつぶつ考察をつぶやきながら真剣な眼差しでまじまじと観察し始めた。
汗ばんだ手をじっくり眺められ、言い知れぬ羞恥の情に駆られる。
わたしの顔は今きっと真っ赤に違いない。
「もう少し接触を増やしてみるか」
あまりの恥ずかしさから、なかば今の状況から目を逸らしていたところ、ふいにまた不穏な言葉が耳に届く。
わたしが「えっ?」と思った刹那、レイビス様のもう片方の手が近づいてきた。
そしてわたしの頬にあてがわれる。
ひんやりとした感触が今度は頬に感じられ、またビクリと小さく体が揺れた。
「頬も温かいな。それに少し赤くないか?」
「……………」
「どうだ? なにか変化は?」
「……あ、ありません」
片手で手を握られ、もう片手で頬に触れられ、二箇所の接触によりわたしの心臓は激しく脈打っている。
こんなにこちらは心を乱されているのに、平然と涼しい顔をしたレイビス様がいっそ憎らしい。
そんな少しだけ恨めしい気持ちが湧いてきて、わたしはレイビス様を少しばかり睨めつけた。
だけど、目が合った瞬間、深く後悔した。
美しいエメラルドの瞳に絡めとられ、じっと見つめ返されてしまったからだ。
「変化はないと言うが、やはり顔が赤いな。ティナは肌が白いから余計に目立つ」
「レ、レイビス様の気のせいだと思います」
「いや、この前もティナの顔はじっくり観察したから間違いない。体調でも悪いのか? 熱があるとか」
「だ、大丈夫です」
一ミリの狂いもないほど完璧に各パーツが配置された端正な容貌で顔を覗き込まれ、心臓が早鐘を打つ。
これは実験だ、わたしは被験体だと自分に言い聞かせてしばらく耐えてはいたものの、過ぎたる触れ合いはわたしの心を限界に追い込んだ。
「あの、体調は大丈夫なんですけど、今日の実験はここまでにしていただけませんか……?」
結局わたしは自ら実験の停止を願い出た。
相変わらずどんな反応も見逃すまいとわたしの様子を冷静に観察していたレイビス様は、その言葉にピタリと視線を止める。
そしてわたしと目を合わせると、その真意を問うてきた。
「その理由は? まだ今日の実験は始めたばかりだ」
「……こ、心が限界だからです」
「限界? 心が? 意味がわからない」
わたしの訴えをレイビス様は意味不明だと一蹴する。
でもわたしはもう無理だ。
気を抜くと今にもへたり込んでしまいそうなのである。
「わたしは恋人がいた経験もなく、男性に慣れていません! だから女性に慣れていて余裕があるレイビス様と違って恋人同士が行う行為を平然とこなすことは難しいんです! 刺激が強すぎて心の負担が大きいんです……!」
だからついあまりにも率直な心の声が口をついて出てしまった。
わたしの真剣な心の叫びを聞いたレイビス様は、感情の乏しい整った顔を崩すことはなかったが、目だけパチパチと何度か瞬きを繰り返した。
しばらくして訴えを咀嚼したのか、おもむろに触れていた手をわたしから離す。
レイビス様の温もりが遠ざかっていき、わたしはほっと一息ついた。同時にあれほど離して欲しかったのに、少しばかり寂しさが胸を駆け抜け不思議に思う。
「……その、悪かったな」
その時、レイビス様が少しばかりバツが悪そうな様子で口を開いた。
「研究のこととなると、周りが見えなくなるのは私の悪い癖だ。恋人同士の行為により治癒魔法が取り戻せるかもしれないという仮説を検証するのに夢中になっていたようだ」
「いえ、こちらこそ被験体でありながら、ご希望に沿った実験を進められず申し訳ありません」
「いや、構わない。確かに性急すぎたかもしれないな。もう少しじっくり進めることにしよう」
「そうして頂けると助かります」
どうやらわたしの心の叫びが届いたようだ。
これからは慣れる猶予を得られそうだし、心に余裕が生まれそうで安堵の息が溢れた。
「ああ、一つだけ訂正しておく」
「? なんでしょうか?」
「ティナは私が女性に慣れていると言ったが、それは事実ではない。私も君と同じだ。別に慣れてはいない」
「えっ……」
告げられた事実は意外すぎて、わたしは思わず目を丸くする。
慣れてないようにはとても思えなかった。
流れるような動作で触れられ、ドキドキさせられたばかりだから信じられない。
でもレイビス様は嘘をつくような人ではないと思う。わざわざ慣れていないと告白する利点もないだろう。
……じゃあ本当に? レイビス様も過去に恋人はいなくって、こういう触れ合いは初めてってことなの?
それを知って、ちょっとばかり心が浮き立つのはなぜだろうか。
こうして本日の実験はここまでとなった。
また来週にと言葉を交わしてレイビス様は帰って行った。
そしてレイビス様はこの日以降、「じっくり進める」という約束を本当に守ってくれて、二回目で経験した以上の行為はしてこなかった。
つまり、「見つめ合い」と「手や頬への触れ合い」のみだ。
だけど……
……手を繋ぎながら手の甲や指をスリスリしたり、頬をするりと撫でたり、なにかしら毎回変化が加わっていて結局ドキドキしてしまうわ……!
残念なことに、実験の回数を重ねても一向にわたしに余裕は生まれなかった。