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05. 街歩きと大衆浴場

 ……ふぅ。やっと心に落ち着きを取り戻せたわ。


 あの初回の実験から五日が経った。


 見つめ合いという初期段階の恋人行為だったが、男性への免疫が皆無なわたしにはいささか刺激が強すぎたようで、あの後平常心を取り戻すのが大変だった。


 レイビス様が帰ってからも、時折わたしをじっと見つめるあの端正な顔を思い出してしまうのだ。


 それは日常のふとした時であったり、寝台に入って目を瞑った時であったり。


 脳裏に刻み込まれた残像が消えてくれない。


 そのたびに胸の鼓動が早くなり、体が火照ってしまう。


 そんな実験の名残に振り回されて悶える日々が続き、ようやくほとぼりが冷めてきたのが今日だ。


 ……一回の実験に対する後遺症が長すぎるわ。最初だから? そのうち慣れるのかな……?


 再び治癒魔法を取り戻せる可能性があるなら頑張ろうと決意したものの、実験後にこうも心をかき乱されるとなると悩ましい。


 でも悶々と考え込んでいても仕方がない。


 そこでわたしは、気分転換をすべく久しぶりに街へ繰り出すことにした。


 活気あるフィアストン領の市場でも見て回れば、きっと気が紛れるだろう。


 さっそく白いブラウスの上に茶色のワンピースを着る。これなら街歩きに最適だ。


 こうした町娘らしい服装をすることに実はまだ多少慣れない。


 この十年間はほぼ四六時中ずっと聖女に与えられる白の修道服を身に纏っていたからだ。


 それ以外の服を着るのはなんだか新鮮な気分になる。こういう瞬間に「ああ、わたしはもう聖女ではないのだな」と感じさせられる。


 改めて今の自分の格好を見下ろし、麻袋に心ばかり多めの銀貨を詰め込んだ後、わたしは邸宅を出で立った。


 市場などがある中心街へは、レイビス様が準備してくれた邸宅から徒歩で四十分ほどかかる。


 誰にも邪魔されず落ち着いて実験に取り組むために、邸宅は街の中心部から離れた場所にあるからだ。


 周囲に他の建物はなく、まるで隠れ家のようにひっそり佇んでいるが、街までの道はきちんと舗装されている。


 そこを道なりにまっすぐ進んでいけば、次第に民家が増えてきて、さらに進むと商店が立ち並ぶ中心街に到着だ。


 わたしは川沿いにあるテント式の市場へ真っ先に向かい、様々な珍しい品や食べ物を扱う店をひとつひとつ見て回る。食べ物を売る店から漂う美味しそうな匂いが鼻をくすぐり、食欲をそそられた。


「そこのお姉さん。どうだい、一本味見してみないかい?」


「えっ、わたしですか?」


「そうそう。お姉さん美人だから特別に安くしちゃうよ?」


 思わずお腹を空かせた顔をしてしまっていたのだろうか。わたしの視線の先に気がついた店主の一人が店先から声を掛けてきた。


 串に刺さった肉厚なお肉を手に持ち、わたしの方へ差し出してくる。


「ラム肉をじっくり炭火で焼いて、オリジナル配合のスパイスやハーブで味付けした自慢の一品さ。どうだ、(うま)そうだろ?」


 陽気な店主にぐいぐい勧められ、断り切れなかったわたしは試しに一本購入してみた。


 こんなふうに食べ歩きをするのはいつ以来だろうか。たぶん十年ぶりだ。両親が生きていた頃は裕福でないながらも、街へ出掛けて買い物を楽しんだりもしたものだ。


 ……懐かしいなぁ。教会に保護されてからはそんな時間も余裕もなかったものね。


 それだけでなく、人々が抱く神秘的で尊い聖女のイメージを壊さないためにも、俗的な行いは禁止されていたのもある。


 ちょっとした感慨に浸りながら、わたしは受け取った串焼きに思いのままかぶりついた。


 肉汁がじゅわっと口の中に広がる。

 そこにピリッと辛みのあるスパイスと爽やかなハーブが加わり、絶妙なハーモニーを生み出していた。


「美味しい……! ほのかに感じる柑橘系のなにかがサッパリしていて、とても口当たりがいいですね」


「おっ! お姉さん、分かってるねぇ! その味を引き出すためにスパイスとハーブのブレンドにはかなりこだわってんだ」


 ニカッと笑う店主はとても誇らしそうだ。自慢の一品だと言うのも頷ける美味しさだった。


 思いがけず最高に美味しい食べ物と出会い、わたしの心は晴れ晴れしている。不安や心配はすっかり吹き飛んでしまった。



 この店の串焼きに魅了されてしまったわたしは、店主に再訪を約束しその場を後にした。


 うきうきした気分でその後も市場内のお店を巡り、人目を気にせず食べ歩きを楽しんだ。


 ……あれ、もう日も落ちてきてる! ずいぶん時間が経っていたみたい。夢中で全然気がつかなかった……!


 ふと空を見上げると、太陽の位置が西へ移動しており、辺りはオレンジ色に染まりつつあった。


 市場巡りを満喫しすぎて、意識が向いていなかったみたいだ。暗くなる前には帰った方がいい。治安はいいが、さすがに夜道に女一人だと危険があるかもしれない。


 そう判断するや否や、わたしは来た道を引き返し始めた。


 市場から離れて商店が並ぶエリアに入ると、この辺りは酒場も多いようで、今から飲みに繰り出す人々の姿も見受けられた。昼間とは違う賑やかな雰囲気が感じられる。


 活気ある街の姿に、交易都市として栄えるフィアストン領の領主様はきっと善政を敷いているのだろうなぁと思った。


 ……その領主様がフィアストン公爵様、つまりレイビス様のお父様よね。そしてレイビス様は公爵家の嫡男。ゆくゆくは跡を継いでこの地を治めていく人なんだわ。


 改めてレイビス様の立場を認識する。

 わたしとは生きる世界が違うすごい人なのだと実感した。


 そんなお方と、実験とはいえ、わたしは恋人のような振る舞いをしているわけである。


 ……ああ、どうしよう。初回であんな状態だったのに、次の実験では心臓大丈夫かな……⁉︎


 またしてもわたしをじっと見つめるエメラルドの瞳が脳裏をよぎる。


 条件反射のように胸がドキドキしてきて、せっかく鎮めた心が慌ただしく騒ぎ出した。


 そんな時だ。


「アーサー! しっかりして! もうすぐ浴場に着くわ! 気をしっかり持って!」


 突然、泣き叫ぶような悲痛な声が耳に飛び込んできた。


 聞こえてきた方に視線を向ければ、つぎはぎだらけの服を着た女性が、同じような身なりの男性を支えるようにしてどこかへ向かっている。


 男性は自力で歩けないのか、ぐったりとしており、よく見れば腹部が血で真っ赤に染まっていた。


 ……大変! あの男性、怪我しているわ!


 そう認識するやいなや、わたしは無意識に彼らの方へ駆け出していた。


 男性を支えるのを手伝いながら、女性に話しかける。


「大丈夫ですか? 一刻も早い怪我の処置が必要に見受けられますけど、どちらに向かわれているのですか?」


「えっ? あの、えっと、すぐそこにある浴場です。そこなら怪我を診てもらえるから」


 急に現れて声を掛けてきたわたしに一瞬驚いた女性だったが、大きく取り乱すことなく気丈な振る舞いで質問に答えてくれる。


 ……浴場?


 確か先程も女性はそう口走っていた。


 だけど、わたしはその言葉に引っ掛かりを覚える。なぜ教会ではないのか、と。


 通常、病気や怪我をした際は、貴族であれば病院へ。そして平民であれば教会へ赴くのが一般的なのだ。


 だが、一刻を争う緊急事態の今、その疑問をわざわざぶつけるのは悪手だろう。


 そう判断したわたしは口をつぐみ、女性の案内に従って、苦痛に顔を歪める男性を浴場へと運び込んだ。


「これは酷いのう。すぐに手当てに取り掛かるとしよう」


 辿り着いた浴場では、風呂を楽しむ空間とは別に、処置室のような場所があった。


 そこでわたし達を出迎えたのは、神官を思わせる黒の衣を着た白髪の好々爺だった。


 彼はすぐに状況を察知すると、怪我をしている男性を簡易的な作りの寝台へ乗せるようわたし達へ指示を出し、処置の準備を始める。


「うぐっ……」


「アーサー! アーサー! しっかりして! ラモン先生、お願い彼を助けて……ッ!」


 苦痛に呻く男性の手を握り、女性は涙を浮かべて必死に彼を励ましていた。


 ……こんな時にこそ治癒魔法が使えれば……!


 そう願うも、全く発動する兆しは感じない。 

 悔しくて思わずギュッと手を強く握りしめる。


 でもこのままただ見ているだけなんて、どうしても我慢できない。


 ……たとえ治癒魔法が使えなくても、今できることをしよう!


「止血を手伝います。こちらのガーゼを使ってもいいですか?」


「ん? ああ、構わんよ」


 傷口を洗い流し、異物を取り除いている、ラモン先生と呼ばれていたお爺さんにわたしは問いかけた。


 わずかに怪訝そうな顔をしたラモン先生だったが、特に文句を言う様子はない。わたしは許可を得たものと受け取り、手当てに加わった。


 ガーゼで傷口を押さえて止血する。だが、出血が酷く、なかなか止まらない。そこで、心臓に近い動脈を強く圧迫したところ、ようやく血が止まってきた。


「ふむ、血が止まったのう。では縫合しよう。痛むだろうから患者をしっかり押さえておいておくれ」


 ラモン先生の予告通り、縫合が始まると男性は呻き声を上げながら手足をバタつかせる。


 それを女性と共に必死に押さえ込んだ。そして数分後にようやく処置が完了した。


 男性は一命を取り留め、今は気を失ったように眠っている。連れの女性もまた、何度も何度もラモン先生に御礼を伝えたのちに、緊張状態から一気に気が緩まって疲労が押し寄せたのか、彼に寄り添うように眠ってしまった。


「危ないところじゃったが、無事に助かって良かったのう。お前さんの手伝いのおかけじゃ」


「いえ、とんでもないです。わたしはただ少しお手伝いしただけに過ぎません」


 その場に残されたのがわたしとラモン先生だけになると、先生は朗らかな笑顔を浮かべて話しかけてきた。


 勝手に手伝いを申し出るというでしゃばった行動をしてしまったのに、先生に気分を害した様子がないのは幸いだった。


「それにしても驚きました。大衆浴場の中にこのような処置室があるだなんて」


 会話が続く中、わたしはこの際だからと先程口に出せなかった疑問を途中で切り出してみた。


 その問いが意外だったようで、ラモン先生は目をパチクリさせる。


「ほう。知らなかったのかね?」


「お恥ずかしながら初めて知りました。その、怪我や病気の時には、皆さん教会に行くものだと思っていたので」


「ふむ、なるほど。きっとお嬢さんは平民の中でも裕福な生まれなんじゃろうな」


「? どういうことでしょうか?」


 要領を得ない返答にわたしは首を傾げる。


 すると、ラモン先生はわたしの知らない驚きの事情を語ってくれた。


 曰く、教会で治療が受けられる人は、平民の中でもごく一部なのだという。教会へ寄付という名の治療費を納められるくらいの資金がある人が対象だそうだ。


 それが難しい人たちーー貧困層の平民はどうなるか。治療を受けることは叶わず、怪我や病を悪化させて亡くなってしまうのが現状だった。


 そうした教会からの救いが差し伸べられない人たちの救済場所として作られたのが、この大衆浴場にひっそりある処置室なのだという。


「実はワシは元医療神官なのじゃ。だが、教会の対応に我慢ならなくなってのう。ここはワシが教会を辞めて十五年前くらいに作ったのじゃ。十年前に聖女が現れてからは、より一層教会は寄付を求めるようになりおって。ここに駆け込んでくる者たちも増えておるんじゃよ」


 ……そんな。教会が治癒を与える人を選別していたなんて。知らなかった……。


 聖女として活動していた時、わたしは教会の神官に指示された部屋で待機し、連れて来られた患者を治癒していた。


 つまりわたしの治癒を受けていた人たちは、教会へ寄付を納めた、教会によって選別された人々だったのだろう。


 困っている人、苦しんでいる人を助けたという事実に変わりはない。


 だけど、本当に治癒魔法を必要としていた人たちに手を差し伸べられていなかったかもと思うと、胸をギュッと締めつけられる。


 後悔にも似たやるせない気持ちが押し寄せてきた。


「ところでお嬢さん。もし良かったら、今後もここでワシを手伝ってくれんかのう?」


「えっ、わたしがですか……⁉︎」


 思わぬ真実を知り、自分の視野の狭さと世間知らずさに嘆息していると、ふいにラモン先生から驚きの提案を受けた。


 わたしはビックリして目を瞬く。


 治癒魔法を使えた頃ならいざ知らず、今のわたしは何もできないただの役立たずなのに。


「ですが、わたしは本格的な治療はできないですし、お役に立たないと思いますが……」


「なにを言うておる。なかなか怪我や病気で苦しむ者を前にして落ち着いて対応できる者は少ないのじゃ。お嬢さんは血にも動揺せず、的確に応急処置をしておったわい。まだ若いのに立派なもんじゃよ」


 ……立派? わたしが……?


 ラモン先生からの思いがけない言葉に、わたしは目頭が熱くなる。


 治癒魔法という奇跡のチカラを失ってしまった聖女ではないわたしでも、人の役に立てるのだと思えば、嬉しくして胸が温かくなった。


 聖女時代に魔法での治癒活動をする傍ら、もしもの時のためにと魔法を使わない処置方法を医療神官から学んでおいたことがこんなふうに役に立つとは。


 ……教会で過ごした時間も無駄じゃなかったって思っていいのかな。


 もとより人の役に立てるのから断る理由はない。わたしはラモン先生からの申し出を引き受けることにした。


 こうして、フィアストン領の大衆浴場では、教会へ行けないような貧しい暮らしの人々を、教会で教皇の次に高い地位にあった元聖女が救いの手を差し伸べるようになったのだった。


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