17. 戦場と化した処置室
「大変だ! 魔物の大群が暴走してこの街へ向かってきてるらしいぞ!」
その日、穏やかだった日常は、大衆浴場に駆け込んできた男性のこの一言により瞬く間に変貌した。
顔を真っ青にしたその人は、いち早く周囲の者に伝えようと必死で走ってきたらしい。息を切らして苦しそうに胸を押さえている。
尋常ではない様子に、大衆浴場で憩いのひと時を過ごしていた人々が「何事か」と集まり始めた。
処置室にいた私とラモン先生もこの騒ぎを聞きつけ、男性のもとに駆け寄る。魔物の暴走という言葉に嫌な胸騒ぎを覚えた。
「街中で領主様や騎士様達が避難を呼びかけていたんだ。頑丈な作りの建物へ今すぐ逃げて一歩も外に出るなってさ。避難場所がないなら、領主邸の一部を領民向けに開放するからそこへ行けって言ってたぞ!」
途端に辺りは蜂の巣をつついたような騒ぎになり出す。
その話は本当かと懐疑的な者、恐怖で顔色を失う者、いち早く動き始める者、反応は人それぞれだ。
「嘘じゃない! すべて本当だ! 疑うなら外に出てみろ。そこらへんで騎士様達が声を掛け回ってるぞ! ……それに俺は実際にこの目で見た。おぞましい数の魔物の大群をな!」
がくがくと体を震わせる男性の姿は、非常に真実味があった。懐疑的な目を向けていた者も切迫した状況を感じ取り今やすっかり顔色を変えている。
その時皆に危険を訴えていた男性がふとわたしとラモン先生の方に視線を向けた。
「先生! ティナさん!」
男性は私たちの姿を認めると、こちらへ駆け寄ってくる。よくよく見れば、その男性の顔に見覚えがあった。
「む? おぬし……アーサーといったか?」
「はい、その通りです! その節は命を救ってくださり本当にありがとうございました!」
……あ、あの時の!
そう、男性はわたしがこの大衆浴場に足を運ぶきっかけとなった人物だった。酷い怪我だったため、彼の奥さんに手を貸してここへ運び込むのを手伝ったのだ。
今ではすっかり傷は癒え、動けるようになっているように見える。苦しみに顔を歪める表情しか目にしていなかったからすぐには分からなかった。
「先生、ティナさん。先程の話はお聞きになりましたよね? 避難指示が出ているとはいえ……おそらくこれから以前のオレのような怪我人が多数発生すると思います」
ごくりと生唾を呑む。
魔物の暴走と聞いた時からそういった事態は覚悟していたが、やはり不安による緊張で体が強張った。
「先生やティナさんももちろん安全な場所へ避難されますよね……? ここは魔物の突進に耐えうる頑丈さはありませんし」
「いや、ワシはここに残る。治療を必要とする者が発生するなら尚更じゃ。ここには必要な道具や薬なども揃っておるからのう」
ラモン先生は一寸の迷いもなく、即座に言い切った。その瞳には覚悟が宿っている。
「ワシは追い先も短いからそれでいい。じゃが、まだ若いお前さんはワシに付き合う必要はないでのう。安全なところへ逃げなさい」
隣のわたしに視線を向けたラモン先生は、孫娘に大切な心得を言い聞かせるような面持ちで言葉を紡ぐ。優しい眼差しからわたしを気遣う気持ちが伝わってきた。
その心遣いに感謝をしつつも、わたしはその提案を振り払うように首を振った。
「いえ、わたしもここに残ります。怪我で苦しむ人がいるとわかっていて放っておけません」
治癒魔法が使えないわたしでは、できることは少ないだろう。応急処置を施し、ラモン先生を手伝うことしか役に立てない。
それでも今わたしにできる最大限を尽くしたいと思う。
これは聖女として十年もの間、治癒活動に携わってきた者の一種の使命感なのかもしれない。
「お二人共、きっとそう言うだろうと思っていました。だからオレはここへ来たんです。……オレも先生とティナさんを手伝います!」
わたしがこの場に残る決意を告げると、ラモン先生はやれやれと肩を落としつつも、我儘な孫娘を見守る慈愛に満ちた表情を浮かべた。
そしてわたしの発言に反応したのはラモン先生だけではない。なぜかアーサーさんが突然突拍子もない宣言を始めた。
これにはわたしもラモン先生もびっくりで、思わず顔を見合わせてしまう。
「手伝うじゃと?」
「オレは素人ですから大した役には立たないでしょうが、怪我人を運んだり、暴れる者を押さえ込んだり、力仕事ならできます。そういう人手も必要じゃないですか?」
「確かにそうじゃが、しかし……」
「オレの命はここで救われました。だからかつてのオレと同じように怪我で苦しむ者達を一人でも助けたいんです!」
アーサーさんの心はもう決まっているようだ。思いのほか強く熱い想いを抱く彼に、わたし達はそれ以外反対する言葉を持ち合わせていなかった。
そして彼の想いは、話を聞いていた周囲の人々の魂をも揺さぶる。
「俺も先生達を手伝う!」
「力仕事なら任せろッ!」
「あたいも怪我人を清めるくらいならできるさ!」
「ここの処置室には世話になってるものね!」
次々に手伝いを申し出てくる人が現れたのだ。
教会を頼れない人達にとって、いかにこの処置室がなくてはならない場所なのかが伝わってくる。
結局、困惑しつつも先生とわたしはそのありがたい申し出を最終的に受け入れたのだが、この決断は結果的に正解だった。
そう悟ったのはそれから数分後だ。
「うぐっ、俺の足が……」
「血が止まらないの、死んじゃう助けて!」
「ワシもついにお迎えの時か……!」
「えーん、痛いよぉ〜」
アーサーさんの予想通り、老若男女問わず怪我を負った人々が多数運び込まれてきたのだ。その数は時間の経過と共に増えている。
まさに処置室内は、阿鼻叫喚の光景だった。
……これは想像以上に酷い事態だわ。
比較的軽症の人に話を聞けば、城壁を守る騎士達によって魔物の大多数は街への侵入を食い止められているものの、なにぶん数が多いため討ち漏らしが稀に発生しているらしい。その魔物が街中で暴れて被害を出しているそうだ。
魔物の暴走自体もまだ完全には止まっていないようで、まだこれから被害が拡大する恐れもある。
終わりの見えない治療活動が予想される中、わたしは必死に目の前の患者さんの対処にあたる。
十年の聖女としての経験を持ってしても、これほど壮絶な現場は初めてだ。まさに戦場と化している。
猫の手も借りたい今、手伝ってくれる人々の存在が本当にありがたかった。
◇◇◇
それからどれくらい時間が経っただろうか。
体感的には数時間以上に感じるが、おそらくニ時間も経ってはいない。
その頃になってようやく運び込まれてくる怪我人の数が落ち着いてきた。
漏れ聞こえてくる話によると、フィアストン領に王都から増援が駆けつけたようである。
「ふう、一息つけそうじゃな」
「はい。それにしてもこの怪我人の多さから考えると、魔物の数は相当多いみたいですね……」
「そうじゃな。王都にいる騎士団や魔法師団も加勢しているようじゃしのう」
……王都の、魔法師団……。
その言葉に反応して、黒いローブを纏った、怜悧な光を瞳に宿す端正な面立ちの男性の姿が脳裏をよぎった。
宮廷魔法師団の団長であり、フィアストン公爵家の嫡男でもある彼は、間違いなくこの事態の中心にいるはずだ。
……レイビス様はご無事かしら……?
今までは目の前の患者さんに集中していたため、レイビス様を想う余裕がなかったが、一度考え始めると不安で心が押し潰されそうになる。
大切に想う人が危険な場所で戦っているかもしれないと思うと、気が気でなかった。
……きっと大丈夫よね? あのレイビス様だもの! 周囲が驚く魔法を次々に使って圧倒しているはずよね……!
不安な気持ちを拭うようにわたしは自分へ言い聞かせる。少しでも嫌な想像を振り払いたかった。
だが、そんなわたしを地獄に突き落とすような報せを持った使者が訪れる。
「ティナさん! ティナさんはどちらにいらっしゃいますか……!!」
突然、大衆浴場の出入口の方からよく通る男性の声が響き渡った。
この場には似つかわしくない上等な黒色のローブを身に纏っている。
男性は切羽詰まった様子で辺りをキョロキョロ見回しており、言動の節々に焦りが滲んでいた。
……誰だろう? 初めてお会いする方だと思うけど……?
見覚えのない顔に疑問を感じながらも、あまりの差し迫った態度にわたしはそろりと手を上げた。
出入口付近にいた人からも居場所を聞いたらしい男性は、わたしの姿を認めると、もの凄い勢いで歩み寄ってくる。
「貴女がティナさんですか?」
「は、はい! どなた様でしょうか?」
「失礼、僕は宮廷魔法師団で団長補佐官を務めるサウロ・カーヴェルと申します」
「団長補佐官様、ですか……?」
「はい。レイビス団長の部下です」
その一言に胸がドクンと大きな音をたてた。
レイビス様の部下の方がこんなにも悲壮感を漂わせた顔で、ほかでもない処置室を訪ねてきている。
この事実にそこはかとない嫌な予感を感じずにはいられなかった。
「どうか貴女のチカラを貸してください! 団長が、団長が……!」
「………ッ!」
聞きたくなかった台詞に言葉が詰まった。
わたしのチカラ、つまり治癒魔法を必要とするような事態にレイビス様は陥っているということだろう。
みるみる私の顔から血の気が引いていく。
「い、今のわたしにはチカラが……」
「知っています。でも少し反応があったと聞きました。ほんの僅かでも可能性があるならそれに賭けたいんです! でなければ団長は……おそらく助からない……」
息の根が止まるような心地がした。
頭を殴られたようなショックが全身を貫き、わたしは呆然と立ちすくむ。
そんなわたしに歩み寄る人がいた。
ラモン先生だ。
「これを持って今すぐ行くのじゃ。この場はワシに任せよ」
ラモン先生は応急処置道具が一式入った鞄を手渡し、優しくわたしの背中を押す。
「愛する者のところへ駆けつけ、自分のできる限りをしなさい」とその目が訴えていた。
……そうだ。わたしはさっきも目の前に怪我人がいるのならば最大限を尽くすって誓ったじゃない……!
たとえ奇跡のチカラがなくても、わたしの全身全霊をかけて治癒を試みたい。想いを寄せるあの方のために。
「サウロ様、行きます。連れて行ってください!」
「はい! すぐに!」
喜び勇んだサウロ様は、一秒も無駄にしたくないというように私の腕に軽く触れると、すぐさま瞬間移動魔法を発動した。
目の前の景色が掻き消え、浮遊感が襲う。
次に目に飛び込んできたのは、荒れ果てた草原だった。
騎士達が魔物に応戦する戦闘音と怒声が、広い大地に響き渡っている。
「リキャルド騎士団長! ティナさんを連れてきました……!」
「サウロ、こっちだ! 早く!」
よく見れば、魔物に対峙する騎士達は誰かを守るように円形の陣形をとっていた。その円の中心からサウロ様を呼ぶ声が届く。
サウロ様に付き従ってそちらへ足を運ぶと、そこには二人の男性がいた。
一人は逞しい体をした騎士様。
もう一人は黒いローブの魔法師様だ。
そして魔法師様の方は……
「レイビス様……!」
目に映るあまりに残酷な光景が信じられず、わたしは思わず悲鳴のような声を上げた。
そこには意識のないレイビス様が、血を流して力無く横たわっていた。
大きな穴をお腹に開けた状態で――。




