12. 実験:口づけ②
「はぁ……」
「なんじゃ? さっきから辛気臭いため息ばかり吐きおって」
実験の翌日。
わたしは大衆浴場の処置室へラモン先生のお手伝いにきていた。
ここへはもう約四ヶ月近く通っている。
週に数度のお手伝いではあるが、今まで一人ですべてを対処してきたラモン先生は猫の手も借りたい状態だったらしい。
基本的な処置ができるというだけで、わたしの存在をとても重宝してくれていた。
一緒に治癒活動に取り組むうちに、ラモン先生とはすっかり打ち解け、今ではわたしを孫のように可愛がってくれている。
そんなラモン先生から、溜息ばかり零していたところ、呆れた顔を向けられてしまった。
原因は自分でもわかっている。
レイビス様への恋心に気づいてしまったからだ。
……人生で初めての恋心というだけでも、わたしには持て余す事態なのに、その相手が公爵子息様かつ宮廷魔法師団長様なんだもの。
そんな雲の上の相手を好きになったところで、未来など思い描けない。
決してこの想いが成就して結ばれることなどありはしないのだ。
……なのに好きになってしまうなんて。この想いはどう取り扱ったらいいのだろう……?
「はぁ……」
堪らず再び重いため息が唇の隙間から漏れてしまった。
「まったく、若いもんがそんな嘆息するでない。ほれ、ワシが話を聞いてやる。今は患者もおらんしな」
「ラモン先生……」
「ほれ、遠慮せんと話してみんかい。人に話せば楽になることもあるもんじゃ」
人生経験の豊富な老齢のラモン先生からそう促され、わたしはこの想いを打ち明けたくなった。
一人で抱えるのには苦しく、恋という人生で初めての出来事を自分では持て余しているのだ。
「……実は恋しく思う人ができたのです」
「ほお。悩みは色恋ごとかい。それでなにをそんなに嘆いておるのだ?」
「その、わたしがお慕いする方は雲の上の存在の方で、本来このような気持ちを抱くことすら恐れ多いのです。つまり結ばれる見込などない恋のため、この想いをどうしたらいいかと思って……」
「身分違いなんじゃな。それで恋心を持て余しとると。ふむふむ」
ラモン先生は元神官というだけあって、人の話を聞くのが上手い。
目尻に皺が浮かぶ優しい眼差しを向けられると、つい話したくなるのだ。
わたしが打ち明けた悩みを咀嚼するように顎を撫でていたラモン先生は、しばらくすると「ふむ」と一言零す。
「ワシもこの年じゃからな、これまでいろいろな者達を見てきた。その中には、お前さんのように身分違いの恋に悩む者達もおった」
「そ、その方々はどうされたのですか……?」
「ある者は想いを相手に伝え、結ばれて幸せになった。ある者は恋人になったものの、やはり身分差には勝てず結局別離を選んだ。ある者は想いを消そうと他の男と恋人になった。ある者は想いをひた隠しにしてひたすら相手の幸せを願った。……つまり十人十色ということじゃ」
「十人十色……」
「明確な答えはない。お前さんがどうしたいか次第じゃな」
「わたしがどうしたいか、ですか」
「お前さんはその相手と恋人になりたいと思うておるのか? 好いておる想いを伝えたいのか? 気持ちを消したいのか? ただひっそり想っているだけでよいのか?」
次々に問いかけられて、わたしはしばし自問自答してみる。
その結果、答えはひとつだった。
……わたしは初めて抱いたこの恋心は大切にしたい。だから無理に想いを消したりしたくないわ。恋人になるなんて恐れ多いことは初めから望んでいないもの。レイビス様を想っていられればきっと満足だわ。
自分で答えを導き出せたおかげで、先程まで絶え間なく溢れていたため息が鳴りを顰める。
雲が晴れたようにずいぶんスッキリとした気持ちになっていた。
「どうやらお前さんなりの答えが出たようじゃな」
「はい、ありがとうございました……!」
「やっぱりお前さんは笑っているのがいいのう。患者も安心できるじゃろうて」
にこにこと人好きする笑みを浮かべたラモン先生にわたしも笑顔を返す。
ちょうどその時、タイミングを見計らったかのように処置室に患者さんがやってきた。
そしてその後も、先程の落ち着きが嘘だったかのように立て続けに怪我に呻く人々が駆け込んできた。
ラモン先生とわたしはお喋りを切り上げて、慌ただしく処置に向かったのだった。
◇◇◇
そして自分の気持ちに折り合いをつけてから数日後。
いよいよ実験の日が再びやってきた。
レイビス様と顔を合わせるのは、恋心を自覚してから初めてだ。ドキドキと胸が高鳴ってしまうのは仕方ないことだろう。
約束の時間になると、寸分の遅れなくレイビス様は邸宅を訪ねてきた。
玄関で出迎える際、レイビス様の姿を一目見た瞬間、わたしは言い表しようのない幸せな喜びが全身に巡っていくのを感じた。
姿を視界に入れただけなのにこの状態だ。これが恋の威力というものなのだろうか。
……今日の実験は唇への口づけだというのに、このままではわたしの心臓は持たないんじゃないかな。
この先を思うとなんとも不安になってくる。
気持ちを伝えないままこの想いを大切にすると決めた今、わたしは実験は実験と割り切って挑もうと思っている。
想う相手から恋人のように扱われても、その幸せな気持ちは享受しつつ、勘違いしないよう自分を諌めるつもりだ。
この実験もいつかは終わりが来る。
つまり、レイビス様とわたしが顔を合わせる機会もなくなる。
その時に、実験として行った数々の恋人行為を思い出として胸に留めたいと思っている。
普通なら一方的に想う相手と見つめ合ったり、触れ合ったり、デートしたり、口づけをしたりなどできない。
だけど、わたしは実験とはいえそれらを好きな人と経験することができたのだ。これは望んでもできない幸運な出来事だと思う。
だからこそこの思い出を記憶に刻み込み、この後の人生を歩んでいこうと考えている。
きっと辛いことがあっても、レイビス様との日々を思い出せば胸に幸せが灯るから。
「では、今日の実験を始めよう」
居間で並んでソファーに腰掛けると、いつも通り淡々とレイビス様はわたしに告げた。
今日することはもうわかってる。
わたしは心の準備を済ませて、こくりと頷いた。
その途端、体を軽く引き寄せられ、頬に手が伸びてくる。
包み込むように手のひらを頬にあてがったかと思うと、顔をレイビス様の方へ向けられ、視線が絡み合った。
「今さら聞くのもなんだが……いいんだな?」
「はい」
最終確認かのように意思を尋ねられ、わたしは躊躇いなく返答を返した。
すると、頬にあった手がするりと肌を滑り、長く細い指で顎を掴まれる。
そのままくいっと顎を軽く持ち上げられた。
その動きに応じてわたしはそっと目を閉じる。
「んっ……」
次の瞬間、驚くほど柔らかな感触を唇に感じた。
それは優しくて穏やかで、このままずっと触れていたいと思うような甘い重なりだった。
温かな熱が体中に広がっていき、なんだかふわふわとした心地がして気持ち良い。
そんな幸せな甘さに身を委ねていたら、ふいに手に異変が現れた。
……えっ、この感覚って……治癒魔法⁉︎
魔法を発動する時の前触れのようなものを確かに手に感じたのだ。
「い、今、は、反応が……!」
レイビス様の顔が離れると、わたしは声を浮つかせながら興奮ぎみに今の事態を報告した。
「以前のように治癒魔法を発動できるか?」
「やってみます……!」
試しに自分の腕に手をかざして魔法を発動させてみようとする。
だが、残念ながらうんともすんとも反応せず、虹色に光は見られなかった。
「でも、今確かに感じたのです。治癒魔法が発動する前の感覚を」
「ということは、やはり唇への口づけに効果があったということか?」
実験開始以来初めての反応に、レイビス様も難しい顔をして考えを巡らせている。
もう一度確認してみようという話になり、再びレイビス様に唇を塞がれた。
二度目は、唇と唇が隙間なくぴったりと重なり合うような、しっとりとした口づけだった。
唇から熱が伝わってきて、蕩けてしまいそうだ。
うっとりとした心地になっていると、やはりわたしは再度手に治癒魔法発動の兆しを感じ取った。
「反応があります……!」
「やはり口づけが引き金か?」
反応があった二回はいずれもキスをしている時に起こった。だからそう考えるのが妥当だった。
だが、レイビス様はあらゆる可能性を検証したいと言って、今度は頬や額に口づけを落としてきた。
前回の実験をもう一度試みた形だ。
この前なにも起きなかったのだから、反応などあるはずはないだろうと思っていた。
レイビス様もあくまで念のためと実行したはずだった。
だが、わたし達の予想を裏切って、なんとわたしの手には再び反応が現れたのだ。
この予想外の事態に、レイビス様の研究心に火がつく。「ではこれはどうか?」と次々にこれまで行ってきた実験を試していくことになった。
抱きしめたり、触れたり、見つめ合ったり……結論から言えば、なんとそのすべてで反応が見られる結果となった。
「これは一体どういうことだ……?」
思いもよらなかった結果が出て、レイビス様はすっかり研究者の顔で考察に忙しいようだ。
ぶつぶつ独り言を呟いて、ああでもないこうでもないと考えを巡らせている。
「なぜこれまで反応がなかった行為に、今日は反応を得られたんだ? 今までとなにが違った?」
レイビス様が自問自答する声を漏れ聞いて、わたしはある一つの事実に思い当たる。
今までと今日の違いといえばアレしかない。
……わたしがレイビス様へ恋心を抱いたのが影響しているということ……?
「なにか君に心当たりはないか?」
その時、しばらく思案に沈んでいたレイビス様がふと顔を上げてわたしへ問いかけてきた。
その質問にわたしはギクリと体をこわばらせる。
ほかでもないレイビス様からの質問であれば、偽りなくすべてを答えたい。
……だけど、これは……。
「あなたに恋をしています」とはとても言えない。この想いだけは本人に知られたくなかった。
「……わたしにもわかりません」
結局こう答えるしかなかった。
好きな人に嘘をつくこととなり、罪悪感から胸が痛む。
ついに待望の反応を得られ、実験は明るい兆しが見えてきた。
一方で、恋心と治癒魔法に関係がありそうだという事実にわたしは戸惑いを隠せないのであった。




