09. 実験:デート②
今わたしの目の前には、ため息が出そうな美しさであるミルキーブルーの湖が広がっている。
湖畔にはピンクや白、紫のルピナスが咲き乱れ、非常に華やかな風景だ。
湖と鮮やかな花々のコントラストは、思わず心を奪われるほど神秘的で美しい。
……素敵。こんな場所がフィアストン領にあっただなんて知らなかったわ。
市場から少し離れた場所で再び瞬間移動魔法を使ってやって来たのがこの場所だ。
到着した瞬間、わたしは目の前の絶景に思わず息を呑んだ。あまりにも素晴らしい眺めで、言葉が出てこなかった。
「ここは君も来たことがないだろう?」
「はい、初めてです……! ここは中心街からは遠い場所なのですか?」
「おそらく馬車で六時間ほどといったところだ。領内ではあるが」
「レイビス様はよくこちらへ来られるのですか?」
「いや、私も何度か訪れたことがある程度だ。ここへ来たのは、景色の良い場所を女性は好むと聞いたからな。つまり君のためだ」
……わたしのために……?
きっとレイビス様は実験でより良い成果を出すことだけを考えている。
勘違いしてしまいそうな台詞も、すべては研究のため。恋人らしさを演出して治癒魔法の反応を得ようとしているのだ。決して他意はない。
長くはない付き合いだが、この数ヶ月接していて、レイビス様はそういう人だとわたしもわかってきていた。
でも、それでも、こんなふうに言われると胸が高鳴ってしまう。
……改めて思うけど、この実験は本当に心臓に悪いわ。男性への免疫がないわたしには負荷が高いわね……。
動揺を振り払うように、わたしはレイビス様の手から離れ、もっと近くで見ようと湖畔の方へ足を踏み出す。
湖畔に近づくと、ルピナスの花々もより近くで楽しむことができた。なかなか特長的な形をした花だ。小さな蝶形の花がまるで藤が立ち昇るように咲いている。
目で見るだけでなく、鼻でも楽しめるようで、ルピナスからは甘い香りが漂っていた。その香りに誘われてわたしはさらに歩みを進める。
その時だ。
美しい景色と魅惑的な香りにすっかり夢中になっていたせいだろうか。わたしは足元にあった石に躓き、ぐらりと体勢を崩してしまった。
眼前に地面が近づいてきて「倒れる!」と思わず目をギュッとつむる。
だが、想像した衝撃はやってこなかった。
代わりに腕を引かれたと思うと、次の瞬間には温かいぬくもりに包まれていた。
……えっ⁉︎
予期せぬ状態に、恐る恐る瞼を開ければ、目に飛び込んできたのは広い胸板だ。
誰のものかなんてわかりきっている。
……嘘! わたし、レイビス様に抱きしめられている……⁉︎
「大丈夫か? 君は意外とそそっかしいな」
耳に心地良い声が頭上から降ってきて、わたしは自分より頭一つ以上も背の高いレイビス様を見上げる。
すると、レイビス様もこちらを見下ろしていたようで、エメラルドの瞳と視線が重なった。
途端にドクンと心臓が飛び跳ねる。
これまでの実験で目を合わせることには慣れつつあるものの、腕の中に囲われた状態でとなれば話は別だ。
かつてない身体的な距離の近さに体が火照っってくる。
「す、すみません! うっかりしていたようです。助けて頂きありがとうございます……!」
バクバクバクと心臓がものすごい速さで鼓動を打っており、わたしは御礼を告げた上で「もう大丈夫です」と体を離そうとした。
だが、レイビス様の腕はびくりとも動かない。
「あの……」
「もしかしてティナは金に困っているのか?」
「えっ?」
しかもなにを思ったのかレイビス様は突拍子もない問いを唐突に投げかけてきた。
「……いえ、そんなことは――」
「だが、現に君の体はこんなに細いではないか。小さい上に細すぎて今にも壊れてしまいそうだ」
……ええっ、体⁉︎
わたしの言葉を遮ったレイビス様の口から放たれたのは、まさかの一言だった。
それはつまり、この今の身体的接触によりレイビス様がわたしの体を観察したと言っているに他ならない。
体がかあっと燃えるような恥ずかしさに襲われる。
「金に困ってしっかり食事をとってないのではないか?」
「あの、大丈夫ですから……!」
「いや、しかし。いくら治癒魔法を取り戻したとしてもこの細さでは危険だろう?」
「ご心配はありがたいですが、本当に大丈夫です……! 研究協力で謝礼も頂いていますし、街で別の仕事もしているので。十分食事は取れています」
「別の仕事?」
話しながらも、羞恥心に耐えられなかったわたしはもぞもぞと身じろぎをして、体を離す機を窺っていた。
そしてレイビス様がわたしの言葉に意識を奪われた瞬間に、やっと腕の中から抜け出すことに成功した。
包まれていたぬくもりが消え、なんだか寒さと寂しさを感じたが、度を超えた恥ずかしさによって火照った体を冷やすにはちょうど良い。
「街での仕事はなにをしてるんだ?」
レイビス様はわたしが体を離したことよりも、仕事内容に興味を引かれているらしい。
何事もなかったかのような様子で再び問いかけてきた。まるで抱擁など、大したことではないという顔で。
「……平民向け大衆浴場にある処置室で働かせてもらっています」
「処置室? でも君は治癒魔法が今は使えないだろう?」
「はい。ですので、治癒魔法を使わない治療のお手伝いをしているんです。教会にいた頃に医療神官から処置の方法などを学んでいたので」
「確かそこは父が資金援助している場所だと聞いている。私は実際に訪れたことはないがどんな場所なんだ?」
「えっとですね――……」
それからレイビス様から処置室に関する質問をいくつか受け、わたしはそれに答えていった。
気になった物事は納得するまでとことん突き詰める姿勢はレイビス様らしい。
話しながらふと視界に入ったルピナスを見て、わたしはあることを思い出す。
……確かルピナスの花言葉って「貪欲」だったよね?
なんとも今のレイビス様にぴったりの言葉だ。
研究はもちろんのこと、関心を持った物事にレイビス様は驚くほど熱心かつ貪欲である。
「なるほどな。話を聞いて父が援助を決めた理由が分かった気がする。それにしても治癒魔法が使えなくとも人を癒そうとするとは、君は慈悲深い心の持ち主なのだな」
「いえ、そんな。わたしなんかで役に立てるならばと思ったまでです」
「教会でも聖女として十年も活動していたのだろう? 人を慈しむ心がなければなかなか続けられないと思うが」
「それはただ使命に従ったに過ぎません」
なんだかレイビス様がやたらとわたしを持ち上げてくれるような感じがするのは気のせいだろうか。
わたしは自分がそれほど慈悲深い人間だとは思っていない。目の前にある自分にできることをただ愚直に行なってきただけである。
だから素直にそう返答しているのに、レイビス様はまるでわたしの行動が素晴らしいと言わんばかりだ。
……どうかしたのかしら?
レイビス様の言葉に若干の違和感を感じていると、つとわたしから視線を外したレイビス様は小さくため息を漏らした。
「………女性を褒めるのは難しいな」
同時にぽろりと零れ落ちた台詞が耳に留まる。
それを聞いてわたしはある可能性に思い至った。
……もしかして……無理して褒めようとしている?
今日一日を思い返せば、それは的を得た推察に思えた。
――『ティナの髪色が映える服装だな。似合っている』
――『君は良い店を見抜く目利きだな』
――『君は慈悲深い心の持ち主なのだな』
デートの始まりからこの湖まで、レイビス様は折に触れ、わたしを褒めようとしていたのだ。
……きっと女性は褒めれば喜ぶって誰かから聞いたのかな。それで治癒魔法の反応を得るために実践してるんだろうなぁ。
レイビス様らしいと苦笑いが浮かぶ。
治癒魔法が再発動する兆候がないばっかりに、レイビス様に無理をさせてしまい、なんだか申し訳なくなってくる。
「あの、レイビス様。無理して褒めてくださらなくて大丈夫ですよ」
「女性は褒め言葉に喜ぶのだろう?」
「それは否定しません。ただ、無理やり褒められても嬉しくはないので。だから無理しないでください」
これ以上の褒め言葉は不要だと思いながら、わたしはレイビス様に笑顔を向ける。
わたしとしては無理をしないでほしいという善意の申し出だったのだが、なぜかレイビス様は不快そうに眉根を寄せた。
「……レイビス様?」
珍しくはっきりと気分を害した心情を顔に浮かべたレイビス様にわたしは意表を突かれる。
真意を探るようにその整った顔を見つめれば、レイビス様は不服そうに告げた。
「別に私は無理に褒めてはいない。難しいと思っただけだ。もちろん発した言葉にも嘘はない。すべて本心だ」
「…………」
「特にティナの慈愛の心には感心している。君はただできることをしただけと言うが、治癒魔法を行使するのはそれほど簡単ではないはずだ。豊富な魔力があっても大変だろう? 十年もの長きに渡って真摯に取り組むことは誰にでもできる行いではない」
「………ッ!」
レイビス様の言葉のひとつひとつに心を打たれた。胸にぐっと来るものがあって、思わず目頭が熱くなってくる。
レイビス様は肯定してくれているのだ。
わたしが教会で過ごしたあの十年を。
奇跡のチカラを使ってひたすら治癒活動に勤しんできたあの日々を。
わたしの半生をかけた頑張りを認めてもらえ、上等な毛布にすっぽり包まれたような温かさと安心感で心がいっぱいになる。
チカラがなくなればもう用無しだと追放されて傷ついた心が慰められるようだった。
……嬉しい。わたしのこれまでは無駄じゃないって認めてくれる人がいるなんて。
「……ありがとうございます。そう言って頂けて本当に心から嬉しいです……!」
あまりの喜びから心が震え、声まで震えそうになる。
おまけに言葉を発した拍子に、なんとか耐えていた涙が一粒、ほろりと頬を伝った。
人前で泣くなんて許されない。
教会でも幾度となくつらい時はあったが、聖女という立場柄、人々からのイメージを壊さないよう表に立つ時は細心の注意を払えと言い聞かせられていた。
だから慌てて手で顔を覆ったのだが、次の瞬間にはレイビス様に抱き寄せられていた。
後頭部に手を回され、ぐっと顔を胸に押しつけられる。
「レ、レイビス様……⁉︎」
「顔を見られたくないのだろう?」
「ですが、レイビス様の服が汚れてしまいます」
魔法師団が纏う黒いローブは特注品のはずだ。当然かなり高価なものである。わたしの涙で濡らしたくはない。
「気にしなくてもいい。洗浄魔法でいつでも洗えるからな」
なんてことないと言うレイビス様らしい答えが返ってきて、わたしは思わず小さく笑ってしまった。
確かに天才魔法師様にかかれば、わたしの涙くらいどうとでもなるのだろう。
「……なぜ笑ってるんだ?」
「ふふっ。申し訳ありません。レイビス様らしいお答えだなと思って。……では、お言葉に甘えさせて頂きます」
わたしは力を抜き、レイビス様の胸に体を預けた。
逞しい体に包まれて、形容しがたい心の安らぎを感じる。同時にどうしようもなく胸が甘くときめいた。
実のところ涙はすでに止まっていた。
もうこうして顔を隠すために抱きしめてもらう理由はない。だけど、この温かさから離れがたくてしょうがなかった。
私たちの周囲に咲き乱れるルピナスからは甘い香りが漂う。
ただ、わたしの胸に広がる気持ちの方がもっと甘い。
……この気持ちはなんだろう?
頑張りを認めてもらえたことが嬉しかった、それは間違い。
でも、それだけではない気がしていた。
きっとわたしはレイビス様に惹かれ始めているのだ。
……心の触れ合いを目的とした実験は、なんて危険かつ残酷なんだろう……。
今までのドキドキとは違う次元の胸の高鳴りにわたしは危機感を覚えた。
これはいけない。
本気でレイビス様に惹かれてしまったら大変なことになる。
あくまでもこれは実験。
レイビス様の言動のすべては研究成果を上げるためだ。それをゆめゆめ忘れてはいけないとわたしは自分に言い聞かせる。
……本来なら関わる機会もなかった雲の上の人だもの。
つい心奪われてしまう温かさに包まれる中、わたしは高ぶる感情をなんとか抑え込もうとするのだった。




