61 結
僕はいつの間にかうたた寝していたようだ。
目を覚まして、一瞬どこにいるのかわからなくなった。
ああ、そうだ。美波戸島に戻ってきたんだった。
起き上がって一階に降りると、母さんがエビフライの準備をしていた。
「あら、二階にいたの? 声を掛けたけど返事がなかったから、てっきりまた出掛けたのかと思ってたわ」
「ちょっと、うたた寝しちゃったんだ」
「そうだったの。さっき結ちゃんが来てたのに、拓海は出掛けてるって言っちゃったわ」
「え? ユイ……ちゃん?」
「結ちゃんよ。紗枝ちゃんの娘さん。あんたの幼馴染でしょ。関西の大学に入学したのは知ってるわよね。たまたまこっちに戻ってきてて、拓海に会いたいって少し前に来てたのよ」
何を言っているのだろう。紗枝子おばさんには子供はいなかったはずだ。
それに名前がユイだなんて。
航さんも存在しなかったことになっているし、一体何が起きているのだろう。
もしかして、本当にユイが……?
「ちょっと行ってくる」
「もう少ししたら夕飯だからね。今日はエビフライよ!」
エビフライはわかったよ。
僕は急いで靴を履きながら外に出た。
慌てすぎて転びそうになりながら、道路に出て周囲を見回す。
人の姿はない。とりあえず、紗枝子おばさんの家に行ってみよう。
走って坂を下っていき、曲がり角に来た。やはり人の姿は見えない。
紗枝子おばさんの家の前まで行ってみたが、誰もいないようだった。
仕方がない。今日は諦めて、また明日来てみよう。
僕は来た道を戻った。家の前を通り過ぎて、神社の鳥居の前まで来た。
立ち止まって、久しぶりに見る島の高台からの景色を眺めた。
夕焼けに染められた海が美しい。リムネーの湖を思い出す。
「タクミ……?」
遠くから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
脳で理解する前に心臓が反応して、ドクンと鼓動が鳴った。
この声は……。間違いない。ユイの声だ。
道の先を見ると、少し離れたところにユイがいた。
髪の色は銀色から栗色に変わっていたし服装も違っていたが、そこにいるのは確かにユイだった。胸元には僕が贈ったペンダントが輝いていた。
ユイと目が合った瞬間、頭の中に一気に情報が流れ込んできた。
新しいアプリをインストールするかのように、脳の中に新しい記憶が登録されていく。
倉橋結。紗枝子おばさんの一人娘として生まれた、四歳違いの僕の幼馴染み。現在は関西の大学で薬学を学んでいる。
一緒に神社の境内で遊んだこと、勉強を教えてあげたこと、誕生日のお祝いをしたこと、手作りのお菓子をもらったこと、入学祝いにペンダントをプレゼントしたこと……。
大きなイベントから些細な出来事までが、一瞬のうちに脳に刻み込まれていった。
ユイが僕の方に駆け寄ってきた。
夕陽を浴びて、髪も肌も黄金色に照らされている。
「ユイ!」
僕は両手を広げた。ユイが僕の胸に飛び込んできた。
ユイの華奢な体を抱き締める。また会えるなんて。夢を見ているようだ。
「タクミ。また会えて嬉しい」
「僕もだ。ユイ」
喜びに浸っていると、急に足に何かがぶつかってきた。
足元を見ると、豆柴くらいの大きさの白い子犬がいた。
目が黄色くて額にダイヤ形のグレーの模様がある。
「……リドか?」
リドは僕の足に絡みついてきた。ブンブン尻尾を振っている。
「お前、ずいぶん可愛くなったな」
あの大きくて精悍な狼犬が、こんなに可愛い子犬になっちゃって。
屈んで頭を撫でると、僕の膝に前足をかけてペロペロと顔を舐めてきた。
「リド。くすぐったいよ」
くすぐったいのと可愛いので、声を上げて笑った。
それを見て、ユイもクスクス笑っていた。
「リドと散歩をしていたところなんです」
「じゃあ、散歩を続けながら話そう」
僕らは、リドを連れてゆっくり坂を下って行った。
「ユイはどうやってここに来たの?」
「リムネーからの帰りで巡礼の道を歩いていたら、突然目の前に女神様が現れたんです」
「女神が現れた?」
「はい。全身が輝いていて女神像そのままのお姿でした。そして『タクミと一緒に行きますか?』と聞かれたので、一緒に行きたいと言いました。『もうここには戻れなくなります』と言われましたが、それでもいいと答えました。そしたら光に包まれて気を失ってしまって。気がついたら、この世界に来ていたのです」
さぞ驚いたことだろう。なにせ全く知らない世界に来てしまったのだ。
でも、なぜテティーがそんなことを……?
ふと転移する前のテティーの言葉を思い出した。
『一つ失って一つ得る。そうして調和を取るのが、この世の理です』
……そうか、航さんが向こうの世界に残ったので、ユイがこっちに来ることで調和が取れたということか。
きっとテティーは僕の気持ちもユイの気持ちもわかっていたんだ。
そのうえで、上手く調整してくれたのだろう。
「ここで目が覚めた途端に、ここで過ごした記憶を思い出しました。とても不思議な感じです。ローレンシアで過ごした記憶と、この美波戸島で過ごした記憶の両方があるんです」
まだ混乱しているだろうから、なぜこうなったのかはいずれゆっくり話そう。
「ずっとタクミの故郷を見てみたいと思ってました。私の故郷にもなるなんて……。とても美しい場所ですね」
「僕もここの景色は大好きなんだ。ユイにも見せたいと思ってたんだ」
ユイは僕を見て微笑んだ。
坂を下っていくと、航さんが住んでいた工房が見えてきた。
「あの家は、以前は航さんが住んでいたんだ」
「コウもこの世界の人だったのですね。でもここでの記憶にはコウは出てきません」
そうか。航さんの存在は全て無かったことに書き換えられてしまったんだ。
その理由も、いつか話そう。
「あれ? 新しい住人がいるのかな?」
前に見たときは庭は雑草天国だったはずだが、綺麗に整えられていた。
庭に面した窓が開けられていて荷物も置いてあり、人がいる気配があった。
家の前まで行くと、玄関に立て看板があり張り紙がしてあった。
『 近日オープン ハーブティー専門店&古民家カフェ 彩花 』
「ハーブティーのカフェができるんですね。わあ、嬉しい」
航さんが淹れてくれたハーブティーを思い出す。
テティーが大好きでよく飲んでいたな。
「オープンしたら一緒に来よう」
「はい。楽しみです」
ユイは弾けるような笑顔を見せた。
向こうの世界の記憶を共有できる人がいて嬉しかった。
しかも、それがユイだなんて最高だ。
これからはこの世界で、ユイと一緒に新しい記憶を創っていこう。
ふと庭の隅に目が留まった。
小さな杜鵑草の花が揺れていた。
< 完 >
読んでいただき、ありがとうございました。
読んでくださる方がいることが、書き続ける励みになりました。
拓海の成長を見届けてくださったことを感謝します。
本当にありがとうございました!