59 別れ
翌朝起きて一階に降りると、航さんが朝食を作ってくれていた。
テティーは準備のために先に祠に行ったそうだ。
異世界で食べる最後の食事だ。
パンとサラダと素材の味がするスープをじっくりと味わった。
食事が終わると、ここに来たときの服に着替えて部屋を片付けた。
掃除は昨日のうちにやっておいたので、後は荷物をまとめるだけだ。
弓矢やここで買ったもの全てを持って一階に降り、テーブルの上に置いた。
テティーから聖水以外の異世界のものを持っていくことはできないと聞かされていたので、全てここに置いていく。
それぞれ思い出や愛着があったのだが、仕方がないことだと割り切った。
「航さん、これは残していくから、後は航さんが使うなり処分するなりしてくれるかな」
「わかった。まあ、仕方がないな。持って行くわけにはいかないからな」
航さんは、テーブルの上に置いた荷物を見た。
「これは?」
航さんがテーブルの上から取り上げたのは、ユイからもらった塗り薬だった。
唯一、手放し難くて悩んだのが、この塗り薬だった。
これだけはこっそり持って帰ろうかと思った。
だが、この世界の理を使って作られたものだ。やっぱり持って行くわけにはいかないだろう。
「ユイからもらった塗り薬なんだ。傷に効くらしいから、航さんが使ってくれるかな」
平静を装ったつもりだが、少し声が震えてしまった。
「……わかった。俺が使わせてもらうよ」
航さんは、ユイからもらったものだと聞いて躊躇していたようだが、僕の意を汲んで受け取ってくれた。
「悪いけど、ユイの前では使わないでね。僕が故郷に持って帰ったことにして欲しいんだ」
「ああ。わかってる」
ごめん、ユイ。その気持ちだけは大事に持っていく。
出かける準備が整った。聖水はちゃんとポケットに入れてある。
「じゃあ、行こうか」
航さんと一緒に外に出た。この家ともお別れだ。
憧れの暖炉がある、とても住み心地がいい家だった。
「祠に行く前に、宿屋に寄っていいかな。テトラにプレゼントを買ってきたんだ」
「わかった。立ち寄ろう」
宿屋に到着した。航さんはここで働いていたんだ。
大きくて立派な建物だった。この街では二番目に大きい宿屋なのだそうだ。
航さんが宿屋の主人に挨拶をした。とても気さくで優しそうな人だった。
主人に話してテトラを呼んでもらった。
表で待っていると、しばらくして庭の奥からテトラが現れた。
「コウちゃん、クミちゃん!」
パタパタと走ってくる様子は、相変わらず可愛らしかった。
「遊びに来てくれたの?」
「今日はテトラにプレゼントを渡しに来たんだ。これ、どうぞ」
紙袋を渡すと、テトラは受け取って袋を開けてリボンを取り出した。
「わあ! かわいい! テトラにくれるの?」
「そうだよ」
「ありがとう! クミちゃん」
テトラは嬉しさに目を輝かせて笑顔を見せた。買ってきて良かった。
早速、リボンをつけてあげた。とても似合っている。
喜んではしゃぐテトラに言った。
「あのね、お兄ちゃん、遠くのお家に帰るんだ。だからもう一緒に遊べないんだ」
「えーっ、もうテトラと遊んでくれないの?」
テトラは拗ねたような顔で、少し首を傾げて上目遣いに僕を見た。
きっとこの子は将来、男を翻弄する女性になるだろう。
「これからは、コウちゃんが遊んでくれるからね」
航さんが『は?』という顔をしたが、無視してテトラに話し続けた。
「じゃあ、もう行くから。テトラ、元気でね」
「うん。じゃあ、またね!」
いや、または無いんだけど……。
うーん、ちゃんと伝わったのか不安だ。
でもテトラに喜んでもらえたので良かった。あの時の恩は返せたのだ。
僕らは街を出て丘の上の祠へ向かった。
レンガでできた小さい橋を渡った。赤蜻蛉はもう飛んでいない。
景色は以前通ったときとすっかり変わっていた。
果樹園の果物は全て収穫されていて、葉が落ちた木々が寒そうだ。
祠への道を辿りながら、初めてこの世界に来た時の気持ちを思い出していた。
これからどうしようかと、不安と恐れに満ちていた。
あれから航さんに再会して、旅をして、仲間ができて、最後には魔物を討伐することになるとは……なんて無茶苦茶な展開だったんだろう。
高台まで登ってきて、振り返って遠くのノートスの街並みを眺めた。
心の中で、さよならを言った。
森を通り抜けると祠が見えてきた。
久しぶりに来た丘の上の祠は、前見たときよりも寂しげに見える。
祠に入る前に、聖なる泉を見に行った。以前と変わらず澄んだ水を湛えている。
その脇で咲き誇っていた杜鵑草は、花の時期が終わり葉が枯れ始めていた。
祠に入るとテティーが待っていた。
僕らを見ると、テティーは優しく微笑んだ。
水晶玉は、虹色の強い神気を放っている。
「この世界のものは、聖水以外は全て置いていってください」
「はい。わかりました」
靴を脱いで航さんに渡した。
ここに来たときは足袋を履いていたのだが、ボロボロになって捨ててしまった。
裸足になったが仕方がない。床は思ったよりも冷たかった。
「準備はいいですか?」
「ちょっと待ってください。転移の前に、この国を救った見返りとして一つお願いを聞いてもらえませんか?」
「内容によります。どんなことですか?」
「以前、元の世界に戻ったらここで過ごしたことは全て忘れるって言ってましたよね」
「はい。この世界の記憶を消去します」
「記憶を消さないで欲しいんです。覚えていたいんです。この世界での出来事全てを」
僕にとっては大事な記憶だ。忘れてしまうなんて耐えられない。
物は何も持っていけないとしても、思い出だけは持っていきたかった。
「どうか、お願いします」
「テティー、俺からもお願いする。拓海の記憶を残してやってくれ」
航さんも一緒になってお願いしてくれた。
やっぱり航さんは僕の一番の理解者だ。
「……わかりました。記憶は残しましょう」
「ありがとうございます。それではお願いします」
「聖水は手に持っていてください。転移した際に、直接水晶玉に取り込まれます」
僕は聖水の瓶を右手に持った。
「心残りはないですね?」
心残りか……。あるに決まっている。
ユイのことを思い出していた。だからってどうしようもない。
「いいです。お願いします」
「一つ失って一つ得る。そうして調和を取るのが、この世の理です」
一つ失って一つ得る? どういう意味なのだろうか?
この世界を失って、元の世界を得る、ということだろうか。
それとも、ユイを失って、島の平和を得るということか。
何かを得るには、その代償が必要だということなのだろうーー。
テティーが水晶玉に手をかざして、水晶玉は強く光り出した。
「拓海!」
急に航さんが抱きついてきた。
「拓海、ありがとう。岬姉さんや島のみんなのことをよろしく頼む」
「わかったよ、航さん。元気でね」
「ああ。元気で」
航さんは、僕から離れると同時に僕の肩を突き放すようにグッと押した。
僕はよろけて水晶玉の光の中に押し出された。
「うわあっ!」
僕の身体が水晶玉に吸い込まれていく。
引っ張られる感じがして、眩ゆい光に包まれる。
航さんは最後まで強引だった。もっとスマートに転移したかったのに。
光の向こうにぼやけていく航さんは、顔を歪めて泣くのを堪えているように見えた。
なんだ、照れ隠しだったのか。航さんらしいや。
いろんな経験をさせくれてありがとう。
おかげでずいぶん成長することができた。
この世界のことを忘れないーー。
キラキラとした虹色の空間にいた。そう、この空間には覚えがある。
浮遊した体が運ばれていく感覚があった。
そして、いつの間にか気を失っていた。




