49 敗走
空中に身が投げ出されたと思った次の瞬間、僕は水の中にいた。
川に落ちたのだ。
川は思いのほか深かった。
必死にもがいて浮き上がる。流れが速い。
流されながらも、岸に向かって必死に泳いだ。
やっとの思いで、岸に這い上がった。
結界のおかげで濡れなかったのが幸いした。
泳ぎは得意な方だったが、濡れていたら溺れていたかもしれない。
ユイは? ユイはどこにいる?
立ち上がって周囲を探す。
かなり下流の草の陰に、ユイのローブが見えた。
急いで行ってみると、ユイが岩に堰き止められた流木に掴まって、ぐったりとしていた。
体の半分が川に浸かったままの状態だった。
「ユイ!」
僕は慌ててユイを川から引き上げた。
息はしているようだが、かなり衰弱していた。
濡れないにしても冷たい水に浸かっていたのだ。体は冷え切っていた。
「ユイ、ユイ、大丈夫か?」
「あ……タクミ……良かった」
回復薬を作ってきたのを思い出した。
結界のおかげで腰のバッグは濡れていない。
「これ、回復薬だよ。飲んで」
ユイの上半身を起こして、回復薬の瓶をユイの口に当てた。
ゆっくりだが回復薬を飲んでくれた。
ユイに回復薬を飲ませながら、ガルヘルムが追って来ていないか周囲を探ったが気配はない。
さすがにこの川を渡ってまで追ってはこないか。
しばらくすると、ユイは起き上がれるようになった。
「ありがとうございます。泳ぎは苦手で……。かなり流されてしまいました」
「いや、とにかく無事で良かった」
ガイルとリドのことが心配だが、こちらもあまり余裕はない。
見上げると雲は一層厚くなり、今にも雨が降り出しそうだった。
どこか休めるところを見つけないと、このまま夜になると寒さで凍えてしまいそうだ。
「雨が降ってきそうだ。どこかに避難しないと」
「せめて雨を凌げて、焚き火ができるようなところがあればいいのですが」
雨を凌げる場所か。
この辺りは通常は立ち入り禁止の場所だ。山小屋はないだろう。
洞窟か、せめて岩の窪みのようなところがあればいいが。
「探してみよう」
とはいえ、方向もわからない。
変な方向に行って戻れなくなっては困る。
川でかなり下流に流されたので、とりあえず上流の方に行ってみよう。
少し歩いて行くと、さっきガルヘルムに追われて飛び降りた崖が見えてきた。
木の陰から崖の上の様子を窺う。
ガルヘルムはとっくにいなくなっているだろう。
その時、上流の方向から、微かだが木が折れる音がした。
僕とユイは咄嗟に岩陰に隠れた。
マズい。ガルヘルムの気配はないが、こんなところで魔物化した動物に出くわしても、とても闘える状態ではない。
いざとなったら、また川に飛び込むしかない。
何かが走って近づいてくる音がする。
動物のようだ。葉擦れの音からするとイタチよりもかなり大きい。
魔物なのか?
岩陰から少し覗いてみたその瞬間、その動物は僕らが隠れていた岩の上に飛び乗った。
……リドだった。
「リド! 無事だったのね」
ユイがリドに抱きついた。リドは嬉しそうにユイの顔を舐めた。
その後ろから、草をかき分けてガイルが現れた。
「ガイル!」
「タクミ、ユイ。無事で良かった」
ガイルは、左腕に傷を負っていた。ガルヘルムの爪にやられた傷だ。
服が鋭く引き裂かれ、血が滲んでいた。
「ガイル、その傷……」
「あいつにやられた。避けきれなかった。それほど深くなかったから問題ない」
再会の喜びも束の間、雷鳴が轟いて雨が降ってきた。
「降って来たな。この辺はずいぶん昔に来て以来だが、近くに洞窟があったはずだ。急ごう」
ガイルが先頭に立ち、森の中を進んだ。
雨の中、疲れた身体に鞭打って黙々と歩き続ける。
斜面を登って行くと、洞窟の入り口が見えた。
「中を確認してくる。ちょっと待っててくれ」
ガイルが先に入った。
外からでも、暗いが奥まで見える。それほど奥は深くなさそうだ。
「大丈夫そうだ」
洞窟に入ろうとすると、急に息苦しく体が重くなり、足が止まった。
アナトリカから山道に入った時の、あの感じだ。
ユイも入り口で立ち止まっている。
「ここには悪い気が溜まっているようです。奥まで入れません」
「そうなのか? でもそこでは寒いだろう」
どうしよう。悪い気を浄化できれば。
ん? 浄化? ……そういえば。
「もしかしたら、これが使えるかも」
僕はバッグから女神の聖水を取り出した。
こんなに薄暗い中でも、聖水は辺りをほんのり照らすほど光っていた。
「それは……聖水? 北の祠に使うものだろう?」
「もう一本あるから大丈夫。女神から予備として預かったんだ。強力な浄化作用があるそうなんだ。これを洞窟の中に少しだけ垂らしてみてくれないか」
ガイルは聖水を受け取った。
洞窟の中央に行き、聖水の瓶の蓋を開けると、恐る恐る瓶を傾けた。
聖水が数滴、洞窟の床に落ちた。
その瞬間、洞窟の中の空気が一気に清浄になった。
洞窟に入ってみる。
「ああ、悪い気が一掃されたね。気持ちがいいくらいだ」
「今のは俺でもわかったぞ。なんだか空気がキレイになって、深呼吸したい気分だ」
ガイルはそう言いながら聖水を僕に返した。
さすがの効き目だ。女神が一ヶ月かけて霊力を溜めただけある。
「悪い気が溜まっていたってことは、ガルヘルムがここに来てるってこと?」
「いや、洞窟の中にはガルヘルムの足跡はなかった」
ガイルが言った。そこまで確認してくれてたんだな。
「この地域全体に悪い気が漂っています。おそらく、洞窟の中は空気の循環がないことで自然に悪い気が溜まってしまったのでしょう」
ここもそうなのか。もうあちこちで悪い気が溜まってしまっている。
だが、浄化の方法が見つかったのは朗報だろう。
「では、入り口に結界を張りますね」
ユイが洞窟の入り口に結界を張り始めた。
入り口が大きいうえに、ユイはかなり疲れているはずだ。いつもよりも時間がかかっていた。
洞窟の中は、誰かがいたような痕跡があった。
「誰かが住んでたみたいだね」
「盗掘者が寝床にしていたのかもしれないな」
おかげで、薪がたくさん置いてあったのは助かった。
ありがたいことに、鉄鍋まであった。
ガイルが火を起こしてくれたので、暖かくなった。
これでなんとか夜は乗り越えられそうだ。
外は雨が強くなってきたようだ。雷も聞こえる。
「ガイル、怪我の治療をします」
ユイがガイルの左腕の治療を始めた。
塗り薬が染みるのか、ガイルは珍しく顔をしかめていた。
「終わりました。傷はそれほど深くなかったので、明日には問題なく動かせると思います」
「ああ、ありがとう」
ユイはガイルに笑顔で応えた。
「それにしても、よくガルヘルムから逃げてこれたね」
「お前たちが崖から飛び降りた後に、リドがガルヘルムに噛み付いてな。あいつがリドを追いかけている間に、遠くまで逃げられた。その後リドがあいつを撒いてくれたんだ。助かったのはリドのおかげだ」
リドは寝そべったままぐったりしていた。
さすがに疲れているのだろう。ガルヘルムに振り飛ばされて木にぶつかってもいた。
「回復薬を作るよ。薬草をもらっていいかな」
「では、こちらの薬草を使ってください。アクティで買った薬草です」
ユイからもらった薬草を、鉄鍋で煎り、石で潰して粉にした。
鉄鍋で湯を沸かして、そこに薬草の粉を全部ぶち込む。気を送って完成だ。
かなり雑な作り方になったが、ちゃんと光ったので大丈夫だろう。
ガイルが近くから取ってきた大きな葉っぱを器代わりにしてみんなに分けた。
みんな顔色が良くなってきた。リドも起き上がっている。
とりあえず、満身創痍の状態からは脱したようだ。
「悪い。食べ物を入れていた袋は、ガルヘルムと闘う際に落としてしまった」
ガイルが申し訳なさそうに言った。
そんなことは構わない。
みんながこうして無事でいたことだけで十分だ。
外はすっかり暗くなり、雨が降り続いていた。




