03 異変
「ただいま」
玄関の引き戸を開けると、久しぶりの実家の匂いに包まれた。
湿気を帯びた古い木材と古い畳、古い本、それに少しだけカビ臭さが混ざったような匂い。
ここだけ時間が止まっていたかのように、忘れていた実家での日々が一気に蘇ってくる。
廊下を進んで居間に行くと、母さんが台所からやってきた。
「おかえり。疲れたでしょう。もうすぐ夕飯だから」
「うん。僕の部屋ってまだある?」
「そのままにしてあるわよ」
二階に上がり一番奥の部屋に入って電気をつけた。僕の部屋だ。
最後に帰省したときのままだがきちんと掃除されている。
バッグを置き部屋着に着替えると、なんだかホッとしてベッドに寝そべった。
布団は太陽の匂いがする。きっと干してくれたんだな。
このままだと眠ってしまいそうだ。
起き上がってスマホをチェックしたが、誰からも連絡は来ていない。ため息をついてスマホを充電器につないだ。
東京土産をバッグから取り出して一階に降りていった。
台所に行くと煮物のいい匂いがしている。
「母さん、これお土産」
お土産に買ってきた菓子折りをテーブルに置いた。
「あら、ありがとう。ご飯にするから座ってて」
「父さんとじいちゃんは?」
「町内会の寄合に出かけてるんだけど……あ、帰ってきたみたい」
玄関の引き戸がガラガラと開く音がした。
鍵を閉める音と同時に足音が近づいてきて、じいちゃんが現れた。
「おう拓海、帰ってきたか。元気そうだな」
「うん。じいちゃんも元気そうだね」
遅れて父さんも入ってくる。
「おかえり。拓海」
「うん。ただいま」
賑やかな夕食になった。
久しぶりに帰ってくる息子のために母さんが頑張ってくれたのだろう、食卓には僕が好きな料理が並んでいた。料理はどれも美味しかった。イカと里芋の煮付けを食べたとき、胸にグッと込み上げてくるものがあった。そう、この味だ。長年舌に馴染んできた、少し甘めの母さんの味付けだ。
せっかくだからと、じいちゃんがとっておきの日本酒を出してくれた。僕は日本酒はあまり好んで飲むほうではなかったが、飲んでみたら思いのほか美味しかった。
お酒が入ったこともあって、みんなはいつもより饒舌になっていた。たわいもない話で大笑いした。特にじいちゃんはご機嫌の様子で僕に大学でのこととかいろいろ聞いてきた。
「拓海、弓道は続けているのか?」
じいちゃんは弓道教室で講師をしている。美波戸島では昔から弓道が盛んだった。昔に比べると減ってきたが、今でも年配の方を中心に続けている人は多い。
僕は中学生のときにじいちゃんに基礎から叩き込まれた。高校では弓道部で主将を務めた。大学でも弓道部に入部したが、高校で主将をやっていたことをうっかり話してしまい、えらく期待されてしまったのが重たくなって、二年生後半からはほとんど行かなくなった。三年生で退部してからは弓道と距離を置いていた。
じいちゃんには大学で弓道部に入ったことまで話してあった。
「あー、大学まではやってたけど、就職してからは忙しかったし、近くに弓道場もなかったから……」
「そうだなあ、弓道ができる場所は少ないもんなあ。しょうがないよなあ」
じいちゃんは残念そうに言った。
僕が弓道をやってみたいと言ったとき、じいちゃんはすごく喜んでくれた。弓道は体だけでなく心が鍛えられるんだ、と教えられたものだ。
少し申し訳ない気持ちになった。
雑談しながらも、宮司の後継ぎの話をされるのではないかと内心ヒヤヒヤしていた。
帰省している以上、後継ぎの話が出るのは避けられないとわかってはいる。だが帰って早々にその話をされると正直萎えるなと思っていた。
だが、その話は出なかった。会社が倒産するという不幸に見舞われた僕を気遣って、仕事の話題を避けてくれているのかもしれない。
「そういえば、大我くんが車でここまで送ってくれたのよね。元気にしてた?」
「うん。すっかり逞しくなって、一人前の漁師って感じだったよ」
「大我か? よく遊びにきてたわんぱく坊主だろう? もうそんなに大きくなったのか」
「当たり前だよ、じいちゃん。だって僕と同い年なんだから」
笑いながらふと大我の言葉を思い出した。ずっと頭の隅に引っかかっていたことだ。
「そういえば大我が言ってたんだけど、このところ不漁が続いてるみたいなんだ。それも年々魚が減ってるんだって。何か知らない?」
じいちゃんと父さんは、はっとして顔を見合わせた。
何かまずいことを聞いちゃったのか?
少しの沈黙の後、父さんが口を開いた。
「実はな、このところ島では悪いことが続いているんだ。今日も町内会でその話をしてきたところだ」
「悪いことって何?」
「大我くんが言っていた不漁もそうだし、農作物の収穫量も減っている。養鶏場では鶏の病気が発生した。去年と今年の台風の被害も大きくて、あちこちで土砂崩れが起きて復旧に時間がかかったんだ」
母さんが続けて話した。
「観光客も減ってるんですって。あの港の近くのカフェ、えーっとなんて名前だったかしら。あのカフェも先月閉店しちゃったのよ」
「港の近くのカフェって、オケアノスのこと?」
「そうそう、オケアノス。一時は行列ができるくらい人気だったのにね」
オケアノスは僕が高校生のときにできたお洒落なカフェだった。店名は確かギリシャ神話の神様の名前からとったものだと記憶している。海に少し張り出した地形の先端に建っていて景色が抜群に良く、観光ガイドには必ず載るようなカフェだった。僕も三回くらい行ったことがあるが、いつもほぼ満席で賑わっていた。今回も時間があったら行きたいと思っていたのに残念だ。
「西側のホテルがある辺りも、急にお客さんが来なくなっちゃったらしいの。一時期は車が渋滞するくらい人が集まってたのにね。ホテルも宿泊する人が少なくて、近いうちに倒産しちゃうんじゃないかって噂になってるわ」
じいちゃんが眉間に皺を寄せてため息をついた。
「島全体がすっかり活気が無くなっちまった」
じいちゃんは日本酒をグイッと飲み干してから僕を見た。
「拓海、神社には挨拶に行ったか?」
「いや、さっき帰ってきたばっかりだから。明日参拝するよ」
「そうか。明日神社でちょっと話がある」
きた。宮司の後継ぎの話だ。
まあ、覚悟はしてたから早めに話しておいた方がこちらも気が楽になるかもな。
「わかった。明日神社で声を掛けるよ」
なんか雰囲気が暗くなってしまったので話題を変えよう。
「そうだ、航さんと連絡取ったりしてる?」
三人の顔が急に引きつった。
あれ? また何か変なこと言っちゃった?
「どうしたの? 航さんに何かあったの?」
母さんは唇を結んで下を向いている。
父さんは何か難しい問題を考えているかのように額に手を当てて黙り込んでいる。
じいちゃんが重い口を開いた。
「お前には言ってなかったが……航也は、神隠しにあったんだ」