くそったれの日常
僕は鏡の前で自問自答する。僕は一体誰だ?何のために生まれてきた?わからない、自分が。たまに鏡の自分がふっと笑う。何がおかしい?僕はいたって大真面目だ。真冬の札幌の凍える寒さ。家賃三万のボロアパート。吹き抜けに冷気が入ってくる。お気に入りのバスルーム。四隅に緑のカビが生えた鏡。三日に一回は水が漏れる。排水溝に髪が絡まる。女が入っていたんじゃないかと疑うような毛量。うっすら右の生え際がはげ始めた。まだ成人していないのに。年々劣化していく容姿。もともと減るような代物じゃなかったが。鏡の前に立つ。現実逃避のために。ブ男なのにナルシスト。豚に真珠。猫に小判。馬の耳になんとやら。僕は明日を想像した。吐き気がする。ちょっと吐いてみる。胃液しか出ない。発泡酒をあおる。苦みに顔をしかめる。それを鏡越しに見る。こう見ると、自分が童貞であることが不思議に思える。…しかしなんて不味いんだろう!こんなもの人に売っちゃいけないんじゃないか。手元が狂い、洗面台に発泡酒が流れた。衝撃音が耳に劈く。鏡の中には僕の間抜け面。ああやっぱり童貞だ。間抜けすぎて少し笑えた。…不思議なもので、明日への絶望感が薄まった。
寝坊した。昨晩寝たばこしていたら、ひと箱終わっていた。ラークの芳醇なうま味とビターな後味に悦に浸っていた自分をぶん殴りたい。四度目の遅刻。ナベさんは僕を見るなり大きなため息をつく。またストレスをためてしまった。ただでさえ加齢臭がきついのに。「…どうして遅刻したの?」「すみません、遅延です。」「遅延はないよ、今日は」「ごめんなさい」「…早く行きな」いつもの待合室にオバハン連中はいなかった。僕一人で仕事をしろと言うのだ。洗面道具だけ持って、エレベーターに乗る。今日は9階からだ。鏡張りの浴室。モニターをつける。ひと昔前のエロビデオをチラ見しながら風呂掃除。しかしものすごい熱気だ。数十分前までの情事を容易に想像できそうだ。冬場にもかかわらず汗ばむ。僕は水滴をすべてふき取る。証拠を隠滅するように。このホテルはよくできている。風呂場の中にシャワー室があるのだ。最低二回するようにできているわけだ。そのおかげで、僕ら客室清掃員は二度手間がかかるわけだが。部屋に大きな挨拶が轟く。正社員の菅井だ。僕は急いでモニターの電源を切った。僕はこのベンチャー刈りの怖面が苦手だ。なんてったって距離感が近い。大して親しくない人間の肩を僕は触れられない。菅井は珍しく神妙な顔をしている。「おはようございます!」「…ちょっといいかい?」菅井は地べたに座って、自分の目の前に手を指す。指定の位置に座る僕。「…ちょっとさ、言いにくいんだけど」「はい」「…苦情が来てるんだ、○○さんから」同僚のオバハンだ。「…なんのですか」「態度悪いって…」「はい?」「怒ってたの?」「まさか」「そういう風に見えたんだって…」「そういう顔の作りなんです」「だったらさ、もっと柔らかい顔しようよ」「なんでそんなことを」「そういうことだぜ、仕事って」「…」「任された仕事を不愛想にこなすようじゃみんなに嫌われるよ」「不愛想じゃ…」僕と菅井の口論は30分以上続いた。とうとうナベさんまで介入して、なんとか終わらせたくれた。ナベさんが声を荒げて言った。「いつもそうやってきたんだべ!そうやって我を押し通して!」僕はクビを覚悟した。上司に生意気言ったから当然だ。しかし、クビの皮一枚つながった。一人で仕事をすることになったのだ。風呂専門の清掃員。
塾に行く。小学校専門の個別指導塾。高校生なんて一人もいない。浪人生は僕だけ。先生は自分と同級生か年下。北大に通っているエリートに低能の僕は頭を垂れる。さわやかな佐藤先生は僕とタメだ。いつもぎくしゃくしている。僕は敬語をやめてくれと言ったが、いつもやりずらそうだ。古文を教える佐藤先生。プリントに要点をまとめて、教えてくれる。当然時給は発生しない、自主的に作っているプリント。脱帽した。同時に何故か妙な焦燥感を感じた。彼と僕は大きく異なる人間なのに。しかし彼と僕の間に一生埋まらない何かが確実にあり、その差がいつできたのかがずっと気がかりだ。授業終わりに自習していると、後ろから話しかけられた。「…お疲れ。」「ああ!どうも」僕は心臓が飛び出そうだった。一個下の木下先生だ。明後日は彼女が授業をしてくれるらしい。わざわざ伝えにきてくれるなんて…しかし今日も可愛いなあ、カチューシャなんかしちゃってさ。なんてったって声が可愛いんだ。あの控えめで、しかし芯のある声が。彼女をどうこうしたいなんてまさか…
週末には母親が家を訪れる。シチューをタッパーに入れてきて。母の車に乗って、回転ずしを食べに行く。毎週決まったルーティーン。車の中で妹の近況を聞く。よくやっているようだ。妹は今年高3で、受験戦争に巻き込まれピリついている。医学部受験は特に。プータローの僕を家から追い出してくれたのは妹だった。そういう意味で妹は僕の中で年下だと思えなかった。僕の精神年齢が低すぎるせいでもあるが。
僕はずっと甘やかされて育てられた。それはとても素晴らしいことだ。親が子に酷なことをさせようとしないなんて。しかしそのしわ寄せは後になって大きく響いてきた。高2の冬に家出した。学校に行きたくなくて、北海道の雪景色にうんざりして。故郷の埼玉に戻りたい一心で。旅のお供に「こころ」をもっていった。読んでいるうちにKに感情移入してきた。そこで今まで考えもしなかった自殺の二文字が頭をちらつき始めた。埼玉の安ホテルで首つりするためにドアノブにロープをひっかけて、クビを突っ込んだ。めちゃくちゃ苦しくて途中でやめた。楽して死ねる方法を探すよりなかった。ホテルの有料チャンネルで犬鳴村のホラー映画を見た。実物の犬鳴村を見たくなって、福岡まで新幹線で行った。後になって母から、夜行バスで行かずに新幹線で贅沢するところに僕の根本的な自分への甘さがあるのだと言っていた。もっともだ、と同調するよりなかった。肝心の犬鳴村はダムの底らしい。ダム近くのモーテルの店主は苦笑しながら、半世紀前だったらあったのにと言った。モーテルの真っピンクの壁紙が目に焼き付いて今でも鮮明に思い出す。僕はすることがなくなって、アダルトショップばかり通っていた。じいさん方に交じって、パッケージを眺め眺め、それで一日を終えていた。その旅路にタバコと酒を知った。一日だけ映画を見た。「パラサイト」を見た。予備知識もなく、初めての韓国映画だった。衝撃だった。今までこんな作りこまれた映画をおよそ見たことがなかった。僕は映画館を出て、トイザラスでおもちゃを眺めながら、この興奮を誰かに伝えたかった。僕の話し相手なんてここ三年くらい母親しかいなかった。僕は出頭した。一日留置所で眠って、次の日母親が迎えに来た。母ははじめ久々の再会に感動していたが、家に帰る道すがら愚痴をこぼした。SNSに僕の情報を流す一歩手前だったらしい。探偵を雇い、その費用も馬鹿にならない、返済できるかと聞かれた。一気に現実に引き戻され、感想を言う気が失せた。僕はそこから何事からも逃げることを覚えたのだった。