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第二話 走れ強右衛門②

船着山を駆け抜ける強右衛門。

目指すは岡崎城の家康の元、強右衛門の思いは家康に届くか!?

 勝商は、暗闇の中を感覚だけで南に向かっていた。南下して船着山の峠を越えていかなければいけない。岡崎へ出る街道とは方角が違うため、山中を進めば武田の兵士に見つかる可能性は低くなる。ただしその分、道も明かりもない真夜中の山中を進まなければならないのは非常に危険な行軍だった。何度となくつまずき、何度となく転び、一刻(約二時間)もすると、勝商の身体は傷だらけになってしまった。


「う、うわぁっ!」


 足元に出っ張った木の根っこに気が付かず、この夜何度目か忘れたくらいの転倒をした勝商は、不意に周囲の暗闇が襲って来た気がして、思わず身体を小さく縮こめた。


「お、おっかねぇよぉ。お豊ぉ。」


 勝商は今年三六歳。同郷の豊(とよ)結婚して、長篠城下に住んでいる。籠城を始めてから家には帰っていなかった。もとより、帰るも何も武田勢に囲まれて帰りようはなかったのだ。子供の竜右衛門(後の信商のぶあき)は七歳、娘の光(みつ)はまだ三歳であった。出仕以来、家族にはもうどれだけ会っていないだろう。


 月明りもない真っ暗闇の中、近くの大木に身を寄せ、思わず訪れた言いようのない寂しさに、勝商は自分で自分の身体を抱き締めた。と、その時、自分の懐にあるものに気が付いて手を忍ばせると、長篠城を出るときに定昌が持たせてくれた握り飯がその手に触れた。ようやく目が慣れてきた勝商は、包みを開いて中身を見た。大き目の握り飯が二つ、漬物と一緒に入れられていた。


 勝商の脳裏に、送り出してくれた時の定昌の真剣な笑顔が浮かんだ。鼻をすすると、無造作に涙をぬぐい、握り飯の一つを口に頬張った。よく塩が効いている。汗だくになっている勝商の身体に染みわたっていくような気がした。


「しょ、しょっぺぇ。でも、うめぇ。うめぇです。定昌様・・・。」


 一個目を夢中で頬張っていると、不思議と恐怖心は薄れていき、勝商の瞳に闘志が戻ってきた。そして、二個目の握り飯と漬物を食べながら、冷静に頭の中で計算を始めた。定昌の家老の話では、いったん南に船着山を越え、西に向かっていけば岡崎の方向へ出れると話していた。森の中ではフクロウが鳴いている。まだ夜は始まったばかりだ。今夜中にどこまで行けるかが、武田勢に見つからずに岡崎へたどり着くカギになる。


 握り飯を食べ終え、手に着いた米粒を大事そうに食べ尽くすと、


「よし。」


 勝商は一度、大きく深呼吸して、再び暗がりの森の中を歩み始めた。相変わらず辺りは漆黒ともいえる闇の中だったが、定昌の持たせた握り飯で、腹と共に心も膨れた勝商には、もう恐怖心は残っていなかった。



 一方その頃、信長は嫡男である信忠をはじめ、北畠信雄、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、明智光秀、佐久間信盛など、各地から集合させた有力武将達と共に、三〇〇〇〇もの大軍をもって岡崎城近くの矢作川へ集結していた。その信長の傍らには、織田家の軍師・霞北和泉守忠繁の姿があった。


「下知があればすぐに移動します。各々、万全の準備の上、しばし休息願います。」


 なんせこれだけの大軍である。しっかり整列させないと、長篠までの道のりに時間を浪費してしまうことになる。忠繁は、事前に綿密な計画を立てたとおりに、各将へ配置を指示していった。


「忠繁、城で家康と話をしてくる。ここはしばし任せたぞ。」

「かしこまりました。」

「すまぬな。お前も家康の顔が見たいだろうが。」


 信長のこういった気遣いは忠繁には意外だったが、もう慣れてしまった。文献で知る信長とは違う、優しい一面である。


「お気遣いありがとうございます。布陣をしたら軍議でお顔も拝見できるでしょう。」


 信長はそれを聞くと、家康の待つ岡崎城へ出向いていった。しかし、長篠の戦を控えたこの頃、家康は原因不明の腹痛に襲われ寝込んでいた。薬を飲んで休むようにしていたが、酷い下痢と高熱にうなされていたのだ。五月も下旬に差し掛かっていたが、このところの季節の変わり目に、身体が参ってしまったようだった。


 信長は酒井左衛門尉忠次(さかいただつぐ)や石川与七郎数正(いしかわかずまさ)らに兵の様子や、長篠での配置、長篠城周辺の状況を説明した。長篠城の城兵は、城主の奥平定昌以下五〇〇名、よく持ちこたえていると言える。


「されど、こう武田に囲まれては伝令も行き来できず、城内の情報が一向に入って来ませぬ。」

「長篠の兵糧はどうじゃ?」

「もう、尽きていておかしくはない時期でございます。」

「何とか連絡を取りたいものじゃな。」


 家康も、何度となく城への伝令を出しているが、武田に阻まれて断念している。信長がいくら援軍を送ってきたとしても、城の様子がわからなければ今後の戦略も難しい。


「と、殿!」


 忠次が驚いたように声を上げたので、信長が廊下を見ると、顔を真っ青にした家康が小姓に支えられながら立っていた。


「信長殿。戦前にかような姿を見せて申し訳ない。」

「気にせず寝ておれ。」

「い、いや。そうも言っておられ・・・。」


 言いかけて、ふらふらと力なく膝を付いてしまった。信長は呆れ顔で、


「数正、縛り付けてでも家康を寝かせておけ。時期に良くなるであろうが、それまでは休ませよ。」

「ははっ。さぁさ殿、信長公もこうおっしゃられております。ここは我らに任せてお休みくだされ。」

「し、しかしじゃな。」

「大将が青ざめていては士気にかかわる。いいから寝てくだされ。」


 そう言う数正に引きずられて、家康は寝室へ引き上げていった。部屋では正室の瀬名や、側室の万(まん)が世話をしている。信長はやれやれとため息を吐くと、


「家康は昔から、ここ一番の時には身体を壊すのぅ。」


 そう言って苦笑いした。


「申し訳ございませぬ。」


 忠次も苦笑いするしかなかった。



 その頃、勝商は船着山を越えて、街道に出ると岡崎へ遮二無二走り続けていた。山道で受けた傷が身体のあちこちに見られ、はたから見れば野盗に襲われた被害者か、そうでなければ野盗そのものだった。街道を行く人々も、勝商の姿と鬼の形相を見て驚き、あるいは恐れおののき、道を開けるしかなかった。明け方までに船着山を越えた勝商は、麓の村人を捕まえては、街道の位置を聞き、街道に出てからはひたすら西へ走り続けた。


 すでに疲労困憊、枝葉で切った傷からはうっすらと血が滲み、それもすでに乾いて赤黒くなっていた。草履と擦れた足の指にも血が滲み、足は棒で叩かれたように痛かった。岡崎城までは、まだ一二里(約四七キロ)はある。


「う、うわっ!」


 街道にあったへこみに気が付かず、勝商は豪快に転んでしまった。膝が擦り切れ血が滲んでくる。痛さよりも、何としてでも岡崎城へという気持ちで立ち上がろうとした。


「おっちゃん。大丈夫け?」


 見上げると、まだ四、五歳の女の子が街道脇から声をかけてくれた。街道脇を下ると一面に田が広がっているため、そのうちのどれかの農民の子なのであろう。


「ああ、大丈夫じゃ。」

「膝、ケガしとるんじゃないか。」


 心配そうにする女の子の頭をポンポンとたたき、


「ありがとな。こんくらい、大丈夫じゃ。」


 そう言って笑って見せた。本当は笑うのもつらいくらい身体のあちらこちらが痛かったし、本当は泣き出したいくらいつらかった。


「お前さん。大丈夫かい?」


 女の子の親だろうか、田のほうから心配そうに農民夫婦が歩み寄ってきてくれた。


「はは、ありがとさん。大した傷じゃねぇから大丈夫じゃ。」

「しかし、傷だらけじゃねぇか。少し休んだらどうかね。」


 父親らしき農夫がそう言ってくれたが、勝商は首を振ると、


「急ぎ岡崎へ参らねばならんのじゃ。気遣いかたじけねぇ。」


 そう言って心配そうに見守る親子を残し、勝商は再び走り始めた。この街道を行けば少なくとも岡崎へは出られる。足がつろうが、めまいがしようが、足だけは西へ西へと向かっていた。時折、勝商の姿を見て、深い事情を察したのか、街道沿いの人が水や食べ物を渡してくれたのは嬉しかった。三河の民は情に厚い。事情は知らなくても、懸命に走る勝商に声援を送ってくれた。


 そして、陽もすっかり沈んだ夜の帳。忠繁が陣頭指揮を執る矢作川の本陣では、諸将が集まって夕飯に出された湯漬けと漬物、焼き魚を食べながら、信長の帰りを待っていた。とは言っても、岡崎場内で接待を受けるだろうから、帰りは翌朝以降になるだろうとは考えていた。


「忠繁殿。この漬物は、三河の民が納めてきたものじゃがいかがかのぅ。わしが味見してしっかり吟味したのじゃが。」


 秀吉はそう言って漬物を口に放り込んだ。


「サル! そう言うて、貴様がつまみ食いしたかっただけであろうが。」

「勝家様。それは・・・、その通りでござるな。」

「ははは。」


 勝家の物言いに、ばれてしまっては仕方ないと、秀吉は舌を出しておどけて見せた。こういったしぐさのかわいらしさなどが、彼を『サル』と呼ばせているいる所以なのかもしれない。しかし、始めのうちは農民から身を立てた秀吉のことを田舎者と馬鹿にして言っていた勝家たちだったが、今では秀吉の才能を認め、親しみをもって言っているように聞こえる。事実、秀吉自身も昔に比べて『サル』と呼ばれることに何の抵抗感もなくなっていた。


「藤吉郎様のお眼鏡に適っているなら間違いございません。うん。美味しいですね。」


 忠繁は笑顔で漬物と湯漬けをかっ込んだ。もともと質素な食事は好きであったが、無駄な化学肥料などを使わないこの時代の作物はどれも味が濃くておいしいと感じていた。秀吉の妻・寧々は、漬物作りの天才で、忠繁の妻・風花もその技術を教わっていた。忠繁にはすっかり馴染んだ味だ。


 二杯目を食べきったところで、幕舎の外がにわかに騒がしくなり、足軽の一人が中に入ってきて頭を下げた。


「報告いたします! 怪しい者を捕らえました。長篠城の者だと話しておりますが、ボロボロの身なりで本当かどうか怪しい者です。ご詮議いただきたい。」


 長篠城という言葉に、一同総立ちして身構えた。


「詮議いたす。ここへ連れてまいれ。」

「ははっ。」


 忠繁の指示で、しばらくして全身ぼろぼろの衣服をまとい、傷だらけの男が連行されてきた。息を切らし、目はうつろで、今にも死んでしまうかのような様相だった。


「わ、わしは・・・、はぁ。はぁ。長篠、城の・・・。はぁ。はぁ。」


 何とか声を出そうとしているが、息が切れて呼吸をするのも難しそうな状態だった。


「誰か、この者に水を持ってまいれ。」


 見かねた秀吉が命じると、足軽の一人が桶いっぱいに水を汲んできた。勝商は、足軽が差し出したお椀は受け取らず、桶を引っ掴んでそのまま飲み、半分ほどは頭からかぶった。そして、何度か深呼吸し、息を整えてから両手を付いた。


「かたじけねぇ。わしは、長篠城主、奥平定昌様が足軽にて、鳥居強右衛門勝商と申す者。長篠は武田勢に取り囲まれ、もう持ちこたえられません。わしは、定昌様の命で援軍のお願いに参上仕りました。」


 その言葉に、諸将はざわめいた。情報の入っていなかった長篠城からの、待望の使者だったのだ。


「長篠城は、まだ、持ちこたえているんですね?」

「へ、へぇ。定昌様が踏ん張ってるから、まだ何とか持っております。しかし、兵糧は底を突き、もはや風前の灯火・・・。早よぅ援軍を!」

「わかりました。」


 忠繁は勝商の肩を叩くと立ち上がり、


「これから岡崎城へ行ってまいります。柴田様、しばしここをお任せしてもよろしいですか?」


 振り返ると諸将にそう言った。勝家が快く引き受けてくれたので、忠繁は勝商を連れ、岡崎城へ急いだ。馬には乗ったことがないという勝商は、忠繁の後ろに乗ってしっかりと腰をつかんだ。


「城まで飛ばします。鳥居殿、しっかり捕まっていてください!」


 忠繁の愛馬・十六夜(いざよい)は、大地を蹴り、岡崎へ駆けた。暗がりだったが、岡崎城までは近く、この道も忠繁にはもはや慣れた道のりだ。道中、馬上にて、勝商は長篠城内の状況や、武田勢の囲いのことをわかる限り伝えていった。


 岡崎城前までやってくると、忠繁は大きく息を吸い込み声を上げた。


「織田信長様が家臣、霞北和泉守忠繁、信長様へ報告があり参った。急ぎ取り次がれたい!」


 門番にいた兵は、確認をしてくると城内へ消えていった。そして、ほどなくして城門が開かれた。忠繁はすぐに馬を城内へ入れると、駆け寄ってきた忠次に声をかけた。


「酒井様。長篠城より、鳥居勝商殿が使者としてお見えになりました。信長様はどちらに?」

「信長様は夕餉の後、少し休むと申されて寝所に引き上げておられます。ただ、何かあれば起こすようにお話ししておりましたので、すぐにお呼びしましょう。」

「お願いします。家康様は?」

「申し訳ござらぬ。殿は下痢と高熱で寝込んでおります。」


 とにかく中へ、と、二人は城の広間へ案内された。二人が待っていると、ほどなくして信長が入ってきた。二人は頭を下げた。


「信長様。この者、長篠城主、奥平定昌様のご家臣で鳥居勝商と申す者。援軍の要請に参られました。」

「で、あるか。」


 信長は勝商の前に無造作に座ると、その姿を見て声をかけた。


「休まずに駆け抜けてきたか。」

「へ、へぇ。船着山を越え、ここまで走って参りやした。どうか、どうか援軍を・・・。」

「わかっておる。明朝、軍を発する。三河勢と合わせて総勢三六〇〇〇の大軍ぞ。勝頼などすぐに蹴散らしてくれよう。」

「あ、ありがたきお言葉。」


 信長は立ち上がると、


「石川! この者に食事と手当てをしてやれ。鳥居と申したな、大儀である。」


 そう言って、軍議のために去ろうとしたが、


「お、恐れながら!!」


 勝商の言葉に振り返った。勝商は床につくほどに頭を下げ、


「わしは、信長様と家康様の援軍が来るということを、いち早く長篠に伝えとうございます。」


 そう言って頭を挙げた。


「しかし傷だらけではないか。」

「こんなのかすり傷でございます。城のみんなの苦しみに比べたら、わしの疲れや多少のケガなど大したものではありません。」

「うむ。」


 信長はその言葉を聞いて、何か考えているようだったが、


「わかった。いち早く戻るというのは殊勝な奴じゃ。だが、傷の手当と食事は取れ、途中で倒れては元も子もないぞ。忠繁、任せたぞ。」

「ははっ。」


 信長はそう命じると、広間を出て行った。


「さぁ、手当てをして食事を済ませましょう。」

「し、しかし。」

「信長様のおっしゃったとおりです。あなたが帰り道で行倒れたら、長篠の皆様は悲しみます。しっかり英気を養って、伝令をお願いしますね。大丈夫、信長様と家康様が、必ず長篠を救います。」

「か、かたじけねぇ。」


 目にうっすら涙を浮かべる勝商の背中を、忠繁は優しくさするのであった。


続く。

ついに岡崎城へたどり着いた強右衛門。

信長の出陣の下知はいつ出るか。

そして、体調を崩した家康は復活できるのか。

次回もどうぞお楽しみに!

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