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 綺麗に晴れ上がった空を、まぶしそうに崇は見上げる。

 ここ数日あちこちで事件に絡まれているおかげで、青空すらも苛立ちの対象になってしまっている。

 苛立ち紛れに靴底でアスファルトを蹴りつけた時だ。

「たっかしちゃん、おっはよー!」

 ドン、という音ともに、首に腕をかけられ後ろに身体が引っ張られる。

 勢いよく抱きつかれたため、一瞬だが崇の息が詰まってしまった。ぐっ、と短く潰れた悲鳴を上げながらも、崇は勢いよく頭を戻すと抱きついてきためぐみに向かって怒鳴りつけた。

「ってめぇ、重いから離れろ!それと、人の鼓膜を破る気か!」

「そんなつもりないもん」

 むっとしたような横顔が離れ、めぐみはトン、と身軽に着地する。それを半目で眺めながら、崇は不機嫌を隠そうともせずに歩き出した。

 慌ててその後を追いかけ、めぐみは崇の顔を少しばかり難しい顔で見上げた。

 常とは違うめぐみの様子に、崇は訝しく思いつつ直球の疑問を投げつけた。

「何だよ?」

「……あのね、こんなこと言うのも何だけど」

 珍しく歯切れ悪く、めぐみはそう切り出す。

 思わず立ち止まりめぐみを見下ろせば、どう話した物かと思案深げに眉根を寄せためぐみが、それでもなんとか考えをまとめたらしく慎重に口を開いた。

「あの、井上さんって人、少し気をつけた方がいいよ」

「何だよ、突然」

「崇ちゃん、新聞の切り抜き読んでたから知ってると思うけど、崇ちゃんの高校で殺された人居たでしょ。

 その人、彼女と一緒に帰ったんだって」

 初耳でしかない事柄に、崇は立ち止まってめぐみを見つめた。

 同じように立ち止まれば、この陽気には似つかわしくない血生臭い話題を口にしていると分かっているのか、めぐみは幾分か声を潜めて話しを続けた。

「たぶん、何か知ってると思う、彼女」

「何をだ?」

「まだ分かんないけど、近いうちに分かる、と思う」

 そう告げためぐみの態度は、何らかの確証を得ていることをうかがわせる。

 だが、それが実際のところ、どんな関係性を持っているのかが分からず、崇は眉間に浅くしわを刻んだ。

 その様子に、めぐみは苦笑を浮かべてドン、と勢いよく崇の背中を叩き付ける。

「またなんか分かったら、知らせるね」

「おい」

「バス来ちゃうから、先行くー!」

 何かを尋ねる前に、めぐみは素早く駆け出してしまう。その背中を見送り、崇は深く息を吐き出した。

 知っていることを話せと脅したところで、めぐみはするりとそれを切り抜けるだろう。確証を得てから話しを切り出す、といったところだろうが、崇としてはそんなに悠長に事を構えていられないという苦い思いがある。

 自分達が標的にされている可能性は限りなく高い。それを少しでも薄めるためにも、情報は崇にも渡して欲しいというのが心情だ。

「しっかし、どういうことだ」

 井上(あゆむ)が、渦中に居るということだろうか。だが、そうだとしても井上が何を知っているというのだろうか。

 疑問だけが強く残る内容は、ふとひらめいた言葉が対口を出てしまった。

「犯人、だってのか?」

 まさか、という思いがある。だが、めぐみは自分を襲ったのは人間の女性のようだと言っていた。化け物と定義づけをしていながらも、めぐみは『あれ』との対峙の際に投げ飛ばしている事実がある。

 けれども、井上は、人間だ。

 額に第三の眼があるわけでも、瞳の色が金色でもない。ごくごく普通の少女にしか過ぎない存在だ。

 にもかかわらず、めぐみはあえて崇に接触を禁じるような言葉を放った。

 ぐるぐると疑問だけが頭を支配する中で、何時もと代わらぬ動作で眼の前についたバスに崇は乗り込み、そのまま混み合うバスの車内で考えに没頭するように窓の外を眺めていた。

「おっす、崇」

「っ」

 突如かけられた言葉に、弾かれたように崇が顔を上げる。

 よほど険しい表情を浮かべていたのだろう。声をかけてきた佐久間(さくま)が、驚いたように崇を見つめた。

「どうした?」

「んでもねぇよ」

「その顔じゃ、説得力ねぇって」

 その言葉に、僅かに強ばっていた崇の身体から力が抜け落るとち、代わりのように苦笑が浮かんでしまった。

 ようやく何時もの崇らしい雰囲気に変わっていくと、佐久間は幾分か安堵したように肩を落とす。

 バスの車内で崇を見つけたはいいが、何時もとは違い声をかけることすら憚られるような表情と顔付きだったのだ。何かあったのかと問いただしたかったが、そんな疑問を口にすれば、またぞろ先程の雰囲気に立ち戻るのは分かっているため、あえて佐久間はその疑問を崇にぶつけることはなかった。

 それを肌で感じつつ、そういえば、と、崇は思い出したように佐久間に尋ねてきた。

「お前、井上歩のこと知ってたよな」

「気になるのか?」

「……いや、別に」

 聞き方を間違えた、とばかりに、崇は顔を顰める。

 そんな崇の表情を見ながらも、佐久間は格好の弄り合いが出来るとばかりに崇に食いついた。

「んだよ。そんなに井上のこと気になるのかよ」

「別に気にはしてねぇよ」

「またまた」

「佐久間、いい加減にしとけよ。オレの機嫌は今最悪なんだ」

 ぎろりと睨みあげれば、佐久間はすぐに白旗を揚げて手すりにもたれかかった。

 そんな佐久間の様子に小さく溜息をつき、崇は再び窓の外へと視線を向けた。

「井上ねぇ……お前はあの矢沢の女の子がいるから、すこっしも興味なんぞないのかもしれんが、彼女校内では結構有名だぜ」

「オレは知らねぇよ。そんなこと」

「まぁ、そうだろうな」

 女子にモテはするのだが、そんじょそこらの少女に崇が興味を持つとは思えない。

 何せ、めぐみは黙っていれば、との注釈付きではあるが、容姿が整い、どう見てもお嬢様のように見えるのだ。崇が他の女子に興味を持たないのは、ひとえにめぐみという存在があるからだろう。

 そんなことを考えながら、佐久間はつらつらと崇に持ち合わせている情報を口にし始めた。

「一年じゃ、結構有名に入る娘だぜ。

 温和しくて性格もいいし、運動神経がいいから女子バレー部の花形って言われててな。まぁそれだけなら騒がれないだろうが、何より可愛いだろ。っつうても、彼氏がいるって話しは聞かないし、結構狙ってるヤツ大勢いるぜ」

「ふーん」

「お前、ほんっとに、興味のあることしか聞かねぇよな」

「興味ねぇ事に時間割いて楽しいか?」

「でたよ。モテ()の余裕」

「第一、そんな有名なら、他の女子連中が黙ってないだろ」

「そうなんだけどなぁ。

 どういうわけか、女子連中に絡まれたりすることはねぇんだよ。なんか、女子連中には、そんな娘いたっけ、とか言われてるしなー」

 首を傾げてそう答えた後、佐久間は不自然なまでに話しを変えてくる。

 本人にはそんな自覚はなかったのだろうが、それでもやはり崇には、これ以上の詮索をされたくない、という誰かの意思を感じ取ってしまった。

「なぁ崇。生物の宿題やったか」

「あ?あぁ」

「わりぃ!後でそれ見せてくれ!今日俺当たりそうなんだわ」

「おめぇなぁ」

 呆れたようにそう言いながらも、崇はめぐみの言葉を思い出す。

 ―気をつけた方がいいよ。

 忠告めいた言葉は、それでも崇の行動を妨げることはない。

 放課後でも、聞きに行くか。

 そう結論づけると、崇は高校近くのバス停の名前を聞きながら、溜息を吐き出した。




                ☆ ☆ ☆




「あれ?日野さんどうかしたんです?」

 教室の入り口から中を覗き込んでいると、いち早く崇の姿を見かけた加納(かのう)が不思議そうに駆け寄って尋ねてきた。

 まさか加納と同じクラスだとは思ってもみなかったが、井上歩が一年のこの教室に在籍しているのは、佐久間に問いただした上で確認済みだ。

 だからこそこちらに出向いたのだが、探し人の姿は全く見当たらない。

 見当違いだと思いながらも、崇は加納に尋ねてみた。

「井上歩は居ないのか?」

「え?井上さんですか?」

 きょとんと目を見開き、加納はとんでもないことを口にした。

「校門の前に瀬尾野さんが居たんですけど、やっぱり日野さんと同じように瀬尾野さんも井上さん探してたらしくて、井上さんを見つけたらそのまま二人で一緒に帰りましたよ」

「は?」

「え?日野さん、瀬尾野さんに聞いてなかったんですか?」

「どこに行った!」

 思わず怒鳴りつけるように尋ねれば、加納がびくりと怯えたように身体を揺らす。

 その声を聞きとがめたのだろう。加納を迎えに来ていた佐久間が、慌てて彼女の側に近寄った。

「何してんだよ、崇」

 その声すら耳に届かず、崇は険しい顔で加納を見つめる。

 崇の眼光に気圧されたよう、加納はえっと、と言葉を詰まらせながら崇の質問に答えを返した。

「たぶん、日野さんの家の方だと」

「悪かったな加納!ありがとよ!」

 勢いよく方向を変え、崇は全力で駆け出す。

 呆気にとられたように、佐久間と加納、そして教室や廊下に居合わせた生徒全員が、崇の背中を見送ることしかできず、何があったのだと顔を見合わせ、詮索するように周囲を見回した。とはいえ、崇の態度に引っかかるような出来事があったわけではない。その周辺にいた生徒達が首を傾げざる得ない状況に、いつの間にか加納と佐久間に視線が集中するが、二人にとっても謎でしかない崇の行動なのだ。ほとほと困り切ったような二人の表情に、誰もが崇の雰囲気に飲まれていたために詰めてめていた息を吐き出した。

 校舎内でそんな疑問や行動をされていることも知らず、崇は人目も憚らずに全速力で駆け出していた。

 何か、嫌な予感がする。

 それに押されるように、崇は学校を飛び出すように走り出していた。

「あの馬鹿、何が近いうちに分かる、だ」

 本人に直接聞き出す方が、一番早い解決方法だろう。だが、その分だけリスクが上がる事を、めぐみは分かっているのだろうか。

 あの時。井上の悲鳴を聞いてからその場に離れる際に、めぐみはおかしな表情をしていた。

 気のせいだ、と言ってはいたが、確かに何かを感じたのだろう。

 早めにめぐみを問い詰めるべきだったのだと後悔しても、それは今更だとしか言い様がない。

 どちらに行ったかも分からないはずなのに、崇はめぐみ達が歩き出した方向へと導かれるように走っていた。

 やがて、目の前に緑に覆われた公園が見える。木々の生え方から見ると、そこは森林公園といっていいほどの広さと木々の多さが特徴であり、何かを隠すのには十分な林が広がっているのが分かった。

「早まんじゃねぇぞ」

 そう呟きながら、崇は人気の無い公園に駆け込んだ。




                ☆ ☆ ☆




 朝方広がっていた晴天に反して、今は泣き出しそうな空模様だ。

 そんな上空に視線を飛ばしつつも、二人の少女は黙々と自然林に溢れた公園内を歩いていた。

 人気の無い林の中は、小鳥達の囀りすらも聞こえず、いっそ不気味といえるほどの静けさが公園に充ち満ちていた。

 それを乱すような小さなくしゃみに、井上歩は心配そうにめぐみを見つめた。

「平気?」

「えぇ。すいません、こんなところまで来てもらって。

 でも、どうしてもここじゃ無きゃ駄目だったんで」

「……私に聞きたいことがあるって言ったわよね?いったい何かしら?」

 歩みを止めた井上から数歩ほど離れた場所で立ち止まり、めぐみはゆっくりとした動作で井上に向き合う。

 真っ直ぐに井上を見る瞳は、嘘を許さぬ光に満ちあふれている。それを受け止め、井上は表情を消して、めぐみの視線を跳ね返すように見つめ返した。

 そんな井上に対して、めぐみは慎重に言葉を放った。

「ここの雰囲気、何かを思い出しませんか?」

「それってどういうこと?」

「一番最初の、あたし達が死体を見つけた所と、井上先輩が死体を見つけた場所に、そっくりだと思いません?」

「そうかしら?そう言われれば、そうなのかもしれないけど」

 切り出された言葉に、井上は唇の端を僅かにつり上げた。

 今まで無害な雰囲気を纏っていたというのに、それだけでひどく禍々しい気配を感じ取る。

 ゴクリ、と喉を鳴らし、めぐみは井上の態度に負けないために、に小さく息を飲み込んだ。

「最初の事件の時、あたしが死体を見つける少し前に、ちょっとしたいざこざがあったんです」

「それが、なに?」

「相手の顔は、全部覚えています。だから言えるんです。あの時喧嘩をふっかけてきた連中の何人かが、ここと同じような雰囲気の林で殺されていました。

 二番目の犠牲者と、三番目、四番目の犠牲者。その共通項にも、井上さんは気が付いているんじゃありませんか?」

「何のことか分からないわ。そんな人に、心当たりなんてないし」

「そうでしょうか」

 井上の発言を、ぴしゃりとめぐみは否定する。

 井上の眉根が微かに寄せられると同時に、ピリピリとした空気を井上は放ち始める。それを見つめながら、めぐみは自分の手の内を見せるために口を開いた。

「殺された連中は、同じ不良グループに所属していました。そして、もう一つの共通点。そいつらの殺され方は、他の被害者よりひどいんです。それに他の被害者達は、まるで殺しの現場を見られたから殺された、って感じだったんですけど、殺された方もそいつらよりも綺麗なんです。

 生きたまま殺されたのは、その三人と、あなたが見つけた六番目の犠牲者だけ」

 そこまで聞き、井上は苦笑じみた声を上げる。

「それが、どうかしたの?私に関係あるとでも?」

「あなたがいた公園、今みたいに誰もここに公園があるなんて思ってもいない、いえ、完全にここに公園があるとは思ってもいないみたいでした。

 何時もなら、この時間は子供とかが居てもおかしくはない時間なのに、誰一人としてこの公園内に人の気配はない。おかしいと思いませんか?」

「そういうこともあるんじゃないの」

「なら、仲間を殺された連中が、あなたの顔写真を見て凍り付いた理由は?」

「その様子だと、聞いたように思えるけど」

「そうですね。ちょっと脅かしたら、べらべらとしゃべってくれましたよ」

 恐怖に打ち震えた彼らから、情報を聞き出すのは存外簡単だった。

 それだけ、怖かったのだろう。馬鹿げているとしか思えない話しは、けれど彼らの表情に嘘という感情が全く見えず、ただただ現実から逃れるためだけに全てをぶちまけるかのような勢いで、めぐみに向かって話し続けた。

 刃のような緊張感が、二人の間に流れる。

 それを裂くように、めぐみが口を開いた。

「あなたいったい、何なんですか?」

「……分かって、いるんじゃないの」

「信じたくはないですね。少なくとも、常識的に考えれば」

 そう断言しためぐみの態度に、井上は始めクスクスと笑っていたが、やがてそれは狂ったような甲高い哄笑へと変化した。

 耳障りなその嗤い声に、めぐみは足元を確かめるように動かし、いつでも動けるように身体に力を入れる。

「そうよね。確かに、常識的にはあり得ない事でしょうね。

 ()()()()()が生きて動いているなんて」

「じゃあ、やっぱり……」

「信じられない?

 でも、常識は時として根底から覆されるためにあるの。今私が生きていることが、事実であるようようにね」

「ほんとは死んでたったいうこと!どうしたらそんなことが出来るの!」

「それに答えると思う?だとしたら、とんだ大馬鹿者ね!

 私は、生きていたかったのよ!どんなものに縋ってでも、生きたかったの!死にたくなんて無かったのよ!」

「だけど、なんであの連中を」

 何とかその言葉を押しだしためぐみだが、あまりにも強すぎる井上の殺気に、口の中がからからに干上がっている。それを何とか隠そうと試みるが、上手くいったとは言い難い状況だ。恐怖を感じていることを悟られたくはないが、自分の意に反するかのようにめぐみの身体は強ばり、爪先一つ動かすことが出来ない。

 そんなめぐみをせせら笑いながらも、井上は怒りと憎悪を隠すことなく吐き捨てるように言葉を続ける。

「あの連中は……あいつらは私を轢いただけじゃない、身体を林の中に捨てたのよ!」

「え?」

 思わず、といった言葉がめぐみの口をつく。

 林に身体を捨てた。

 事故を隠すためだとしても、それはあまりにも非人道的だ。許されない行為であり、井上の憎悪を燃え上がらせる要因になっても仕方が無いだろう。

 だが、だからといって、殺したから殺す、という図式は、正しい行為では無いはずだ。

 めぐみの葛藤をみた井上の眦がつり上がり、心の底からの叫びを上げた。

「何故私が殺されなきゃいけなかったの!」

 答えを出せずにその場に立ち尽くすめぐみの前で、た井上の身体が徐々に変化を遂げていく。

 目尻がつり上がり、瞳の色が黒から金色へと、そして、全てを引き裂くように鋭利な長さに爪が伸びていく。そして額の中央が徐々に縦に裂け、そこから深紅の瞳がぎろりとめぐみを睨み付けた。

 甘い香りが、周囲に漂う。

 その臭いが鼻に届くや、めぐみはぐらりと身体から力が抜けていくのを感じ取った。

 今まで嗅いだことのない甘い匂いは、めぐみに強い吐き気を覚えさせるだけではなく、身体中から力を奪うように絡みついてくる。

「死にたくなかった。だから、あいつと契約したの。

 対価は人の命。あいつらを殺して、私はその命をあいつに差し出した。もちろん、連中だけじゃ納得してくれなかったから、適当にそこらにいた人間を殺したけどね」

「なら連中だけ殺せば良かったじゃない!他の人は関係なんて無かったでしょ!」

 膝をつきそうになりながらも、何とか力を込めて佇んだめぐみは、井上を真っ直ぐに見つめながら叫ぶような声でそうつのった。

 だがそれを鼻先で蹴飛ばし、井上は吐き捨てるようにしゃべり出す。

「何が分かるのよ、あなたに。私が殺してきた連中、あいつらは、生かしておくだけの価値もないもの」

 そう言い切った井上の脳裏に、あの日のことが思い出される。

 暗い夜道だった。急ぐような足取りで人気の無い道を歩いてた井上は、突如自分を照らしたライトの明るさに眼を細めて立ち止まる。その瞬間、身体が宙に舞い、何が起きたか分からずに大地に身体を投げ出した。

『やべぇ!轢いちまった』

『この女が悪いんだろ!俺達が走る道にいたんだから!』

 この所、この周辺をバイクで走り回る不良かぶれが居るのは知っていた。そいつらだと薄れる意識の中で思い出し、井上は小さな呻き声を上げる。

 それにびくりと少年達は身体を竦め、すぐに井上の身体を持ち上げて手近にあった公園に目をとめる。

『おい、こいつ、まだ生きてるぜ』

『どうせ、死ぬだろ。この傷じゃ』

『なら、そこに捨てていくぞ。そうすりゃ、少しは俺達の事がばれるのに時間がかかるだろ』

 名案だとばかりに、周囲の少年達は少しずつ命が削れる音が聞こえる井上を抱え上げ、公園の灌木の後ろに井上の身体を乱暴の投げ捨てると、慌てふためいてその場から走り去っていった。

 誰か、と助けを求めるべく井上は唇を動かそうとする。だが、言葉の代わりに、深紅の塊が井上の口から吐き出された。

 死ぬのか、と思うと同時に、猛烈な怒りが膨れあがる。

 何故自分が死ななければならない。あいつらの方が死んで当然のゴミではないか。

 そんな井上の脳裏に、突如野太い男の声が聞こえた。

『死にたくはないのか』

「当たり前でしょ」

 それが本当に口についてでたのかは分からない。けれど、井上に語りかけた存在には、それで十分だったようだ。

 ひたひたと井上に近づき、それは井上の顔を見下ろしてくる。

 かすむ視界の中で、井上はそれを見つめる。でっぷりとした体躯と、歪な形で配置された目鼻立ち。それが人間ではないことは、一瞬で井上は理解する。

『なら、俺と契約しろ』

「契約?」

『そうだ。そうすれば、お前を助けてやる』

 その言葉に、一も二もなく井上は頷きを帰す。こんなところで死にたくはない、その一心で『それ』の提案を受け入れた井上に、『それ』は磨り潰したような笑い声を立てて井上の身体に触れる。

 瞬間、身体を縛り付けていた重さがなくなり、痛みすらもが引いてく。

 息を吐き出すことすらもが苦しかったというのに、それすらもなくなると、ほう、と吐息をつき、井上は自分の身体を隅々まで見回した。

 服はひどく汚れてはいるが、肌には傷跡一つついていない。

 それを確認するや、頭の中に声が響く。

『助けた以上、対価を払え』

「なにを?」

 驚きは、すでに麻痺していた。そのため、頭の中から聞こえる声に、いちいち驚くことなく答えた井上は、それが頭の隅で囁いた言葉に僅かに眉を寄せた。

「それで、いいの?」

『あぁ、そうだ』

「なら、あいつらを全員殺してやらなきゃ」

 契約を交わした以上、自分は『それ』に従うしかない。

 それに、あのゴミ同然の少年達の命など、自分にとってはどうでも良いことだ。

 とはいえ、彼らを殺す前に、そこらにいる人間を最初に襲わなければ、飢えた心と力が本来使えるはずの妖力(ちから)を取り戻すことが出来ない。

 ならば、見知らぬ、どうでも良い人間を襲い、妖力を貯めなければ。

 立ち上がり、井上歩であった存在は、ふらりとその場から立ち去る。

 そして、井上は最初の殺人を起こす。甘い香りに誘われ、自分の前に現れた女性は、井上の姿を見るなり、化け物、と叫んだ。

 誰が、化け物だ。

 自分は、そんなものではない。自分は、生きているのだ。まだ、人間だ。

 その感情を止めることなく、井上は香りに導かれて自分の前に現れた女性を、躊躇いなく引き裂いた。

 化け物。

 その言葉は、井上を貶すのと同様の言葉だ。

 ぎり、っと唇を噛みしめれば、どす黒い血が井上の口元から流れ落ちる。それを見咎めためぐみは、流れてくる井上の思考に寒気を覚えると同時に哀れみを覚えた。

 どうしたら、納得出来るのだろう。

 救いを求めるのではなく、憎しみによって動く井上の行動は、めぐみにも井上にも相互理解することは出来ないし、死人である井上と生者であるめぐみとでは、意見など始めから食い違って当然だ。

「許せないのは、何となく分かる。

 でも、関係の無い人まで殺す必要性はどこにあったの?」

「関係ない?あいつらは私を化け物と呼んだのよ。殺されて当然だわ」

「それだけが理由?」

「そうよ」

 傲然と言い放ち、井上は小馬鹿にしたようにめぐみに視線を向ける。

 あぁ、もう駄目だ。彼女の意識はとりつかれたものに支配されてしまった。

 それを理解しためぐみは、身体中の力を何とかかき集めると真っ直ぐに井上を見つめた。

 もうやめろ、といったところで、井上には聞き届けられることはないだろう。どうすれば、井上の感情を本来の彼女自身に引き寄せることが出来るのか。

 そう考えていためぐみの身体が、突如横に吹き飛ばされる。

 生えている木の幹にしたたか身体を打ち付けられ、めぐみは一瞬ではあったが意識を失いかけた。

 痛みによってそれは何とか回避されたのだが、人間が持ち得るはずのない怪力だ。それが、『契約』したといった存在が井上に力を貸したのだろう。

 何度も咳き込みながらめぐみは身体を起こし、井上を強い視線で睨み付ける。

「一つ、聞いていい。何であたしを狙ったの?」

「貴様が『奴ら』と同じ匂いがしたからだ」

「奴ら?」

 井上の唇から嗄れた男の声が流れ出ることにすら頓着せず、めぐみは言われた内容を頭の中で整理する。だが、男の言う『奴ら』という言葉は、まるで心当たりのない言葉だ。

 眉根を寄せためぐみの表情に、井上の中に巣くうそれは再び耳障りな声で吐き捨てる。

「我らを封じ、同胞を殺した者の匂いだ」

 冷ややかすぎる声音が、めぐみの背に悪寒を走らせる。と同時に、めぐみの眼に井上の身体に重なるように何かが見えた。

 瞬間、息が止まる。

「アヤカシ……?」

 そうとしか言い様がないものが、井上の身体を支配している。

 厄介だな、と、冷静な部分がそう告げる。あれは、そう簡単に殺せるものでも、再度封じることも難しいものだ。

 ふとそんなことを考えてることに気付き、めぐみは頭の中に浮かんだ考えに瞬きを繰り返した。

 何故そんなことが分かるのか。否、むしろ当然のように入り込んできた思考は、頭の奥底に隠れていた何かを呼び起こす。だが、それ以上のことを考えようとすると、思考は霧の中に紛れ込んだように霞んでしまい、それ以上のことを思い出させないようにしてしまう。

「あなたには、見えるのね、彼の姿」

「見間違いであって欲しいけど、ね」

 憎まれ口に、井上は皮肉げに口元を歪めた。

 それだけだというのに、井上とその身体に入り込んでいるアヤカシとの同調の強さは、たった数日のことのはずなのに、切り離すことはもはや不可能なレベルにまで達していることが感じられた。

「私の中に入っている彼もね、もうすぐ消えかけそうだったのよ。でも、死にたくなかった私達は、お互いの利害と復讐という負の感情が重なって、こうして生きていくことが出来たのよ」

「……満足なの?それで?」

 正気の沙汰ではない。もはや狂っているとしか言えない井上の言葉に、めぐみは嫌悪を露わにそう尋ねた。

 にぃ、と、井上は口の端をつり上げた途端、めぐみは再度後ろに吹き飛ばされた。

 何とか踏ん張ってはみたが、片膝が大地についてしまい、めぐみは小さく舌打ちを漏らした。

「まだ、私は人間なの。それなのに化け物扱いをする人間は、死んで当然だわ」

「違う!殺した相手が憎かろうと、そいつと同化しちゃいけなかった!血に飢えて殺戮に手を貸すことに、正当な理由なんてあるはずが無い!

 そんな姿になったら、あなたは『井上歩』じゃなくて、別の、化け物と呼ばれても仕方のないものになってしまう!」

「黙れ!」

 井上歩という人間を、めぐみは全く知らない。

 だが、普通に生きてきた少女が、殺戮の余韻に浸り、流した血に酔っているとしたならば、それはすでに人間を捨て去ったも同然だ。

 井上が『彼』と呼んだ存在を受け入れ、少しずつ狂った思考に身を落としていったのならば、井上歩という人間の理性は崩れて消え去り、『彼』の本能に支配されていったのだろう。

 それにすら気が付いていないのは、もはや救うことの出来ない状態だ。

 そんなめぐみの瞳が幾分か碧みを増していることにも、いつの間にか恐怖心すらも失っていることに全く気付くことなく、めぐみは真っ直ぐに井上を見つめた。

 静かな気持ちで対峙していることに驚きながらも、めぐみはじりじりと近寄る井上の行動にゆっくりと息を吐き出した。

「殺してやる」

 それは、どちらの声だったのだろう。

 めぐみが構えるよりも先に、井上は距離を縮めるとめぐみの腹めがけて折り曲げた膝を叩き込んだ。

 受け身を取ることも出来ずに、めぐみの身体が地面を転がる。

 先程よりも苛烈な攻撃に、めぐみは数瞬身体の自由を奪われる。それを見逃さず、井上の鋭く伸びだ指先がめぐみの腕に貫いた。

 悲鳴を上げかけるが、何とかそれを押さえ込み、めぐみは激痛に顔を歪めながらも井上の足元めがけて蹴りつけるように爪先を横にないだ。

 それを難なくよけ、井上は一度めぐみとの距離を取った。

「・・と、恐れられたものとは思えぬ」

 井上が放った呟きは微かな音としてめぐみの耳に届く。何を言ったのかは分からなかったが、死にたくないという気持ちよりも先に、井上が放った言葉に重大な何かを感じ取ってしまい、めぐみはきつい視線で井上を見つめる。

 聞き取れなかった言葉は、自分だけではなく、崇にとっても重い意味を持つ物だと理解出来てしまう。

 何を言った?何を知っている?

 痛みでちりぢりになりそうな思考をかき集め、めぐみは必死になって井上の言葉を再度引き出させようと何とか立ち上がる。

 それを悠然とした態度で眺めていた井上は、最後のあがきとばかりに動くめぐみに向けて走り出した。

「死ね!」

 鋭く伸びた爪が、めぐみの眉間を正確に狙う。

 まずい。そう感じた瞬間、それをさせぬように何かが飛来した。

 子供の拳ほどの石は、真っ直ぐに井上の頭めがけて飛んでくるのを見、井上はめぐみから距離を取り小さく舌を打ち付けた。

「めぐみ!」

 顔を歪めた井上が、この場に現れた第三者の声に、不機嫌そうな表情でそちらに視線を向けた。

 息を切らせながらも、安堵と怒りを混ぜ合わせた瞳でめぐみと井上を交互に見やり、崇は怒りを隠そうともせずに井上を睨み付けた。

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