六
麗らかな日差しの中、崇は隣の豪邸の門扉を慣れた動作で押し開いた。
ここいらでは立派すぎる屋敷の玄関前で、リズムよく箒を動かしていた老婆が崇に気付くと、柔らかな笑みを浮かべて崇を出迎えた。
「おはようございます」
「おはよう、崇ちゃん。それにしても、珍しい事もあるものね」
「はぁ……」
「めぐみはいつも枝伝いで崇ちゃんの部屋に行ってるけど、迷惑じゃない?」
どうやら、めぐみの行動は祖母には筒抜けらしい。
苦笑を浮かべて、崇は軽く頭を振る。
「別に、迷惑じゃありません。ただまぁ、あまり女らしくないというか……」
「あらあら。崇ちゃんもお年頃ね。
そうやって心配してくれるのはとってもありがたいわ」
「あの……めぐみは?」
「練習室にいるわよ。今日のノルマをこなすんだー、なんて息巻いててね」
「あいつらしいですね」
「そうねぇ」
穏やかに笑いながらそう相づちを打ちつけ、瀬尾野ミツは崇を伴って家の中に入っていった。
留守がちな両親に代わって、めぐみを育てあげたのはミツだ。近所の住人からも慕われている立派な好人物ではあり、めぐみだけではなく崇もミツには頭が上がらない存在といっても良い。何度も二人はこの人にこんこんと叱られ、説教を受けたことか。それと同時に、めぐみにとって最大限に甘えられる肉親はミツだけだ。両親から受けるはずだった愛情を、めぐみはミツからたっぷりともらっている。
めぐみにとっては、両親よりも側にいてくれるミツの存在は、無くてはならない人といえるだろう。
ミツの後を追って練習室まで来ると、崇は小さく息を吐き出した。
「相変わらず、すごい防音体制ですね」
「でなきゃ、ご近所ごに迷惑をかけるしねぇ」
そう言って、ミツはかなり強めにドアを叩きつける。そうでもしなければ、この部屋に音は聞こえていないだろう。
それを知っている崇は、ドアを開いて中に入るミツの後ろについて、防音室へと足を踏み入れた。
かなりの広さを誇る部屋の中央には、グランドピアノが置かれている。その前に座って一心にピアノと向き合っているめぐみは、ミツと崇が入室してきたことに気が付かずにピアノを弾き続けていた。
ピアノを弾いている間は、めぐみは他のことに目も入れずにいるために、無防備な状態を曝け出している。一心にピアノに向き合って紡ぎ出される音色の美しさは、全てを魅了するだけの力を持っており、天才という言われるだけの力を持っているといっていいだろう。
「それじゃあ、崇ちゃん、悪いけど」
「あ、はい」
小声で会話を交わし、ミツは防音室を後にする。
その背中を見送り、崇は室内においてある椅子へと腰掛けた。
―相変わらず、すげぇな。
性格の悪さからは考えられないほど、その旋律は美しく心に響く。
時に柔らかく、時に激しく、めぐみは鍵盤を叩き、全てのものを魅了するだけの力を余すことなく室内へと広げていた。
ポン、と、最後の一音を奏でると、めぐみは身体中の力を抜き、そして驚いたように崇を見やった。
「いつ来たの?」
「今さっきだな」
「気が付かなかった」
軽く唇を尖らせ、めぐみは鍵盤のふたを閉める。
動きやすそうな服装は、これから外に出て行くことを示しており、崇は軽く額を押さえつける。その様を不思議そうに眺め、めぐみは崇の隣の椅子に置かれていた上着を手に取り、小さなポシェットを身につけた。
「用意はいいのか?」
「うん」
「じゃぁ、行くか」
そう言って二人は防音室を後にする。
それにしても、だ。
「また腕あげたんじゃないか?」
「そっかな?」
根っからの天才という肩書きは、めぐみにはあまり当てにはならない。めぐみは必死に努力をし、親の七光りなどと言う陰口や悪意を弾き飛ばすだけの実力を得たのだ。その努力する姿を間近で見ていた崇としては、そんな連中にめぐみの名を汚すなと大声で怒鳴りつけたくなる。
人一倍努力をし、めぐみは今の地位を築いたのだ。最も、それをめぐみが口にするはずもなく、ただ周囲の雑音として右から左に聞き流しているのだから、相当肝が据わっているとしかいえないだろう。
途中リビングに顔を出しためぐみが、庭先で洗濯物を干していたミツへと声をかけた。
「お婆ちゃん、ちょっと出かけるね」
「おやおや。二人揃ってデートかい?」
「違う」
二人の声がハモったことに、ミツがころころと笑う。
照れちゃて、と、勘違い甚だしい言葉に、めぐみは不機嫌そうに頬を膨らませた。
そんな孫娘に、ミツは優しい笑みを浮かべて問いかけた。
「いつ帰ってくるんだい?」
「そんなに遅くにはならないと思うよ」
「そうかい。気をつけるんだよ。まだ猛獣は捕まってないんだからね」
「……はーい」
まさかその件で出かけるとはいえず、めぐみは声のトーンを落としてそう答える。
二人のやりとりを黙って聞いていた崇だが、ミツが信頼のこもった目線を受けると、些か居心地が悪げに身体を揺らした。
「行くか」
「うん」
行ってきます、とミツに声をかけ、めぐみと崇はゆっくりとした歩調で玄関をくぐり外へと出る。
これ以上無いほどの快晴が広がる中、崇はふと今朝の電話のことを思い出した。
「そういえば、お前の友達って」
「友達、とは言いがたいかな。あいつの場合、単なる嫌がらせの追っ掛けだから」
「は?」
「前にね、こっちにいちゃもんつけてきて、あんまり腹が立ったから言い負かしたの。
そしたら、ストーカーと言おうか、パパラッチと言おうか。とにかくこっちの荒さがしては、脅したり脅迫するようなまねし始めて」
「……お前、どうしてそういうヤツばっかりに喧嘩売るんだ?」
ずきずきと痛み出した頭を抱えながら、崇は何とかそうやって言葉を絞り出す。
その言葉に、めぐみは心外だと言いたげに崇を見やる。ぷっと頬を膨らませ、めぐみは崇にふて腐れたように話し出した。
「喧嘩を売ったつもりないもん。あっちが勝手に人をつけ回してるだけだよ」
「そいつ、将来ゴシップ誌の記者にでもなるのか?」
「本人は新聞記者志望とか行ってるけど、たぶんそうなるんじゃないかな」
小さく溜息をつき、崇は話題の転換を図る。
そうでもしなければ、延々と愚痴めいた言葉が連なるという予感に駆られたからだ。
「おじさん達、元気か?」
「じゃないかな。この間電話があって、近いうちに帰るとか行ってたけど、どうなるかわかんないし」
有名な指揮者の父と、同じく世界中にファンを持つヴァイオリニストの母を持つめぐみは、一年でも数度しか家に帰らない両親よりも、よほどミツに愛されているし、愛してもいる。とはいえ、ミツに心配をかけさせまいとして、めぐみはミツの前ではいい子を演じているのは、崇から見てもよく分かる事柄だ。だからこそ、そんなめぐみを見ては、少し我が儘を言ってもいいだろうに、と崇一家に何時だったかミツがこぼしたことがある。
本来なら両親から受ける愛情をミツからもらっているために、めぐみは滅多なことでミツを困らせないし、逆に両親には淡泊な反応とともに、どう接して良いか分からない、という雰囲気を持つ。忙しい両親もまためぐみには愛情を持っているのだが、どちらも距離の測り方が分からずに、どうしても他人行儀な反応しか出来ずにいるのだ。そのことをミツは困り切ったように見つめている事実を、隣に住む日野家の人間はよく知っていた。
振った話しが悪かったな、と思いながらも、崇はめぐみを見下ろしぽつりと呟いた。
「傷の具合はどうだ?」
「大丈夫だよ。さっきだって、きちんとピアノ弾いてたでしょ」
そう答えた後、二人は揃って共通の話題が見つけられずに黙り込んでしまう。
口数が少ないのは、両者ともにこれから先に向かう事の考えてしまい、どう対応したらいいのかが分からないからだ。
「……あのさ」
「……あのな」
二人揃って声が飛び出すが、めぐみが小首を傾けたのを見て崇が先に口火を切った。
「あいつら、どうしてお前を狙ったんだ?」
「そりゃ……コンクールに出させないためでしょ」
「そうなんだが、何つぅか、その」
「怯えを隠してるみたいだった?」
めぐみの言葉に、崇は軽く頷く。
あの時は、単に強がっている集団のように見えた。だがよくよく考えれば、あの時の彼らは何かを押しのけるために、虚勢を張っていたように思えたのだ。
まるで、何事からか目をそらすために、少しでも恐怖をかき消そうとするために、あの時彼らは二人に襲いかかった。
「確かめるために行ってるんだから、その時に聞けば?」
「そうだな」
そのために、自分達はこうして彼らのリーダー格である少年の家に向かっているのだ。
多少犯罪めいた行為で住所を特定したが、犯罪一歩手前の行為をしでかしたのは彼らが先だ。多少の無謀は承知だが、こちらが出向いて口を開かせるのに、少々暴力行為が伴いそうな予感がちらりと頭を過ぎった。
二人ともに黙り込んでしまい、その歩みが緩くなる。
そんな時だ。
つんざくような悲鳴が聞こえた。
上がった方向に視線を向け、めぐみが不安そうに崇へと視線を戻した。
めぐみが見やった先は、人気の無い公園だ。まるで、今の今まで忘れ去られたかのように、虚無的な雰囲気に溢れたそこは、不気味さを伴って入り口を開いている。
「どうしよう?」
行きたくはない、という意思が、めぐみの口調からあふれ出ているのは、なにやら嫌な気配がひしひしと流れているためだ。
とはいえ、ただ事ではない声だったのだ。このまま見捨てるという選択も出来ず、二人は公園に急ぎ足で向かった。
近付いていけば、一人の少女がふらふらとよろめきながら、公演の入り口から出てくるのが見える。
「ん?」
少女の顔を見て、崇がすぐさま記憶の中に沈めていた名前を思い出す。
そんな崇をおいて、めぐみが青白い顔をした少女に近づき、震え続ける身体に触れると安心させるように微笑んで見せた。
「平気ですか?」
「あ、あそこに……」
少女が、公園内の一角を指さす。
崇がそちらに向かうのを見、めぐみは少女を安心させるために、何度もその背中を優しく撫でつけ始めた。
少女の様子は、明らかに何かとんでもないものを見つけた人間のそれだ。
めぐみではないが、嫌な予感を背中に感じながら、崇は木々の生い茂っている一角をのぞき込み、すぐさま顔を背けて苦いものを飲み下すような表情を浮かべた。
それを見たのだろう。めぐみが少女から手を放し、持っていた鞄から携帯を取り出すと素早く警察に連絡を入れる。
めぐみ達が佇む場所まで足早に近づけば、崇は怯えた表情を浮かべる少女の顔をまじまじと見つめた。
「知り合い?」
こっそりと、めぐみがそう尋ねる。
どう答えたものかと思案に暮れる崇の前で、めぐみの声が聞こえたらしい少女がか細い声を上げた。
「高校の、先輩、です」
「えっと、じゃぁ、聖山に通ってるって事、ですよね」
「はい」
ちらりとめぐみが視線を向ければ、崇は憮然とした表情でその言葉に肯定の頷きを送りつけた。
確か、名前は……。
「井上、だったよな」
「はい」
なるべく公園の側には居たくはないのだろう。チラチラと井上歩は道路脇に立っている電柱に目を向ける。
その様子に、崇とめぐみは軽く頷いて、井上を伴いながらゆっくりとした歩調でそちらを目指した。
僅かに吹き付けた風が、崇とめぐみの鼻先に血の臭いを届ける。
その風に、がちがちと井上の歯が鳴り響く。恐怖が今更のように襲ってきたのだろう。その気持ちが分からないでもない二人は、ただ黙って井上が落ち着くのを待つように口を閉ざした。
「……すいません」
押し出された言葉に、二人は視線を交わす。
謝罪される覚えもなければ、二人が行った行動といえば、あくまでも井上の見たものから彼女を遠ざけたに過ぎないだけだ。困惑したようなめぐみの顔付きを見ながら、崇は近づいてくるサイレンの音に耳を傾けた。
何故か、自分達がこの事件の中心にいるように感じられる。はっきりとした形にはならないが、それでもそんな感触を受けることに眉を潜め、崇は先程見た死体の状態を思い出してしまい顔を歪めた。
死体を見ていないながらも、めぐみもそれを察したのだろう。公園に視線を向けた後、ふと何かに感づいたように井上を見つめ、そして軽く首を傾げた。
「どうした?」
「ん?何でも、無いよ」
それが嘘だと言うことは、長いつきあいから判断が出来る。が、それを簡単に口にするほどめぐみは口が軽くはない。
最も、どうせ家に戻ればそれを追求することは出来るのだから、今はあまり気にしなくても良いだろう。
そう考えながら、パトカーから出てきた警官と、徐々に溢れてきた野次馬の数に、崇とめぐみは揃って小さく溜息気を吐き出した。
一番最初の殺人事件の目撃者が、何故ここに居るのかと問われることは確定だろう。
町中でよく見る警官の姿や、私服姿の警官、白衣姿の男女。以前見た時と同じような姿の者達の中に、崇とめぐみを見咎めた私服姿の刑事が近寄る。
確か天野、と名乗った男性だ。二人の姿に目を丸くしたようだが、すぐに真顔で崇達に向かって歩いてきた。
「君たちが、第一発見者か?」
「いえ。オレ達は、彼女の悲鳴を聞いて、駆けつけただけで」
そう言って、崇はまだ紙のように白い顔色の井上に視線を投げる。
めぐみが傍らに寄り添い、井上の背中を撫でつけている様子を見た天野は、そうか、と呟くような声でそう言うと、崇へと視線を戻した。
「また事情を聞くことになる可能性がある。第一発見者である彼女を保護してくれたことには、感謝するよ」
「そう言われても、オレ達は単に通りかかっただけなんで」
何故この場にいるのか、と、突っ込まれなかったのはこの場合幸いだ。
女性警官に井上を任せためぐみが崇に近づくと、軽く天野に頭を下げるが警戒心も露わな雰囲気に天野は微苦笑を浮かべた。
「何かあったら、また事情を聞くことになるかもしれないが」
「かまいません。でも、オレ達は単に彼女の悲鳴を聞いて駆けつけただけなんで」
再度同じ事を口にしたのは、今回は自分達が巻き込まれたわけではないと強調するためだ。
そんな崇の心情を察したのだろう。天野は一瞬苦笑じみたものを浮かべるが、すぐにそれを隠して二人から離れると、近くに居た警官に何か指示を下す。
その命令を聞き届けたのだろう。やたらと体格の良い警官が近づき、二人に幾分か柔らかい口調を取り繕うとしたが、どこか尊大さを覗かせる口調で二人に話しかけた。
「とりあえず、今日は帰っていいよ。ご苦労だったね」
「いえ」
短くそう答えた崇が、軽く頭を下げる。慌てて同じように頭を下げためぐみが、この場から立ち去るために歩き出した崇の後を、小走りで追いかけてくる。
いつの間にか集まった野次馬を潜り抜け、崇とめぐみは現場から足早に離れ、野次馬もパトカーの姿も見えなくなった途端、同時に深い溜息を吐き出した。
「あの人、どうなるのかな?」
そう呟き、めぐみはちらりと今歩いてきた方向へと目を向ける。
あれだけ顔色が悪かったのだ。めぐみが心配するのは当たり前のことだろう。
「この前のオレ達と一緒だろ」
素っ気なくそう言い捨てれば、めぐみはじとりとした目線を崇に送りつける。が、すぐに自分達が巻き込まれた際のことを思い出したのだろう。一瞬にしてそれをやめると、めぐみは、はぁ、と態とらしく息を吐き出した。
それに些か苛立ちも産まれるが、崇としては冷淡と言われようがそんな反応しか返せないのだ。顔見知りというわけでもなく、接点など全くない後輩がどうなろうが、崇としては知ったことか、という気持ちで一杯なのだから。
崇の機嫌が悪いことを察したらしく、それ以上は何もいってこないめぐみが、あっと小さな声を上げた。
「どうした?」
「買い物忘れてた」
「は?」
「ちょ、何その言い方!すっごく傷つくんですけど!」
「おまえ、まさか……」
「ただの買い物!何もしません!」
むっとした表情で、めぐみはそう断言する。
だが、この幼なじみの少女の言葉を真に受けるほど崇も甘くはない。懐疑的な視線を送りつければ、めぐみがますます拗ねたように唇を尖らせた。
「何もしないって言ってるじゃん。少しは信用してよ」
「……わぁったよ」
「なんか、その間に信用が感じられないんですけど」
「お前の馬鹿見てればな」
「ひっど」
そういうや、めぐみはくるりと踵を中心に綺麗に回れ右をする。
そんなめぐみに、信用しきっていない崇が声をかけた。
「一緒に」
「大丈夫って先っから言ってるじゃん。何時もの楽器店で、楽譜見てくるだけだって」
「……そうか」
本来の目的を果たさずに家に帰ることは些か不満だが、こうも騒ぎが広がっていると下手な動きは出来ない。
それぐらいは、めぐみも分かっている。と思いたいのだが、めぐみの性格を考えると断言出来ない部分もあるのだ。
じゃぁね、と片手と降って崇から離れ、めぐみは駅に向かって歩き出す。その背中を見送り、崇は小さく溜息を吐き出した。
「まぁ、後でとっちめればいいだけか」
些か物騒なことを考えながら、崇も家に戻るべく歩き出す。
一瞬だが、やはりめぐみと一緒に行動すべきではなかったのか、とも思ったのだが、そんなことをすれば、めぐみはぶすくれた顔で崇と行動を共にすることになっただろう。
小さな子供ではないのだし、自分の行動には自分で責任を待ちなさいと、ミツに教えられてきためぐみと崇だ。あまり無茶はしないだろうと無理矢理自分を納得をさせる。
よく晴れた青空だというのに、気持ちは幾分か重苦しい物を抱かざる得ない。
先程見た死体のことを思い出し、崇はめぐみにそのことをいわなかった、というよりもいえなかったことに嘆息する。
あの少年は、見覚えがある。あれは、自分達を襲った少年の一人だった。
完全に事件に巻き込まれている。それが崇の正直な感想だ。
「くそ」
小さく吐き捨てたその言葉は、暖かな空気に紛れて消えていった。