三
家の明かりがようやく眼に入ると、崇とめぐみの身体からどっと力が抜け落ちる。
家の前で止まった覆面パトカーから礼を言って外に出ると、心地の良い夜気が二人の肌を滑っていく。生きていることに感謝したのは、二人とも今まで生きてきた中でも、これが始めてのことだろう。
家に帰り着くことが、こんなにも安心するのだと始めて知った感覚を抱きながら、二人は崇の家の門扉をくぐり玄関を開ける。
「ただいま」
「あ、兄貴。おかえり。
おかーさーん、二人とも帰ってきたよー!」
居間からひょっこりと顔を出したショートカットの少女、日野藍香は家中に響き渡る大声で二人を出迎えた。
その声に慌ててキッチンから出てきたのは和服姿の小柄な女性だ。二人の姿にほっとしたように吐息をついて、柔らかな笑みを浮かべてみせた。
「お帰りなさい、二人とも」
「ただいま」
「ただいまです。それから、お邪魔します」
今だに蒼白な顔色のめぐみの様子に、玄関に足早にやってきた崇の母親は、安心させるようにめぐみの頭を優しく撫でつける。
それに安堵したよう、めぐみの身体から若干だが緊張がほぐれたらしく、へにゃりとした笑顔で崇の母親、日野冴子に甘えるように抱きついた。
ぽんぽんと安心させるように背中を撫でつけながら、冴子は崇を軽く睨み付ける。
「無茶させたんじゃないでしょうね」
「んなことさせるかよ」
「兄貴の言うこと、簡単に納得するわけないじゃん、あたしもお母さんも」
「藍香、テメェな」
母同様にリビングから玄関まで来た妹は、それでも心配そうに二人を見つめており、崇は言いかけた言葉をぐっとこらえて乱暴に靴を脱ぎ捨てた。
それを合図にしたように、冴子が靴を脱いだめぐみの肩を抱きしめながら、三和土から居間へとゆっくりとした足取りで移動する。
暖かな室内の空気に、崇とめぐみはそろって大きく息を吸い込み、肺の中に安心させる空気を満たすとに、全身を襲う疲労感からドサリとソファーに腰を下ろした。
「おなかすいたでしょ。今ご飯暖めるから」
そう言って、冴子は藍香を伴い台所へと消える。
二人だけになったことで、沈黙が落ちる。何をどう話して良いか分からない崇は、隣に座るめぐみの様子が、ふと今までと違うことに気が付いた。
「どうした?」
「……あの眼……あたし知ってる気がする」
「あれの、か?」
自分達を見つめていた視線。手負いの獣のように鋭い殺気放つ存在など、平穏無事に暮らしてきた自分達には縁遠いはずのものだ。
なのに、めぐみは知っているという。
不可解な事柄に崇が僅かに眉をしかめていることに気が付かず、めぐみはぽつぽつと自分の中に燻っている気持ちを吐き出すように言葉を紡いだ。
「どこで、だったのかな……あの眼、あれは、確かにどっかで見たことがあって……」
「気のせいだろ」
にべもなく切り捨てた崇を睨みあげためぐみだが、すぐにその頬に張られたガーゼに、申し訳なさそうに身体を縮めた。
「残る傷じゃねぇって言われただろ」
「でも」
「これだけですんだのは御の字なんだ。あんま、気にすんな」
むしろめぐみに怪我がなかったことの方が、崇にとっては安堵すべき事柄だ。
小さく頷き、めぐみはソファーの背もたれに全体重をかけた後、ふと今まで気にしていなかったテレビの音源にそちらへと視線を向けた。
『……害者は、宮崎雅さん二十一歳と判明。宮崎さんは』
アナウンサーが淡々と情報を流す。それが、確かにめぐみ達が見た女性のものだと分かると、崇は有無を言わさずテレビのスイッチを切ってしまった。
「……一つ間違えたら、あたし達もあぁなってたんだよね」
「あんま考えんな」
警察官の質問には、大型獣のにおいを漂わせていたが、二人とも実際にその姿を見ていないため、自分達が分かる範囲内での答えしか返すことが出来なかった。
とりあえず家に帰されたはいいが、二人とも目の前で見た死体の記憶や臭いなどが生々しく残り、いつもは口数の多いめぐみですらも黙り込んだまま自分の掌を見つめている。
そんな二人の様子を見てだろう。冴子が何気ない口調でめぐみに声をかけてきた。
「めぐみちゃん、先にお風呂入ってきなさいな」
「え、でも……」
「だーいじょーぶ。めぐみ姉ちゃんが泊まりに来てもいいように、いつでも服用意してあるから」
ちらりとめぐみが崇に伺うように目を向けると、黙って崇は頷きそのまま指先を風呂場方向へと向けた。
それを見た藍香が強引にめぐみを立ち上がらせると、そのままめぐみの背中を押してリビングを出て行く。
それを見送り、冴子が小さく溜息をつくと、息子へ視線を向けた。
「崇は大丈夫なの?」
「まぁ、あいつがいてくれたおかげで、なんとかなってる、かな」
「そう。あまり思い出さないようにしなさいよ。
殺人事件なんて物騒なこと、ここら辺で起きるとは思ってなかったけど……」
「オレだって思ってなかったよ。んなこと起こるなんて」
疲れ切ったようにそうこぼせば、冴子は複雑な表情で崇を見つめた。
食器のこすれる音ともに、食卓にいくつかのおかずが並べられる。それを見るともなしに見つつ、崇は深く息を吸い込んだ。
その様子を見ながらも、冴子は思い出したように崇に言葉をかける。
「そういえば、警察から電話があったわよ。何か思い出したら連絡するようにって」
「分かってるっての。それくらい」
「そう?」
「お母さん、めぐみ姉ちゃん、風呂に入れてきたよ」
「あぁ、ありがとう、藍香」
「にしても、兄貴も災難だったよね」
藍香の言葉は労りなのだが、その口調には控えめではあるが、好奇心が入り交じっている。
実妹の声に、崇は頭を痛めたような表情を浮かべる。そんな息子の態度を見、冴子が藍香を軽く睨み付けると、渋々といった体で藍香は勉強するね、と一言言い置いて二階へと駆け上がっていこうとした。
そんな藍香の背中に、崇はぶっきらぼうに話しかけた。
「お前も学校の行き帰りは気をつけろよ。まだここらに潜んでる可能性があるからな」
「ちょ、兄貴、変なこといわないでよ」
「本音で言ってんだ。気をつけろよ」
「分かった」
いつにない真剣な口調に押されたように、藍香は軽く頷いてリビングを後にする。
その姿に、母子共々そろってと息をつくと、冴子は崇へと向き直り口を開いた。
「崇、当分の間は、めぐみちゃんと一緒に帰りなさい」
「は?」
「あんたもさっき言ったじゃない。
まだその大型獣が捕まってないんだから、一人でめぐみちゃんを学校から帰らせるなんて危険でしょう」
「まぁ、そうだけど。
けどなぁ、そんなことしなくても、学校側が強制的に集団下校させるだろ」
「何言ってるの。この周辺で矢沢学園に通ってるのめぐみちゃんぐらいなのよ。
集団下校させるにしても、限界があるでしょ」
言われていることは分かるが、わざわざ他校まで迎えに行くことに対しての抵抗感に、崇は渋い顔で母の言葉を聞いていた。
不用意に目立ちたくはない崇の考えを見抜いたのか、冴子はぴしゃりとそれを切り捨てるように命令した。
「とにかく、めぐみちゃんの送り迎えに行きなさい」
「けどなぁ、母さん、俺の学校と矢沢がどれくらい離れてるか知ってるだろ」
「もちろんよ。でも、そのためのバス代はきちんと出すわ」
すでに決定事項らしく、冴子は頑として崇の拒絶を受け入れようとはしない。
これは無理だと判断した崇が、両手を挙げて降参の意を示す。
それにほっとしたように冴子が口元をほころばせると、カチャリとリビングのドアが開かれた。
「お風呂、ありがとうございます」
「あら、じゃあ、次崇入ってきなさい」
「はいよ」
昔からの幼なじみ同士の気安さで、崇はめぐみの入浴後の風呂場にためらいなく足を向ける事が出来る。
風呂上がりのためか、顔色が元通りになっているめぐみを横目で見ながら、崇は今後のことを考えつつ頭を抱えたくなった。
母の言うことは、十分に理解出来る。何せ、自分も妹に注意した立場だ。それに加えて、矢沢学園にめぐみが一人で登下校していることも、崇はよく知っている。
有名人の娘だという自覚がないのだろうか。それとも、崇の喧嘩に巻き込まれる内に、自衛のための手段をきちんと身につけてしまったためだろうか。
それなりにめぐみも腕が立つ。単なる喧嘩ぐらいならば、めぐみは難なく相手を倒すだけの技術を持っているのだ。
加えて、めぐみは向かってくる人間には、容赦のない攻撃を仕掛ける節がある。
それは自分もか、と、崇は苦笑を漏らしながらそう考えた。
とはいえ、今回自分達を襲ったのは、人間ではない『何か』だ。人間相手に通じる技が、未知の生物に対して有効かと問われれば、否としかいえないだろう。
「……仕方ねぇか」
間違いなく悪友にはからかわれそうだが、それでも大切な幼なじみをこれ以上危険に晒させないためにも、母の言葉には従わざる得ないだろう。
血の臭いを払拭させるべく向かった風呂場は、めぐみがきちんと片付けていたらしく、いつもと変わらぬ風景だ。
それにほっとしながら、崇は勢いよく服を脱ぎ捨てた。