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「だーかーらー!あれはあたしが悪いんじゃないってば!」

「どうだかな」

「あたしは手出ししてないし、先に手を上げたのは向こうなんだから、正当防衛ぐらい認めてよ」

「へいへい」

 ぷぅ、と頬を膨らませるめぐみに、崇はおざなりな対応をする。

 それがしゃくに障ったのか、めぐみは頭一つ以上高い崇を見上げて更に何かを言おうとするが、それを遮るように崇は言を綴った。

「お前、その性格なんとかしろ」

「どこをどう直せっていうのよ。こーんなに、心清らかな性格を」

「心清らかだー?よくそんなこと真顔でいえるな。だいたいお前は」

 途中で言葉を遮らざる得なかったのは、路面一杯に広がる目の前の陰のおかげだ。

 そちらに視線を向けた二人の表情が、うんざりとしたものへと変化する。

「何のようだ」

「……うっわー、前時代的って言うんだろうねー。まだこんな服装するやついたんだ」

 愛想のない崇の言葉の後ろに、めぐみが驚いたような声を小さく上げた。

 めぐみの感想は、もっともなことだろう。

 一昔前の不良、といっても差し支えない格好をした数十人の少年達の姿は、けれども二人にとっては何ら恐怖を与える存在ではない。

 だらしなく着こなした服装の少年達は、二人をこれ以上先に進ませないために遮るような形で道を塞ぎ、じゃらじゃらと金属同士がぶつかり合わせながら、二人との距離を縮めつつ剣呑な雰囲気を醸し出して目の前に立ちはだかった。

「センス悪」

 そう結論づけためぐみに向け、崇は大きな溜息をついてその頭を見下ろした。

 目線を感じてか、めぐみも崇の方へと視線をあげる。それを確認し、崇はほとほと呆れたような表情でめぐみに話しかけた。

「何やったんだ、お前」

「ひどっ!あたし何にもやってない……って、どうしてそんな目で見るのよ!」

「お前の場合、やっていなくてもやってる可能性があるからだろ」

「それ言うなら、崇ちゃんだってそうじゃん。

 崇ちゃんじゃあるまいし、こんな連中と、何であたしがおつきあいしなきゃなんないのよ」

 不満を露わにして言い放ち、めぐみは眼前に広がる少年達に視線を送る。

()()、どう見たって崇ちゃん関係じゃん」

「ちょっと待て。どうしてそこでオレの名前が出てくる」

「言ったとおりの意味」

「っざけんな!騒動起こして事を大きくするのは、お前の十八番じゃねえか!

 だいたいこんな連中とやり合う時は、お前が首突っ込んで事を大きくしてくれるからだろうが!」

「別にあたしが事を大きくしてるつもりないもん」

「おまえなぁ」

「おい!さっきから俺達を無視してんじゃねぇよ!」

 崇とめぐみの掛け合い漫才に、度肝を抜かれていた少年の一人が、苛立ちを隠しもせずに二人の間に割って入った。

 途端に、不機嫌を露わにした二対の視線が、少年達に向けられる。

 思わず気圧された少年達に、めぐみの冷ややかな声がかけられた。

「なんか用があるわけ」

 顔立ちの整った少女だ。冷淡な瞳をしていても、はっとするような美しさがある。

 一瞬見惚れた少年達だが、リーダー格の少年はすぐさま正気に戻り、なんとかそれらを悟られぬように低い声を放った。

「つらぁ貸せや」

「は?」

 珍しくもない常套句に、めぐみが間の抜けな声を上げて崇を見上げた。

 今時こんな台詞でついて行く輩なんているのか。

 ありありと語るめぐみの表情に、崇は肩を竦めただけの反応にとどめる。

 そんな二人の様子に、どうやら自分達を恐れていると勘違いしたのか、少年は虚勢を張りながらめぐみに向かって甲高い声をあげた。

「テメェ、瀬尾野(せおの)めぐみだな」

「そうだけど」

「……やっぱおめぇの知り合いじゃねぇか」

「しっつれいな。あんなガラの悪い人間と付き合うわけないでしょ!」

 崇の言葉に、憤慨したとばかりにめぐみは腰に手を当てる。

 可愛らしい仕草だが、今この場面でそんな悠長なことをしていられるのは、崇もめぐみもいらぬ喧嘩を何度もふっかけられているからだ。

 どちらも目立つ存在だ。だからこそそれが気に入らないとばかりに、時折ではあるがこうしたトラブルに見舞われることも存在する。そんな経験はいらないと思いつつも、二人にとっては日常の一コマでしかないそんな場面に、めぐみは彼らの存在自体が気にくわないとばかりに、馬鹿に仕切った仕草で邪険に手を払った。

「あたし、初対面の人間に呼び捨てされる覚えなんてないの。

 それに、礼儀の礼ってものを知らない馬鹿は大っ嫌い」

「んなことは関係ねぇんだよ。テメェの腕へし折って、二度と使い物にならないようにすればいいだけなんでな」

「あ、そーゆーこと」

 少年達の言葉に、何か心当たりがあったのか、めぐみはあぁ、といわんばかりに大きく頷いて見せた。

 目的は分かったが、何故そんな物騒なことになるのか全く分からない崇が、呆れたようにめぐみに尋ねた。

「で、何なんだ」

 それに答えるよう、めぐみは些か冷めた目で少年達の言葉を切って捨てた。

「誰に頼まれたか知らないけど、コンクールに出て欲しくなきゃ、自分から言いに来いって伝えなさいよ。

 後、伝言」

 にっこりと、それはそれは綺麗な笑顔を浮かべ、めぐみは口を開く。

 もはや止めようとする気力もないのか、崇は黙ったままめぐみの言い分を右から左に聞き流した。

「短絡思考のぼけなす」

 が、最後の台詞に、ぶっと崇は吹き出し盛大に笑いこける。

 あまりの毒舌っぷりに口を挟めなかった少年達の顔色が、怒りで赤く染まっていくのを見ると、崇も笑っていられるはずがないとばかりにそれを押さえ込み、めぐみに理由を問いただした。

「コンクールってのは?」

「今度ね、うちの学校主催で開かれるの。

 小さいけど、結構有名人やら、いろんな音楽関係の学校なんかが集まるって話しだったんだよね。だから、少しでも良い印象や腕を見せることが出来たら、それなりの所からお声がかかるでしょ」

「なるほどな」

「で、あれ、どうしよう?」

 自分には全く関係ないといわんばかりのめぐみの口調と態度に、崇は眉を寄せてめぐみの頭を軽く小突く。

 全く関係ないのは崇の方だ。隠すこともなく、崇は大きな溜息を吐き出す。

 このままめぐみをおいてこの場を去ろうかという選択肢を選びかけ、そうなればなったでこの後のことを考えてしまう。

 確実に、崇の母親に小言を言われかねない。いや、母だけではない。ひたすら謝るめぐみの祖母の姿すらも脳裏にちらつき、崇はしょうが無く目の前の少年達を眺め直した。

 血の気だけが多いらしいのと、腕っ節はその手に持つ得物で何とかしようとしようとしているのは、見れば分かりきってしまう。だが、その程度のことは何時ものことだ。金属バットや鉄パイプを持っているとはいっても、それを難なく避けることが出来る崇とめぐみにとって、どんな得物を持っていようとも、彼らをぶちのめすのには何の支障も無い事柄といっても良い。

 それに崇同様に、美少女然とした容貌にかかわらず、めぐみは血の気が多い。この流れでは、乱闘騒ぎになることは必定だろう。

「お前は大人しくしてろ」

「えぇー」

「喧嘩騒ぎ起こして、そのコンクールとやらに出られなくなったら、本末転倒だろうが」

 それでも、一応釘を刺しておくと、不機嫌そうにめぐみは眉根を寄せた。

 どうやら自分も参入しようとしていたのだろう。だが、めぐみはそれなりに―悪い噂も良い噂も込みで―有名人だ。こんなことで、尾ひれやめひれのついた噂話しを拡散する必要などない。

 泰然とした二人の態度に焦れたのか、一人の少年が足早に近寄りめぐみの肩をつかもうとした。

 ぱしん、と乾いた音が響く。

「汚い手で触らないでくれる」

 その声と同時に、めぐみの拳が少年の鳩尾へと吸い込まれる。

 驚きに目を見開き、低い呻き声を上げて、少年が前のめりに倒れ込んだ。

 一瞬、何が起きたのか理解出来なかったのだろう。ぽかんとその情景を見ていた少年達だが、怒りと何かから目を反らすかのように咆哮をあげてめぐみに駆け寄ろうとした。

 しかし、それはめぐみの一歩前に出た一つの影に動きを止める。

 その影を追えば、冷たい光を瞳に浮かべた崇が佇んでいる。少年達がめぐみ諸共崇に牙をむいたのは、目撃者をけす意味もあったのだろうが、それはあまりにも短慮な考えだった。

「お前ら、誰に手を出したか分かってるんだろうな」

 一瞬だが、少年達は言われたことの意味をつかみ損ねる。

 そんな少年の一人を、崇は有無を言わさず大地にたたき伏せた。

「やっるー」

 茶化したようなめぐみの声だが、自分を中心に向かってくる少年達に辟易したように溜息を吐き出した。

 余りにも、少年達の動きは単調すぎた。これならば数分もたたないうちに片がつくな、と二人の脳裏にそんなことが計算されてしまう。

 時間にすれば、ほんの数分の出来事だった。

 必死になって二人に襲いかかる少年達だが、崇やめぐみとっては、その動きは亀よりも鈍いと感じられるものだ。肩で息をつく少年達とは対照的に、崇とめぐみは息一つ乱すことなくケロリとした顔で地に叩き伏せた少年達を見下ろしていた。

「勉強不足だよね、あんた達。あ、それとも命知らずってヤツ?」

 服の埃を払いながら、めぐみは小馬鹿にしたように少年達に声をかける。

 放り投げていた鞄を拾い上げた崇が、そんなめぐみの行動に盛大に顔を顰めた。

「行くぞ」

「あ、待ってよ、崇ちゃん」

 すでに関心をなくした二人は、さっさとこの場を離れるべく歩き出す。

 だが、何かを思い出したように、めぐみが少年達に振り返った。にっこりと天使のような、けれども、少年達にとっては悪魔のような綺麗な微笑を浮かべ、めぐみは少年達に語りかける。

「あんた達もつくづくお馬鹿よね。

 あたしだけならまだしも、聖山(せいざん)高校の日野崇を相手にしてただですむと思ったの?」

 その名前に、愕然としたように少年が顔を上げた。

 まさか、という色合いを含んだ顔色に、めぐみは口の端を笑みの形につり上げる。

「それだけですんでラッキーだったわね。

 ま、恨むんだったら、きちんと調べなかったのか、それとも隠したのか、どっちかを取った依頼人を恨んでね」

 にっこりとそう言い切っためぐみの顔は、嘘を言っている表情ではない。むしろ、この幸運に感謝しろとばかりの笑顔は、少年の顔色を青くしただけではなく、意味もなく口を開閉させる行動を取らせた。

 それをきちんと確認し、めぐみはくるりと踵を返して離れていく崇に追いつくためにアスファルトを蹴りつけた。

「……あいつが、日野」

 聖山高校の日野崇。ずば抜けた運動神経だけではなく頭脳も優秀であり、容貌も整っているという三拍子そろった少年だ。同世代の少年達のやっかみを一心に背負うには十分な要素がそろっているせいか、些細な切っ掛けでの乱闘騒ぎは日常茶飯事であり、その都度相手を大地に叩き伏せているのだから、不良にくくられる少年達にとっては避けて逃げ去るのが得策といえる相手だったのだ。

 確かに、めぐみの言うとおり、相手を知らずに喧嘩をふっかけたのだ。これだけですんだのは奇跡的な事柄といえる。

 相手が項垂れるのをちらりと見やり、めぐみがクスクスとおかしそうに笑う。

 そんなめぐみに向けて、崇が呆れたように声をかけた。

「何言ってきてんだよ」

「んー。べっつにー」

「まぁ、だいたい何言ってきたかは分かってるけどな……一つ言わせもらうが、言わんでいい事まで吹聴するな」

「いいじゃん。崇ちゃん有名人だし、あれくらい言っても減るもんでもないでしょ。喧嘩沙汰は」

 悪びれもせずにそう断言しためぐみの頭を、崇はそれほど力を入れずに小突きあげた。

 崇はこの近辺ではかなりの名物人間だ。このところは少なくなったとはいえ、今だに崇を叩きのめすべく動いている輩もいる。今回は本当にたまたま崇本人を知らなかっただけだろうが、これでまた崇の悪評が広がることだろう。

 今回の原因であり、そうなることをふっかけた本人といえば、今日もまたのんきな感想を抱いていた。

 すなわち……。

『人を見かけで判断すれば、後々怒濤のようなしっぺ返しが来るだろうに』

 だ。

 めぐみの思考が分かっていても、崇はこのやんちゃな幼なじみを放っておこうとは思わない。それどころか、これ以上の被害拡大を防ぐためにも、自分が見張っていなければ、という義務感の方が強くなる。もっとも、裏を返せば、振り払う火の粉を最初から払っておこう、という思惑が働いているのも否めないが。

「それにしても、矢沢学園の先輩って、有名人少ないんだよね」

「高橋がいるだろ」

「あぁ、高等部の先輩かぁ。まぁ、有名と言えば有名になるのかなー。高橋先輩と天野先輩とかは。

 でも、崇ちゃんに比べるとやっぱりあの二人ってかすむと思うよ。うちの学校の高等部、あの二人だけじゃなくて、高等部の生徒会長と副会長も有名だから」

 矢沢学園側の有名人と聞かれれば、真っ先に高橋勇一と天野那美の二人が上がるだろう。

 二人そろってスポーツ万能、成績優秀者だ。何かにつけては、助っ人としてこの二人が引っ張り出されるため、三強と歌われる崇が通う聖山高校ともう一つの籐華(とうか)学園は、最大限にこの二人を警戒しているというのが現実だ。

「崇ちゃんと高橋先輩って、やり合ったらどっちが強いのかな?」

「さぁな」

 コトンと首を傾げる仕草は可愛らしいのだが、言っている意味は空恐ろしい代物だ。

 今のところ高橋勇一とは直に手合わせしたこともないが、崇にとっては高橋勇一という少年は自分と同等、もしくは実力は上ではないかと噂話しで考えてしまっている。ニアミスもせずに今までいたこと自体が奇跡のようだが、近いうちに本人に会うのではないかという予感がチラチラと頭の隅に浮かんでいた。

「どうしたの、崇ちゃん?」

「んでも」

 ねぇ、と続けようとした崇の言葉は、聞こえてきた凄まじい悲鳴によって中断され、二人は足を止めて互いの顔を見合わせた。

 同時にアスファルトを蹴りつけ、目の前に広がる鬱蒼とした雑木林に二人は入り込む。

 ここいらでは珍しい緑の群生地は、二人にとって昔は格好の遊び場であり、今では登下校時の近道として通る場所だ。

 林としては小さな場所なのだが、木々が辺りを覆いつくし周囲の風景を隠すには十分な広さのせいか、悲鳴の上がった場所あたりを見通しても誰の姿も見えない。

 不思議に思いながらそちらに近づいためぐみが、目の前に広がった光景に口を押さえ込んで悲鳴をこらえると、即座にその場から顔を背けた。

 同じようにそちらを見た崇の表情も愕然としたものとなり、顔から血の気を引きながらもめぐみの腕を強く引っ張ると、それを見せつけないために強く抱きしめる。

 ぽっかりと小さく開けた場所には、中央に一人の女性が横たわっていた。

 手足をおかしな方向に曲げられ、ずたずたに引き裂かれた身体から赤い血が緩やかに広がり、女性を中心とした血溜まりを作っていく。大きく見開かれた女性の眼はすでに光を失っており、もうこの世の住人ではないことを如実に物語っていた。

「た、崇、ちゃん。この人、死ん、じゃってる?」

「あぁ」

 カタカタと震えるめぐみが、絞り出すように尋ねる。否定して欲しい気持ちの強いその疑問に、崇は固い声でこれが事実だと肯定した。

 胃の腑から苦いものがこみ上げてくる。けれども必死にそれを押しとどめた崇は、不意に袖を引っ張られる感覚に、腕の中の存在を見下ろした。

「ねえ……なんか、いるよ」

「あぁ、分かってる」

 いつにないめぐみの声には隠しきれない不安が現れており、めぐみはに小さく周囲を見回す。

 この林の中に隠れている存在は、二人の動向をじっとどこからか見続けている。それを肌で感じながら、崇はなんとか気力を取り戻したらしいめぐみを腕から解放し、ゆっくりと二人は背中合わせになるべく動き出した。

 殺気を孕んだ風が二人を叩き付け、二人ともその場に釘付けにされたように足を動かせずにいる。

 それをなんとか押さえつける二人の耳に、低い唸り声が届いた。

「ね、崇ちゃん……動物園とかから、猛獣が逃げましたー、とか、聞いてない、よね」

「あるわきゃねぇだろ」

「じゃあ、あれなに!」

 半分悲鳴に近い声を上げためぐみが、目の前の草むらから除く光り輝く眼に射すくめられたように息を飲み込む。

 黄金(きん)色の、まあるい眼。

 それが、じっと叢から二人の動きを見つめている。

 普通の獣ではない。否、獣であるはずがない。

 血の臭いと、微かに漂う甘い香り。

 直感的に感じたそれは、未知なるものを見た恐ろしさとともに、めぐみの肌が粟立つには十分なものだった。

 動けなくなっためぐみと同様に、崇もまたそこから微動だに出来なくなっていた。

 今動けば、確実に二人とも殺される。

 背中越しに伝わるその気配は、はっきりとそう語っており、実際二人の動きを止めるのに最大の効果を見せていた。

「あ……」

 かすれた声が、めぐみの口から漏れる。

 それを合図にしたかのように、何かが茂みから跳躍した。

「めぐみ!」

 ためらいなく、崇がめぐみを突き飛ばす。と同時に、自分も横飛びに飛びすさるが、何かが崇の頬をかすめた。

「崇ちゃん!」

 倒れためぐみが慌てて崇を見やり、短い悲鳴を上げる。

 ぽたりぽたりと大地に流れ落ちていく血は、崇の頬から流れ続けるものだ。

「崇ちゃん!」

「かすり傷だ」

 慌てて近づこうとするめぐみに向けて、崇はその場に押しとどめるように低い声をあげる。

 どうやら気配はこの場から去っていったようだが、まだ安心は出来ない状況だ。それに加えて、この場を警察に連絡しなければ、自分達は動くことも出来ないだろう。

「めぐみ、警察」

「あ、そ、そうだよね」

 思い出したようにポケットからスマートフォンを取りだし、めぐみは震える指先でその画面を操作する。

 その姿を見ながら、崇は頬をぬぐう。

 ぬるりとした手触りに顔を顰めるが、それ以上に濃く香る血の臭いに視線を向け、すぐにそこから眼を引きはがした。

 この場から少し離れるべきだと痺れた頭でそう考え、崇はめぐみに近づくと立ち上がるように手を差し出す。

 が、その手を取ろうとしためぐみは、ぺたりと大地にしゃがみ込んだまま、情けない顔で崇を見上げた。

「どうした?」

「腰、抜けちゃった……」

 その答えに、崇も困ったような表情を浮かべる。それもそうだろう。あれだけ強い殺気に当てられたのだ。気が抜けた途端に力がなくなるのは、不可抗力と言えば不可抗力だ。

 だが、何時までもこんな場所に居続ける必要性はない。すぐに背中を向けてめぐみにおぶさるように視線で促す。

 なんとか崇の首に腕を回しためぐみの身体が、カタカタと震えていることに気が付き、崇はこの場にめぐみがいたことに安堵していた。

 自分だけならば、きっと血の海に広がる女性と同じ運命を辿っていただろう。それほどの恐怖を植え付けられたのだ。

 先程自分を傷つけた『何か』。

 あれは、人でも獣でもない。

 何故だか、崇の頭の片隅でそう囁く声が聞こえる。無視しようにも、無視出来ないその言葉は、背中に覆い被さるめぐみにさえ聞けない言葉だ。

 ―あれはいったい……。

 過ぎる疑問に頭を振り、崇はふと視線を背後に向けた。

 開かれた女性の瞳は虚空を睨み付け、今はいない何かに恐怖したようにその表情は凍り付いている。

「崇ちゃん?」

 心配そうなめぐみの声に、崇ははっと我に返った。

 心配そうに崇を覗き込むめぐみに、崇は何でも無いと言うために顔を緩く横に振る。

 近づいてくるサイレンの音が耳に入り込み、崇は力を込めて惨劇の場から離れるべく歩き出した。

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