023_告げられる名
朧げな意識の中、あたしが最初に感じたのは全身に張り付く、汗に濡れた衣の不快さだった。
粘り気すら感じそうなそれは、嫌な汗をかいた証拠だろう。
「先ずは早く拭おう……ってうわ!?」
目を開けた途端、侍従頭の厳しい顔が間近にあり、あたしは思わず叫んだ。
「うわ、ではないこの馬鹿者がっ」
拳骨を落とされ痛む額を、涙目になりながら押さえる。
そんなに怒ることないじゃない……。
理不尽な仕打ちに、さすがに文句の一つでも言おうと思い、現状のおかしさに気付いた。
「なんで、侍従頭がここに?」
この七日間、あたしが鈴を鳴らした時以外に侍従頭がやって来たことはない。
「……あのお方が鈴を鳴らされたのだ」
「えっ」
そう言って侍従頭がすっと視線を向けた先、少年が少し離れた所に座り、じっとこちらを見詰めていた。
「感謝するのだぞ。あのお方が鈴を鳴らし治療を命じたおかげで、お前は死なずに済んだのだ。治療は元より、あと少しでも報せが遅ければ、血を流し過ぎ死んでいたかもしれん」
まさかそれ程危ない状態だったとは……。
あの時は無我夢中で、あたしの想いを行動で示す以外、何も考えていなかったからなあ。
「傷口が深く縫ってあるが、数日はあまり動かさんように。傷が開いても今度は助けぬからな」
じろりと睨んでくる目が、これ以上面倒をかけるなと釘を数百本刺してくる。
「すいません……」
素直に謝った直後、あたしは大変なことに気付いた。
「でも、それじゃお世話が」
掃除や洗濯、料理に少年の傷の手当て……片腕が使えずに上手くやれるか、ちょっと自信がない。
「鬼の端くれなら、傷の治りも早かろう。それまでは座敷童を寄越すゆえ、任せればよい」
「座敷童?」
あたしの疑問に答えられることはなく、またしても物事があれよあれよという間に決まっていく。
元より口を出せる立場じゃないけど、今回はこれまで以上に肩身が狭い。
その後、侍従頭は小言をたっぷりと口にし、少年の血で満たされた壺を手に離れを去った。
聞き終える頃には、血を失ったことと相俟って若干意識が朦朧と。
このまま意識を手放そうかと考え、ふと感じたのは背中に感じる柔らかさ。
あたしが横たわっていたのは筵ではなく、布団だった。
けど、ここに少年用の布団以外に予備はない。
つまり……。
別の意味で意識を失いかけ、慌てて退けようとしたら、近寄って来た少年に押し留められた。
華奢な体からは想像もできない、思い掛けず強い力で。
呆気に取られていると、少年は懐から良く熟れた柿を取り出した。
片手で持ったそれは、差し出すような形で止まっている。
「ひょっとして、あたしに?」
念のためそう聞くと、無言で頷かれた。
仕える少年の寝床を奪っておきながら、手ずから食べ物まで与えられては申し訳なさ過ぎる。
断ろうと思ったけど、縁側で身じろぎもせず外を眺め続けていた姿が脳裏を過り、受け取ることにした。
放っておいたら、いつまでもこの姿勢でいそうだし……。
なんとか上体を起こし、お礼を言ってから貰った柿を齧る。
厚めの皮の下、果肉は驚く程に柔らかく、甘い。
齧るというより吸う感じで、あっという間に平らげてしまった。
するとそれを見た少年が、とてとてと土間の方へ歩いて行き、また戻って来た。
その手に、新たな柿を持って。
そして、先刻と同様にこちらへ差し出してくる。
「……」
相変わらず無言だけど、この意図が分からぬ程あたしも鈍くない。
頭を下げてから受け取り、食べる。
今度はゆっくりと、味わいながら。
「ごちそう……」
完食し『様でした』と続けるつもりが、三個目の柿が既に用意されていた。
しかも、心なしか以前よりあたしの顔の近くへ……。
あたしに向けられた黒い瞳には、血を採る時に見た冷たい憎悪の炎は見えない。
それ自体は良かったと思いつつ、真っ直ぐに見詰められると断り難い。
けどさすがに五個食べ切ったところで限界を迎え、
「もう無理っ!」
と口を押さえながら訴えた。
すると少年は、とぼとぼと土間へ柿を置きに行き、また戻って来た。
今度は何も持っていない。
密かに安堵していると、少年がぼそりと口を開いた。
「……なまえ」
あたしへの問い掛けだと理解するのに、だいぶ間があったと思う。
け、けど仕方がないじゃない?
この七日間、そもそも声を聞いたことすらなかったのだし。
その声は少し高めで、年齢よりも幼く感じた。
じっと待っている少年へ、
「クシナ」
と短く答える。
すると少年は『クシナ、クシナ……』と、小声で何度も呟いていた。
その姿が可愛いく思え、あたしつい聞いてしまった。
「少年の名前は?」
……やらかした。
世話役の分際で仕える相手の名前を尋ねただけでなく、よりにもよって少年呼び。
侍従頭がどこかで聞き耳をたてていやしないかと、思わず警戒した瞬間。
「……スサノオ」
少年が答えていた。
あたしと同じように、短く自分の名前を。
これがあたしと少年……ううん、スサノオとの意思の籠った初めての遣り取りとなった…………。
今日で平日も終わり。
乗り切り、土日ゆっくり休んでください。
土日も忙しい方は、無理なさりませんよう。




