鈴とハマナス
家の前に人間が落ちていたので拾ったら、なぜか気に入られて住み着いた。
安易に人間を拾ってはいけない。
一人暮らし3年目、人間になって18年目にして、素晴らしい学びを得た。
…………できれば住みつかれる前に知りたい情報だった。
鈴花は3年前に祖父を亡くしたのを機に独り立ちをした。祖父の貸本屋を継いだのだ。
小さい頃に両親は流行病で異界に旅立っていて、主に祖父母が幼い鈴花の面倒を見てくれていた。近くに住む叔父夫婦も、何かと気をかけてくれていて、従兄弟とは兄弟のように育った。
祖母が亡くなって2年、追いかけるように祖父も異界に旅立った。病を得て寝ついてから、ひと月と持たなかった。もしかしたら寂しがり屋の祖母が急かしたのかもしれない、と葬式の際に叔父たちと笑い合えるくらいには大往生だった。
鈴花は幼い頃に両親が亡くなったにしては、恵まれた人生だったと思う。
健康に恵まれ、何より人に恵まれた。
いつ孤児として放り出されてもおかしくない身だったのに、祖父母も叔父夫婦もそうしなかった。実子のようにそれなりに甘やかして、それなりに厳しく生きる術を教えてもらえたし、女だからといってさっさと嫁に出されることもなく、祖父の遺言通り店を続けさせてくれた。
これまでが順調すぎて忘れていたのだ。
世の中には自分の力ではどうにもならないことが起きるということを。
「なあ、主人。この本はここにあってはいけないのではないか?」
低い声でそう言いながら一冊の本を差し出す男は、たいそう背が高い。鈴花が小柄なこともあるが、向かい合って目を合わせようとすると、首が痛くなるくらいには身長差がある。
そして、嫌味なほどに何もかもが整っている。
どこか艶のある声はもちろん、綺麗に左右対称の顔面は白くきめ細やかな肌と宝石のような紫の瞳で彩られ、銀の髪はどう見てもぞんざいに切って束ねてあるだけなのに、不潔な感じはしない。むしろ作り物めいた顔の印象を和らげ、親しみさえ感じさせる。天女と見紛うばかりの美貌を放つこの人物から決して弱々しい印象を受けないのは、ゆるりとした作りの上衣からはみ出た筋肉質な腕や、女性にしては高すぎる身長のせいだ。
着の身着のまま、荷物も持たずに家の前に倒れていた男が今着ているのは鈴花の従兄の服だったが、従兄も鈴花と同じく小柄、贔屓目に見ても平均的な身長で、一番大きな衣を借りたはずなのに足や腕がはみ出ている。見かねた叔母が反物を分けてくれたので、いつもならば休憩がてらのんびりと本の修繕をしているだけのこの午後の時間に、鈴花はあまり得意ではない針を持ってせっせと衣を作ることに精を出す羽目になっている。
「なあ、主人。こっちにうつして良いか?」
鈴花の実家、今は叔父夫婦の経営する商店は日常の細々とした消耗品や装飾品を売る商人だ。豪商と言っていいほどの規模の商売をしつつ、祖父が半ば趣味で始めたのがこの小さな貸本屋だった。
「無視か主人。俺の趣味で並び順変えるぞ?」
「……やめてく、……つぅ……」
ぐいぐいと押し付けられる本を押しのけたところで、針が指に刺さって鈴花はようやく目の前に迫った綺麗な青年の顔に視線を向けた。
美貌の青年の名を、鈴花は知らない。彼は名を持たないと言っていた。すぐに出ていくと思っていたから、別段困ることもないと思っていたのに。
「大丈夫か?」
「いたい……」
少し集中力を欠くと痛い思いをする。これだから針仕事は嫌いなのだ。
ぷくりと膨れた血の玉を見つめていると手首を取られて、驚く間もなく青年の薄い唇に自分の指が包まれる。べろりと熱い舌の感触を感じて、ようやく鈴花は手を引っ込めた。
「な……にを……」
「血が布につくとシミになる」
あまりに平然と言われるので自分が間違いっているのかと思いそうになるが、明らかにこの男の行動はおかしい。妙齢の女性の指を、血を舐めるなんてはしたなさ過ぎる。
こんなにおかしな男なのに、鈴花の叔父夫婦からの信頼は厚い。
男を拾ったその日、様子を見にきた従兄が鈴花の家に知らない男がいることを見咎めてそのまま家に連れ帰り、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、3日後、何故か叔父に連れられて男は帰ってきた。
『鈴花を頼む。こいつが両親を亡くして以来大事に育てた可愛い姪だが、お前になら預けられる……!』
などと涙ぐみながら手を握った叔父は、3日でどんな洗脳を受けたのだろう。
叔父に可愛がられて育てられた覚えはあるが、こんな得体の知れない男に預けられる覚えはない。本人不在で勝手に預け先をきめないでほしい。
それから3日。
男は当然のように鈴花の家に住み着き、着々と近所付き合いを始め、鈴花の周りをうろちょろしている。
「ねえ、いつになったら出て行ってくれるんです?」
「誰が?」
「あなた以外の誰だと思うんです?」
鈴花がため息混じりに問えば、男は目を丸くして心外だと言わんばかりの表情をしている。切長の綺麗な瞳がさらに大きくなって、きらりと光を弾いた。
「何で?ようやく主人を見つけたのに?恩も返してないのに?」
「その、主人ってなんなんですか。私には全く身に覚えがないので、恩も返さないで良いです」
「主人は主人だ。鈴花のことだ。……主人に身に覚えがなくても、俺が覚えてるんだから、恩返しをする。それには一緒に住むのが一番都合が良い。一緒に居れば悪いモノが寄り付かないし、仮に寄ってきても俺が払ってやる」
この3日で何度も繰り返された問答を無駄に繰り返してしまった。この男の言うことは、全く要領を得ない。少なくとも、鈴花の理解できる言葉を使ってはくれなかった。説明を求めても、男自身が納得しているのだから良いのだと、何度でも繰り返すだけ。
「不毛すぎる……」
「そうだろうな!ところで主人、主人がつけてくれた俺の名は思い出したか?」
「思い出すも何も、会った覚えすらないんだけれど……」
「ならば今つけてくれ!そろそろ不便だろう?」
「あなたが今すぐに出て行ってくれるなら、何の不便もないんですけど」
「それはない。主人の叔父上にも許可をもらったし、なんならそのまま丸めこんで祝言をあげさせろと、申しつけられている」
「全く、あの人は……」
鈴花は呆れてひとりごちた。
叔父が鈴花の嫁ぎ先を気にしていたのは知っている。しかし、実子でもないのにそこまで世話になるわけにもいかない、と断り続けていた。
そもそも鈴花には結婚願望がない。恋愛もしたことがなく、棚に並べられた物語を読んで、自分の意思でどうにもならない衝動とは難儀なことだなぁと思うことがあっても、それに憧れることはなかった。自分ではない意思に動かされることは少し怖い。
「祝言とは何のことかはわからんが、丸めこむのは賛成だ!」
こんな調子で、この男はたまに記憶が欠落しているのではないかと思うくらいの語彙力を発揮する。顔と同じく、常識や語彙もこの世のものとは思えないところがある。
『久しぶりだな鈴花。ようやく俺も体が空いた。恩を返させてくれ』
行き倒れていた男に、昼に食べようと思っていた包子を食べさせ茶を飲ませた後に真っ先に言われた言葉がそれだった。全くもって何を言われているのか分からない、と言う鈴花に男は続けて言ったのだ。
『俺は龍人だ。龍は受けた恩を忘れない。きっと鈴花の役に立つ。ここに置いてくれ。そうして、できれば、鈴花のつけた俺の名を呼んで欲しい』
そう乞われても、鈴花は男と会った記憶などなかった。
2頭の龍の屍の上にあると言うこの大陸で、龍人を名乗る種族が滅んだのは遥か昔、それこそ神話の時代の事だと言われている。
世界の始まりは2頭の龍だった。2頭は飽きることなく戦い続け、力尽きて海に落ちた。その体は中央に2本の大河が流れる大陸になり、剥がれた鱗から沢山の命が生まれた。この大陸の生き物が魔力を持つのは、もとを辿れば強大な力を持っていた龍から生まれたからだと、この国の人間は信じている。
その中でも強い魔力を持つ龍人は、龍の瞳から生まれた。その末裔が国をまとめた初代皇帝だと言うのが、この国の建国神話だ。
しかし長い年月でその血は薄れ、皇家と言っても今や普通の人間と変わらないらしい。
そんな尊いお方、鈴花は見たことはないけど。
『あなたは、天子様ですか?』
彼が龍人を名乗った時、鈴花がすかさずそう聞いたのも無理はない。この国の民にとって、龍人といえば皇帝のことだった。
『俺は龍だがあれとは別の系統だし、俺の方が血は濃いから力も強い。……だが、鈴花が俺が天子の方が良いと言うのならひと月くれ。この国を取ってきてやる』
そんな、なんとも不敬で、不穏なことを口走る男の瞳がゆらりと揺らめいたのを見て、鈴花は慌てて首を振った。
できるかどうかはともかく、この男なら本気でやりそうなところが恐ろしかった。この男のことなど知ったことではないが、万が一鈴花に唆されたなどと言われれば鈴花だけでなく、叔父たちにも迷惑がかかる。
それ以来、幸いなことにその話はしていない。
「何度も言ってますけど、私はこの店で穏やかに過ごしたいんです。家族以外の誰とも同居する気はないし、恩返しなんてしなくて良いんで、早く出て行ってください」
「主人と俺は家族じゃないのか?俺の主人なのに?」
「いや、家族ではないです。その『主人なのに』の意味が分からないし、身に覚えのないことです」
男は驚愕の2文字を顔面に貼りつけている。この美しい顔面は、表情がつくと近寄りがたい空気が崩れて親しみが湧く。居着かれたのはたいへん不本意ではあるが、見ている分には眼福だ。
できたら離れて見ていたい。井戸端会議で『あそこの家の息子さん、綺麗ね〜』などと、軽口を叩くくらいの距離感で眺めていたい。決してこんな至近距離で眺めたいわけではない。誰か引き取ってくれないか。
「じゃあ家族になれば良い!俺は何にでもなるぞ!」
「いや、本格的に意味が分からないから」
「分からない?本当に?……言葉の通り、何でもなる。親でも、旦那にでも妻でも子どもでも、なんなら愛玩動物にでもなれるぞ。やってみるか?」
「はぁ……?」
「とりあえず何になろうな?主人の希望は?ないだろうな!分かりやすく愛玩動物、……猫にでもなってみるか!」
「いや、本気で意味が分からないから」
「とりあえず本は……ここだな!」
先ほど抜き出した本を勝手に違う棚に入れて、男は狭い店内をずんずん歩いて鈴花の座っているカウンターの前に立った。そのまま美しい紫の目を閉じて、数瞬、鈴花が瞬きをする間にふわりと男の着ていた衣服が宙を舞っていた。
鈴花はそれを黙って見ていた。
動じていないわけではない。
驚きすぎてわけがわからなくて固まっていたのだ。
「柄くらい希望を聞けばよかったかな」
やがて先ほどよりも掠れた高い声が、積み上げられた衣服の下から少しくぐもって聞こえてきた。
鈴花は思わずカウンターの下に落ちた衣服を覗き込む。もぞもぞと衣が動いて、その中から這い出てきたのは銀の毛皮の猫で、毛並みを整えるようにぶるぶると体をふるわせている。
くあ、と一度あくびをして覗き込んでいた鈴花に顔を向ければ、猫は紫の瞳をしていた。
「主人、そんなに見つめて、瞳が落っこちるぞ。そんなに猫の俺の方が良いか?」
あざとく首を傾げながら、猫はそんなことを言った。その口調と声質はたしかに先ほどまでその場にいた男と同じものだ。
猫が話すことにもその声色にも驚いて、何事も口に出すことができなかった。
「これで主人の家族になれるか?」
猫は大きな獣の瞳を細めてじっと鈴花を凝視し、挑むようにカウンターの上に飛び上がる。
「なあ主人、俺に名前をつけてくれる気になったか?」
鈴花に視線を合わせた猫は、猫の顔なのに楽しげな表情をしているように感じた。
その言葉は明らかに猫の喉から出ていて、鈴花の思った以上にめちゃくちゃな男だったらしいということは理解できた。理解せざるを得ない。
鈴花は諦めて息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。
「あなたは、私が諦めるまで居座りそうですね」
滲んだ諦念を隠しもせずに鈴花が言った。
猫は艶々とした尻尾をゆっくり振って、ニィと大きな口を開きゆっくりと笑みの形に歪めて言う。
「当たり前だ。龍は一度決めたことを変えない」
おそるおそる手を伸ばせば、銀の猫は鈴花の手に体を擦り付けてきた。艶々の見た目通りの滑らかで温かな毛皮の下に、しなやかな筋肉が感じられる。
体を変化させる術など、それこそ神話の時代の古く複雑な魔術だ。これが幻影だとしても、この時代の魔術で手触りまで再現させるなど、できる者は居ないだろう。
龍は決めたことを変えないというのは本当だろうと、鈴花は直観する。これほどの圧倒的な力を持ってすれば、意志を変える必要がないのだ。
「一緒に住むのなら規則を決めましょう」
「……ん?本当か?!」
猫の首の下を撫でていた鈴花が静かに言えば、耳をぴくりと跳ねさせて猫が言った。
「嘘でも本当にする術があなたにはあるではないですか?」
「あるが、主人には使わない。……なあ、名前もつけてくれるのか?」
「毎日2刻ごとに問われるのも疲れましたから、つけます」
「本当だな!」
「あなたみたいな存在に嘘をつくのも怖いですから……、そうですね、玫瑰というのはどうですか?」
「玫瑰か!……なんだそれは」
そこらに咲いている花だが知らないらしい。やはり語彙に偏りがあるのかもしれない。
「私の好きな花です」
ありふれた花だが形や色というよりは、匂いが気に入っている。もうすぐ花の盛りだ。
「前の時は好きな食い物の名で呼んでくれていた。主人の好きなものの名前で呼ばれるのは嬉しい」
食べ物の名前なんてつけてたのか。
記憶にはないが、万が一それが自分の仕打ちだとしたらたいへん申し訳ない。猫の名だと思えば可愛らしいが、青年が食べ物の名前で呼ばれているのは少し滑稽だ、と思ってようやくその可能性に思い至った。
「もしかして、以前私と会った時は子犬の形をしていませんでしたか?」
「よく分かったな。その通りだ」
ころころとした子犬の幻影が目の前をかけた。ふわふわの銀の毛並みの、鈴花だけの喋る犬。小さい頃に見た夢か想像上のなにかだと思っていた。
だって自分はあの時、正気ではなかった。両親を亡くした直後だ。
自身も重い病にかかり生死の境を彷徨い、生還したと思えば両親は異界に旅立ったと言われた。起き上がれるようになったのは葬儀もすんだあとだ。
両親とこの世で二度と会えないと言われて、あの時初めて鈴花は死というものを理解し、恐怖を覚えた。毎日泣いてばかりいた。従兄が遊びに誘っても、祖父がなだめても、叔父が飴をくれても何の慰めにもならなかった。誰もが鈴花を扱いあぐねていた。鈴花自身も。
怖くて寂しくて悲しくて、涙が溢れて夜も眠れなかった。寝ると次に起きた時に自分が死んでいるのではないか、他の誰かがいなくなっているのではないかと怖かった。両親にもっと言えることがあったのではないかと後悔でいっぱいだった。
ゆるやかに死に向かいつつあったそんな時に、いつの間にか添うていた汚れた毛並みの犬に、腹が減ったと言われて何も考えず饅頭をあげた。自分には食べられないからと言った鈴花は犬に半分食べろと言われて、泣きながら食べた。
食べれば胃がひっくり返りそうになったが、消化が終われば少し気力が湧いて、少しずつ泣かずに息ができるようになっていった。
そうすれば犬の毛並みが汚れているのが気になるようになり、叔父の家の大きな湯殿にこっそり連れて行って、一緒に風呂に入り洗った。嫌がるかと思ったが案外、湯殿が気に入ったと犬は言った。鈴花はその時、久しぶりにはしゃいで笑ったのだ。
あのあと、いつ、どうしていなくなったのかまでは思い出せない。
あの頃の自分を支えてくれた存在がこんなにも不遜だったなんて思いもしなかったけれど、名が欲しいと言われて、たしかに鈴花が好きな食べ物の名前をつけた。
「……花巻」
思いついた名前を呼べば、縦長の瞳孔を細めながらきらきらと光を弾く瞳を輝かせて、美しい猫はヒゲを広げて笑い、鈴花の頬に頭を擦り付けた。