特別編 神崎凜の胸の内 ①
特別編 神崎凜の胸の内 ①
―――初めに見た時は、少し変な人だと思った。
ゾンビ騒動が起こり、私の周りは未曽有の混乱に包まれた。
元の部隊ではないとは言え、同じ自衛官が突如として人を喰う怪物に変わってしまったのだから。
その時のことは、ハッキリ覚えている。
祖父の卒寿を祝うため、私は休暇を申請して部隊を離れてこの地へやってきた。
予想より早く到着してしまったので、基地の叔父に挨拶をするために詩谷駐屯地へ。
『辺鄙な場所でしょう?でも、住めば都です!』
そう言いながら私に道案内をしてくれた自衛官。
『申し遅れました!私、古橋陸士長と申します!』
元の部隊が少々特殊なため機密保持の観点から民間人だと言った私に、そう彼女は笑って敬礼した。
少し、年下だろうか。
元気そうな、目がくりくりとした可愛らしい女性だった。
『花田一等陸尉にこんなにカッコいい姪っ子さんがいたなんて、知りませんでしたよ!』
私はたぶん、苦笑いでそれに返したと思う。
・・・またそれだ。
『格好いい』・・・この年になるまで、どこへ行ってもそう言われた。
私も一応、女性なのだけれど。
学生時代も、こうして自衛官になった今でも。
『格好いい』の呪縛からは逃げられないらしい。
・・・まぁ、それは百歩譲って受け入れるとしても。
同性から告白されることには、一向に慣れない。
私は、そういう性的嗜好ではないのだけれども。
・・・そして、何故男性からはそういう目を向けられないのだろうか。
いや、別に恋人がほしいというわけでは、ないのだけれど。
『はいはーい!こちらですよっ!』
私の心情に気付きもせず、陸士長は楽しそうに先導している。
何かいいことでもあったのか、その足取りはスキップでも踏みそうに軽やかだった。
そして、『それ』は・・・叔父のいる部屋の前まで来た時に突然やってきた。
『こちらが、一等陸佐の・・・あ、れ?』
陸士長が不意に顔を顰め、足元をふらつかせる。
「・・・どうしました?」
『いや、えっと、何か・・・変・・・な・・・ぁ』
問う私の目の前で、陸士長は頭から地面に倒れ込んだ。
がらんとした廊下に、大きな音が響く。
「大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄り、声をかけた。
原因が脳由来だと取り返しのつかないことになるので、体は揺すらずに。
「陸士長!陸士長!!・・・誰か!急患です!!」
全く反応を返さない陸士長を見て、私はすぐさま周囲に叫んだ。
しかし、がらんどうの廊下には私の声に反応する人は誰もいない。
「・・・!」
同時に気付く。
陸士長の呼吸が停止していることに。
慌てて彼女を仰向けにし、心音を確認する。
「なんて、こと」
心音も、聞こえない。
先程まで元気だった彼女。
それが、突如として心肺停止に陥っている。
「誰か!AEDを持ってきてください!誰か!!」
とにかく、今真っ先にやるべきことは心肺蘇生だ。
陸士長の横に膝立ちになり、両手を所定の位置へあてがう。
ふと、違和感に気付いた。
・・・彼女の肌は、これほど白かっただろうか。
チアノーゼを起こすには、時間が早すぎる。
まるで、そう。
死後硬直の始まった、死体のような。
「・・・ァ」
「!陸士長!!大丈夫ですか!?」
彼女が声を出す。
何もしていないのに蘇生したのか。
そう思った瞬間に、彼女の体は激しく痙攣し、目が開かれた。
白目の部分まで、真っ赤に染まった眼球だった。
「ァアアア!!ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
「っあ!?な、なにを!?」
陸士長は叫びながら私の肩を掴み、床から起き上がった。
その反動で、床に叩きつけられてしまう。
馬乗りの体勢だ。
「ギイイイイイアアアアアアアアアアア!!」
「やめ!やめてください!!」
私の制止も聞かずに、彼女は口を大きく開け・・・私の喉に喰らいつこうとした。
「・・・っ!!」
背筋が、粟立った。
体が勝手に動き、私は反射的に彼女の顔に肘を打ちこんだ。
「ギャバ!?」
「っふ!」
さらに、もう一撃。
上体を崩した彼女の鳩尾に、膝を入れて吹き飛ばす。
瞬時に立ち上がり、構えを取る。
「一体どうしたんですか!正気に戻ってください陸士長!!」
よろよろと立ち上がろうとする彼女に声をかけるが、聞こえてくるのは不明瞭な呻き声ばかり。
「グウウウウウウウア!!!アアアアアアアアアアアアア!!!」
口から涎を垂らし、真っ赤な目を見開いた彼女は・・・まるで、まるでできの悪いホラー映画のクリーチャーのようだった。
「・・・やめなさい。近付くと、攻撃しますよ」
これは、異常事態だ。
私の理解を遥かに超えた現象が、目の前で起こっている。
「グウウウルウウウウウウウ!!!ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
立ち上がった彼女が、再度私に向かってこようとするのを見ながら・・・
私は、ブーツに隠していた護身用のナイフを取り出し・・・構えた。
この時に、覚悟を決めた。
目の前の『敵』を、排除する覚悟を。
「アアアア!!!アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
再三の制止も聞かず、彼女は獣めいた動きで私に襲い掛かってくる。
「ふうう・・・!!」
私に向かって伸ばされた手を、左手で払いのけ。
「っし!!!」
がら空きになった喉を、右手のナイフで切り裂いた。
「アバッ・・・!?」
ぱっくりと開いた喉の傷から、鮮血を噴出しながら彼女は仰向けに倒れた。
しばらく緩慢な動作を繰り返した後・・・古橋陸士長は、永遠に動きを止めた。
「・・・ぅぷ!」
こみあげる吐き気を、無理やり飲み込む。
動悸が激しい。
体の奥から、凍り付いたように寒い。
涙が、悲しくもないのに後から後から流れてきた。
この手で初めて命を奪った感触に、しばらく全身の震えが止まらなかった。
・・・どれほどそうしていただろうか。
ふと、周囲の喧騒に気付いた。
開け放たれた窓や廊下の奥、室内から、悲鳴と怒号のような声が聞こえてくる。
まるでさっきの彼女のような・・・
人間が、無理やり獣を真似ているような無数の声。
それと同時に、目の前のドアが内側から弾け飛んだ。
身構える私の目の前で、廊下に誰かが倒れ込んでいる。
40代ほどの自衛官。
その喉は、握りつぶされたように歪んでいた。
「お前は・・・凛か!」
吹き飛んだドアの向こうから、見知った顔が姿を現した。
「お、叔父・・・叔父さん」
歳三おじさん・・・花田一等陸佐が、心配そうな眼をして私を見ている。
廊下の状況から、何があったかを一瞬で把握したらしい叔父は。
「いきなり襲い掛かられてな・・・そっちもか?」
「は、はい!」
床に転がる自衛官の目も、陸士長と同じように真っ赤だった。
「何が起こっているのかわからんが、尋常な事態ではない。まずは現状を把握する・・・ついて来い!」
「ハッ!」
かつてないほどの緊張感をみなぎらせる叔父に、思わず敬礼で返してしまったことを覚えている。
私は、叔父が放り投げてよこした予備の拳銃をしっかりと握りしめた。
走る叔父を追いながら、私は廊下に倒れた陸士長の姿を・・・しっかり目に焼き付けた。
私が、初めて命を絶ってしまった相手を。
―――それからは、怒涛の日々だった。
叔父は、駐屯地内の残存兵力を結集。
狂乱する自衛官たちと戦いながら、備蓄の食料や武器をありったけかき集めてトラックに積み込んだ。
基地機能は完全にマヒし、周辺からも暴徒が群れを成して集まってきていたので、すぐさま脱出。
方々に無線で連絡を取ろうと試みるも、他の部隊は不通か戦闘の真っ最中だった。
上層部との連絡は完全に途絶。
仕方なしに、私たちは単独行動を取らざるを得なくなってしまった。
叔父や土地勘のある隊員たちの合議で、秋月総合病院に到着したのはしばらく後だった。
飲まず食わずで動いていたので、ひどく空腹だったのをよく覚えている。
病院敷地内の暴徒(この時点で、便宜上ゾンビと呼称することに決定した)を掃討し、防御陣地を構築。
容量いっぱいまで近隣の避難民を収容した後は、長い長い籠城戦の始まりだった。
ここに至るまで、ある意味余裕がない状態だったからこそ私は平静を保ってられた。
だが、若干落ち着いた状況において、今までに無視していたショックが一気に襲い掛かってきた。
陸士長を殺したこと。
人の形をしたゾンビを何人も射殺したこと。
そして・・・逃走中に何度も何度も人を見捨てたこと。
一人になると、何度も吐き気が襲ってきた。
夜眠ると、決まって悪夢を見て目覚めた。
避難民を守ること。
叔父たちと一緒に避難所を運営すること。
その目的というか、一種の強迫観念が私の自我をなんとか保たせていた。
・・・後から叔父に聞いた所、その頃の私は死んだ目をしていたらしい。
そんな日々も過ぎ、異常ながらも一定の日常をなんとか取り戻しつつある時だった。
避難所に、田中野さんが訪ねてきたのは。
その時のことは、今でもはっきり覚えている。
歩哨の当番だった私は、遠くからこちらへ歩いてくる人影に気付いた。
「人影1、正面・・・距離、約200!」
周囲に知らせてライフルを構え、安全装置を外す。
スコープを覗き込み、照準をつける。
スコープの中の人影は、大きなリュックを背負った男性だった。
その手には、時代劇でしか見たことがないような大型の木刀が握られている。
人間・・・だけど、避難所に害をもたらす類の者かもしれない。
今まで、威嚇射撃で追い払った何人もの人間のように。
そう思っていると、男性の背後の物陰からゾンビが飛び出した。
位置的に不意打ち・・・だが、こちらが助ける義理もない。
どこか冷めた思考でそう考えた瞬間、男性が動いた。
一瞬で重心を変え、背後に向き直りつつの下段払い。
足を払われたゾンビは、空中に取り残された。
その頭部に向かって、足を払った斬撃が吸い込まれるように入る。
アスファルトと木刀に頭部を挟み潰されたゾンビは、即座に無力化された。
・・・綺麗、だった。
あんなに綺麗な動きを見たのは初めてだった。
私は魅了されたように、食い入るようにその男性を見つめていた。
男性は、自分のしたことに何の気負いもない足取りでまたゆっくりとこちらへ進んできた。
「そこで止まりなさい!この避難所は満員で入れません!!」
男性・・・田中野さんは、ここにいる友人の母親を探しに来たのだと言いながら、おとなしく指示に従った。
武器を全部地面に置き、腹ばいになるその姿からは先ほどの迫力が微塵も感じられなくて。
私は、本当に久しぶりに少し笑ってしまった。
・・・見られて、なければいいのだけれど。
男性は叔父と少し会話した後、私とテントに入った。
詩谷市街の状況を聞くためだ。
田中野さんは知り合いの安否を、そして我々は情報を得る。
この状況下で、話の通じる・・・それも単独行動できるほどの民間人は貴重だ。
流石叔父、抜け目がない。
「こんにちは、私は神崎陸士長です。田中野さん、こちらへ」
「あっはい、ご丁寧にどうも」
ヘルメットを脱いだ田中野さんは、その長い前髪に隠れてよく見えなかったが。
とても、優しい目をしていた。
その後、キャベツを丸かじりし始めたのを見て笑いそうになってしまったのは内緒だ。
とってもおいしそうに食べるから、私も少しお腹が空いてしまったことも。
「うま・・・うま・・・」
子供のような顔でキャベツを齧る田中野さんを見て、少し、可愛いと思った。
「一朗太くん!一朗太くんなの!?」
テントへ入ってきた田中野さんの探し人は、坂下さんだったようだ。
どんな状況でも笑顔を絶やさなかった彼女が、今は目に涙を溜めている。
坂下さんには、かなりお世話になった。
部隊から1人離れた私を心配してくださり、なにかと声をかけてくれる。
高校生の娘さんがいる関係からか、年の近いであろう私が放っておけないそうだ。
・・・さすがに、女子高生と一緒にされるのは少し恥ずかしいけれど。
田中野さんたちが話込んでいる間に、叔父に呼ばれた。
テントからそう遠く離れていない場所で、叔父は私にだけ聞こえる程度の声量で話した。
「・・・二等陸曹、彼と行動を共にし、詩谷の友愛高校と接触しろ。この先、連携を取るために必要になる」
「・・・私が、でありますか?」
「適任だろう?その能力を、ここで埋没させるよりはな。・・・それに、あいつから離れたいんじゃないのか」
・・・う。
図星だ。
駐屯地からの途上で知り合った、年下の女性自衛官。
私は彼女がとても苦手だった。
いや、もはや嫌いの領域に片足を突っ込んでいる。
スキンシップが激しいし・・・それに、どうやら私に、その、恋慕の情を抱いているようだ。
私にはまったくその気はないと言ったにも関わらずだ。
忌まわしい高校時代を思い出してしまう。
「それは、あります」
「だろう?異性だろうと同性だろうと恋愛は好きにすればいいが・・・あれは流石に目に余る。お前も高校時代から大変だな」
「い、一等陸尉!」
「声が大きいぞ・・・というわけで、頼む。なぁに、彼なら足手まといにはならんだろう・・・それどころか、お前が足を引っ張ることになりかねん」
叔父らしくもない冗談かと思ったが、その目は真剣だった。
確かに、先程の動きを見れば田中野さんが何らかの武術の使い手・・・それもかなりの腕前なのは容易にわかるが。
「あの、ご存じなんですか?田中野さんのことを」
それ以上に、叔父の言葉からは・・・なんというか、信頼を感じられた。
「いや、知らない。知らないが・・・彼によく似た知り合いがいてな」
まるで恩師でも思い返すように、その目は細められていた。
・・・ここまで感情を露にするのは、珍しい。
その様子を見て、先程より一層田中野さんに興味を持った。
そういう理由で、私はしばし田中野さんと行動を共にすることになった。
いくらかの保存食が、彼の報酬らしい。
この状況下において庇護を求めるのではなく、食料とは・・・
中々に、変わった人のようだ。
坂下さんに見送られ、私たちは秋月総合病院を出発した。
そうそう、出がけに坂下さんが話しかけてきた。
「一朗太くんと一緒に行くの?まあまあ、それなら安心ね!」
「あの、彼はどのような方なのですか・・・?」
そう聞き返すと、坂下さんはにっこりと微笑んだ。
「いい子よ!とっても!あんな息子が欲しかったわ~。子供にもお年寄りにも優しいし、近所のことは率先して手伝ってくれるし、本当にいい子よ!」
彼は、随分と評判がいい。
坂下さんのお墨付きなら、問題はないだろう。
職業柄か、彼女の人を見る目は概ね正しいと感じている。
田中野さんの車まで向かう途中、ゾンビの襲撃があった。
「っしぃ!!」
彼は、何のためらいもなくゾンビの脳天を一撃で打ち砕いた。
ただただ、敵を排除する動き。
無駄を徹底的に排除した、機能美すら感じるその動きに。
私はまた、見とれてしまった。
自分に向かうゾンビに反応するのが一瞬、遅れてしまうほどに。
私をフォローしようと瞬時に振り返った田中野さん。
その目は先ほどの優しさからは程遠い・・・ひりつくような殺気に満ちていた。
・・・この人は、どういう人なんだろう。
彼の運転する車に揺られながら、私は考えていた。
こんな人は、初めてだ。
今まで、見たことがない。
どうしても好奇心が抑えられず、彼の流派が気になったので尋ねてみた。
なんと・・・なんと、あの南雲流だという。
それを聞いてどこか納得した気がした。
南雲流。
平安の昔から続くと言われる、歴史の闇に生きた武術。
有名ではないが、一流の使い手たちにはほぼ認知されている謎の流派。
その使い手たちは常に、弱者の側で戦ったという。
闇の中で、許せぬ理不尽に立ち向かう。
そんな人間が、多かったのだという。
『南雲流は強いよ、べらぼうに強い。技が・・・でも、力が・・・でもない。強いのは心だ』
・・・幼い時、何度も何度も祖父に話をせがんだことを思い出す。
今思えば、南雲流の話をする祖父が、とても楽しそうにしていたこともその理由の一つだろう。
うちの一族は、よくよく南雲流に縁がある。
そして、何よりあのとても強い叔父が完膚なきまでに負けたという武術。
・・・知りたい。
この人を、もっと知りたい。
まるでおとぎ話の登場人物を現実で見つけたように、私の胸は高鳴っていた。
「田中野さんは、その・・・普段通りなのですね」
「何がですか?」
「いえ、世界がこんなことになったのに・・・なんというか、自然体というか」
無人の畑からキャベツを回収し、とても嬉しそうな彼に聞いてみた。
眉一つ動かさずにゾンビを処理したかと思えば、道端のキャベツで大騒ぎをする。
一体どんな精神性なんだろう。
「うーん・・・元々その、ちょい前から無職でしたし。家族も海外に行ってて日本には俺一人ですし。守るものが自分の命くらいなもんで、気楽なのかもしれませんねえ」
返ってきた答えが、思いもよらぬものだったので。
私は間抜けな顔をしていただろう。
「そういう・・・ものですか」
「我ながらひどい答えですが、たぶんそんな感じです」
少し困ったように、苦笑いで答える田中野さん。
・・・私より年上だと思う彼は、時々少年のような顔をする。
それが、やっぱり可愛いと思った。
武術の話をできる男性なんて、今まで身近にはいなかった。
それが嬉しくて話し込んでいる間に・・・あっという間に詩谷に着いてしまった。
こんなに異性と楽しく話したのは・・・一体いつ以来だろう。
秋月での生活で、私の心も存外にすさんでいたらしい。
叔父に言われたということにして、彼の自宅を記憶したのは・・・内緒である。
この秘密は、それこそ墓まで持っていかねばならない。
もっともらしい話をでっち上げるのに苦労した。
これが、田中野さんとの出会い。
今思えば・・・この頃からすでに、彼のことが色々気になっていたんだろう。
あれから大分時間が経ったけれど、私はいまだに田中野さんという人間がわからない。
でも、わからないからこそ・・・惹かれるんだろう、こんなにも。
それでいいと、私は思うのだ。




