蝉男
暑い。それは夏だから。暑いのは当たり前かも知れない。いや、夏だから暑いとは限らない。
エアコンの風に吹かれて目を細める女が、すぐ隣に座っているのだ。もしも彼女が幻影や妖術の類いでないとすれば、涼しいことは正しいことになる。
暑い。しかしどうしても私は暑くて堪らない。こちらの視線に気がついた女の首が固定される。きっかり九十度だけ、首を回旋させている。やはり妖魔の仲間だったのか。
いつ紛れたのか、油蝉がつり革にとまっていた。鳴くのが仕事だろうに、丸く膨らんだ腹は微動だにしない。蝉よ、何のために土の中からこの世に送り出されたのだ。
「切符」
油蝉の羽は透けている。とても薄いのだ。なぜそんなにも頼りない翼に、命を預けることができるのか。イカロスでもあるまいし。そして暑い。
「切符」
たしかイカロスは太陽に近づきすぎて、
「お客さん、切符」
蝋で固めた羽を、
「お客さん!」
肩を揺すられた私は首に手を当てる。むち打ちに違いない。頸椎に電撃が走った。
鞄から取り出した紙の切符を、強引に奪われた。
隣の女は相変わらずこちらに首を曲げている。そのまま蛇のように伸びて、手摺にとぐろを巻いたなら、彼女はろくろ首。
いつの間にか切符は手中に収まっていた。それにしても暑い。
こんな日には良く冷えた飲み物が欲しくなる。蝉は喉が渇くことはあるのだろうか。いつも何を食べているんだろう。
というか、さっき私の切符に穴を開けたのは誰だ。お客さんと呼んでいたのは誰か。駅員だ。そうか駅員か。
制服を着けた駅員ほど暑そうなものはない。テーマパークの着ぐるみや、地方のゆるキャラ然り、彼らは嬉々として死の淵を歩むようなものだ。
私が社長だったなら、全員夏は裸で出社させる。それが一番人間らしい。うん、それがいい。
「そんなんだから」
ろくろ首が私の耳たぶにかじりつきながら呟く。
「そんなんだから、あんたは駄目なんだ」
「何が駄目だって?」
真横に座っていた女の姿はなく、代わりに女子高生が二人、互いの手鏡に夢中になっている。
「まだ分からないのかい」
頭上から降ってきた嗄れ声は、脂っぽい、蝉のものだ。そしてとんでもなく暑い。
「ああ、分からないよ、蝉の食べ物が分からない」
「まだ分からないんだね」
黒いビーズのような瞳を輝かせて、蝉はつり革で震えている。
「むむ」
髪の毛はくしゃくしゃに絡まっている、薄汚い作業着の男が、項垂れている。そうか、私は蝉だったのか。腹を擦ると音が鳴る。
昔、音楽室で遊んだギロという楽器が、下腹部で振動しているような感覚。
長くてひと月の命。残された時間をどう過ごすのか、それは私の勝手だろう。
軽く羽ばたかせる。女子高生二人がこちらを見上げている。
「うわー」
彼女らのうち一人が阿呆の面で口を開けている。
けたたましい鳴き声が車内にこだます。
「そんなんだから、あんた、まだ分からないのかい」
くしゃくしゃの髪の毛で顔が隠れているが、にょろりと伸びきった首は、ろくろ首のものだ。
首の出所を探ると、運転室の手前に続いている。
窓の隙間から、肌色の帯が、ゆらゆらと揺れている。
「きゃはは」
愉快そうにはしゃぎあう女子高生たち。太陽の光が手鏡に反射している。頭が暑くなってきた。いや、ずっと暑い。いや、熱い。
黒いビーズのような瞳に映る薄汚れた作業着の男。彼もまた濁った瞳に映る蝉の姿を捉えている。
作業着の男の肩には女の頭が乗っている。
一つ、二つどころではない。どの女も虚ろな表情をしている。睨まれたら石になってしまうのではないか。蝉は焦りのあまり腹腔の空気を振動させる。
「うわー」
再び女子高生が唸る。それは蝉に対してのものであるとか、そうでないとか、どうにも分からない。
「暑い」
頭に爪を立て、男は呟いた。手鏡に乱反射した光線が瞼を焼きつける。
黒焦げになった瞼に蝉がとまる。男の黒目が露になっているところに飛来したということ。
「そんなんだから」
耳を食いちぎろうと、ろくろ首が唇を這わせる。
「暑い」
「うわー」
頭をかきむしる男から身を引く女子高生たち。
蝉が鳴いている。
男も蝉もどろどろに融解していく。
「きゃはは」
はしゃいでいる女子高生たち。鏡に映る女子高生たち。煙が沸き上がる男の目や耳や口などの穴という穴。
黒い煙を車窓からたなびかせる。肌色の帯も続いていく。終わりのない暑さに、蝉の命は絶えない。
電車が中心から、上下に真っ二つに分かれる。
つり革のついた天井は、風に煽られ、舞い上がり、雲と混ざって融けた。
オープンカーは灼熱の太陽を浴びて、茹で蛸になったろくろ首は霧のように蒸発する。
かじられていた男の耳も霧散する。目も耳も失った男は、蝉の鳴き声が聞こえない。
残った口。
「暑い」
叫ぶことはできた。
「暑い」
呟くこともできた。
「暑い」
呻き続ける男の中の蝉は、燻っていたこれまでの日々。
これ分かる人いない