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夏のホラー2020

蝉男

 暑い。それは夏だから。暑いのは当たり前かも知れない。いや、夏だから暑いとは限らない。

 エアコンの風に吹かれて目を細める女が、すぐ隣に座っているのだ。もしも彼女が幻影や妖術の類いでないとすれば、涼しいことは正しいことになる。

 暑い。しかしどうしても私は暑くて堪らない。こちらの視線に気がついた女の首が固定される。きっかり九十度だけ、首を回旋させている。やはり妖魔の仲間だったのか。

 いつ紛れたのか、油蝉がつり革にとまっていた。鳴くのが仕事だろうに、丸く膨らんだ腹は微動だにしない。蝉よ、何のために土の中からこの世に送り出されたのだ。

「切符」

 油蝉の羽は透けている。とても薄いのだ。なぜそんなにも頼りない翼に、命を預けることができるのか。イカロスでもあるまいし。そして暑い。

「切符」

 たしかイカロスは太陽に近づきすぎて、

「お客さん、切符」

 蝋で固めた羽を、

「お客さん!」

 肩を揺すられた私は首に手を当てる。むち打ちに違いない。頸椎に電撃が走った。

 鞄から取り出した紙の切符を、強引に奪われた。

 隣の女は相変わらずこちらに首を曲げている。そのまま蛇のように伸びて、手摺にとぐろを巻いたなら、彼女はろくろ首。

 いつの間にか切符は手中に収まっていた。それにしても暑い。

 こんな日には良く冷えた飲み物が欲しくなる。蝉は喉が渇くことはあるのだろうか。いつも何を食べているんだろう。

 というか、さっき私の切符に穴を開けたのは誰だ。お客さんと呼んでいたのは誰か。駅員だ。そうか駅員か。

 制服を着けた駅員ほど暑そうなものはない。テーマパークの着ぐるみや、地方のゆるキャラ然り、彼らは嬉々として死の淵を歩むようなものだ。

 私が社長だったなら、全員夏は裸で出社させる。それが一番人間らしい。うん、それがいい。

「そんなんだから」

 ろくろ首が私の耳たぶにかじりつきながら呟く。

「そんなんだから、あんたは駄目なんだ」

「何が駄目だって?」

 真横に座っていた女の姿はなく、代わりに女子高生が二人、互いの手鏡に夢中になっている。

「まだ分からないのかい」

 頭上から降ってきた嗄れ声は、脂っぽい、蝉のものだ。そしてとんでもなく暑い。

「ああ、分からないよ、蝉の食べ物が分からない」

「まだ分からないんだね」

 黒いビーズのような瞳を輝かせて、蝉はつり革で震えている。

「むむ」

 髪の毛はくしゃくしゃに絡まっている、薄汚い作業着の男が、項垂れている。そうか、私は蝉だったのか。腹を擦ると音が鳴る。

 昔、音楽室で遊んだギロという楽器が、下腹部で振動しているような感覚。

 長くてひと月の命。残された時間をどう過ごすのか、それは私の勝手だろう。

 軽く羽ばたかせる。女子高生二人がこちらを見上げている。

「うわー」

 彼女らのうち一人が阿呆の面で口を開けている。

 けたたましい鳴き声が車内にこだます。

「そんなんだから、あんた、まだ分からないのかい」

 くしゃくしゃの髪の毛で顔が隠れているが、にょろりと伸びきった首は、ろくろ首のものだ。

 首の出所を探ると、運転室の手前に続いている。

 窓の隙間から、肌色の帯が、ゆらゆらと揺れている。

「きゃはは」

 愉快そうにはしゃぎあう女子高生たち。太陽の光が手鏡に反射している。頭が暑くなってきた。いや、ずっと暑い。いや、熱い。

 黒いビーズのような瞳に映る薄汚れた作業着の男。彼もまた濁った瞳に映る蝉の姿を捉えている。

 作業着の男の肩には女の頭が乗っている。

 一つ、二つどころではない。どの女も虚ろな表情をしている。睨まれたら石になってしまうのではないか。蝉は焦りのあまり腹腔の空気を振動させる。

「うわー」

 再び女子高生が唸る。それは蝉に対してのものであるとか、そうでないとか、どうにも分からない。

「暑い」

 頭に爪を立て、男は呟いた。手鏡に乱反射した光線が瞼を焼きつける。

 黒焦げになった瞼に蝉がとまる。男の黒目が露になっているところに飛来したということ。

「そんなんだから」

 耳を食いちぎろうと、ろくろ首が唇を這わせる。

「暑い」

「うわー」

 頭をかきむしる男から身を引く女子高生たち。

 蝉が鳴いている。

 男も蝉もどろどろに融解していく。

「きゃはは」

 はしゃいでいる女子高生たち。鏡に映る女子高生たち。煙が沸き上がる男の目や耳や口などの穴という穴。

 黒い煙を車窓からたなびかせる。肌色の帯も続いていく。終わりのない暑さに、蝉の命は絶えない。

 電車が中心から、上下に真っ二つに分かれる。

 つり革のついた天井は、風に煽られ、舞い上がり、雲と混ざって融けた。

 オープンカーは灼熱の太陽を浴びて、茹で蛸になったろくろ首は霧のように蒸発する。

 かじられていた男の耳も霧散する。目も耳も失った男は、蝉の鳴き声が聞こえない。

 残った口。

「暑い」

 叫ぶことはできた。

「暑い」

 呟くこともできた。

「暑い」

 呻き続ける男の中の蝉は、燻っていたこれまでの日々。


これ分かる人いない



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