2ー1:明治探偵と店主の昼下がり
時は明治後期の四月
その日の天気はとても良かったのを、今でも覚えている
「幸雪」
倉庫の整理をしていると、俺の雇い主が声をかけてきた
俺が働いているのは、彼が個人的に経営している小さな本屋さんだ
「どうしたんですか、桜彦さん」
「そろそろお昼だぞ」
「・・・もうそんな時間ですか。あっという間ですね」
俺の雇い主である彼「冬月桜彦」は懐中時計を俺に見せつつ時間を教えてくれる
・・・時計の針と文字盤が見えにくい
俺は時計に顔を近づけて時間を確認した
「幸雪、また視力悪くなったんじゃないのか?」
「そうですかね・・・?いつもと変わらないと思うのですが・・・」
「さっきだって、時計に近づかないと時間わからなかっただろ?前よりも近くなったと思う」
「・・・桜彦さんが言うのなら、そうなんでしょうね」
「最近は眼鏡もあるし、考えてみたらどうだ?足りないなら給料前払いするからさ」
「考えておきます」
「できれば、そこで「わかりました。買いに行きます」って返事はしてほしいけど。まあ、考えてくれるだけでも大きな進歩か。なるべく早めに行動しろよ?」
「はい」
「それと、今日も時間外までありがとうな。もう帰っていいぞ!今日は午前中だけだから」
「ありがとうございます」
雇い主直々に退勤の許可が出た
しかし桜彦さんの話にはまだまだ続きがありそうだ
「そして飯も奢ろう」
「いいんですか?何から何まで・・・」
「いいんだよ。たまには甘えとけ?」
「はい」
俺は桜彦さんに家の事情を話している
小さい頃に家族が死んだこと・・・弟と二人で生きないといけないこと
使い物にならないような年齢から、桜彦さんは俺の面倒見てくれている
雇い主として、という部分もあるだろうけど、一人の友人として
身分的には、俺なんかが桜彦さんの友達なんておこがましいとは思うが・・・彼が友人といってくれるのだ。だからそれ以上は何も言わない
そんな桜彦さんは、手が空いている時こうして「甘やかし」と称し、俺にご飯を食べさせてくれる
しかし、決まってそのは「何かある時」だ
「後始末は俺がやっておくから着替えてきな。終わったら入り口の札を休憩中に」
「はい」
桜彦さんの指示で俺は書店裏の休憩室に向かう
そこで素早く書店で用意された着物から、自前の袴に着替える
落ち着いた色の着物と袴は俺のお気に入りだ
鞄の中身を一通り確認して異常がないことを確かめる。何かを入れ忘れていることもないようだ
窓の鍵がかかっている事を確認し、俺は休憩室を出て、そのまま裏口へ向かう
そこの鍵を閉めてから小走りで表に回り、最後に店の入口前の札を「休憩中」にする
すべての仕事を終え、俺は桜彦さんが来るのを待ち始めた
「幸雪、待たせたか?」
待ち始めた瞬間に、表の入り口から息を切らした桜彦さんが出てくる
「いえ。ついさっきです」
「そうか」
「休みますか?」
「これぐらい平気だ。いつも通りだし」
桜彦さんは息をゆっくりと整えながら表の鍵を閉めて、歩き出す
彼は「後学のため」としてこの書店を営んでいるが、実際はこの帝都で最近有名な印刷を取り扱う「冬月印刷所」の若き所長という顔も持っている
とても忙しい人なのだ
こうして俺と食事をする・・・なんて時間は本来なら存在しない
「桜彦さんは」
「なんだ」
「どうして俺と昼食を摂ろうと思うんです?時間の無駄じゃないですか?」
「弟を養うために頑張るお兄ちゃんであるお前をほどほどに甘やかすためっていうのもあるけど、実際は俺の息抜きの方が大きいな」
「息抜き?」
「ああ。食事中に商談をしてもいいけどさ、飯の味に集中できないんだ。何食っても契約書と金の味がする」
「それは・・・嫌ですね」
「だろ!?飯の時ぐらいゆっくり、誰かと何気ない話をしていたいんだ。幸雪、俺の精神衛生の為にこれからも息抜きに付き合え。奢らせろ。一人の友達として俺に付き合え」
「了解です。御馳走になりますね」
「ああ」
桜彦さんは楽しそうに笑う
元々彼の家は大きな武家であり、華族でもある
裕福な家庭に生まれ、様々なものに恵まれて育った彼は・・・成人すると同時に冬月家から「縁切り」されたそうだ
どうやらそれが家の風習だそうで、冬月の子供たちは成人したらとんでもなく少ない金額の手切れ金と今まで着ていたものと比べると粗悪すぎる着物一着を与えられて家を追い出されるらしい
桜彦さんのように「賭け」に出て起業し、上手くやっている兄弟は珍しいそうだ
「ああ。これからもよろしくな、幸雪」
「こちらこそお願いしますね、桜彦さん」
「おうよ。ついでにこの前客から持ち込まれた「相談」聞いてくれるとありがたい」
「もちろんです。というか、それが本命でしょう?」
「バレたか。詳細は定食屋で話す。行こうぜ」
町を桜彦さんと並んで歩く
昼間だからか、凄く賑やかで人通りも多い
人にぶつからないように歩かないと
「桜彦さん、今日は何食べます?」
「日帰りおすすめ。幸雪は?」
「そうですね。同じのを―――――――――――」
「あ」
桜彦さんの問いに答えようとすると、太ももあたりに生暖かいものがついた感じがする
下を見るとそこには小さな少年が泣きそうな顔で立っていた
袴にはアンパンが付着している
その少年はつぶれたアンパンを、涙を浮かべながら茫然と眺めていた
「これは・・・」
生暖かいものの正体は、出来立てだったであろうアンパンだ
しかしここまでべったりついてしまえばなかなか落ちないであろう
お気に入りだったのだが、これは元通りというのは難しいかもしれない
それよりも、この少年にどう声をかけてあげるべきなのかわからない
怒りはないので、怒ることはないのだが・・・
突然のことで俺も状況を把握しきれていない
「正二?」
「にいちゃん・・・どうしよ」
そんな時だった
少年とよく似た「にいちゃん」と呼ばれた子供が駆け寄ってくる
実際の兄だろう。とてもよく似ている
正二と呼ばれた少年は、兄を見て安心したのか泣き始めてしまった
そんな兄は弟の様子と俺の袴を見て、すぐに状況を理解したようだった
「正二・・・まずはこの人に謝らないとだろ?」
「うん・・・ごめんなさい、お兄さん」
「弟が申し訳ありません」
「え、いや・・・俺も前を見ていなかったし・・・こちらこそ申し訳ない」
俺と幼い兄弟たちは互いに頭を下げあう
「洗わせてください」
「え・・・・」
洗ってもらえるのはありがたい話だ
けれど俺は今、桜彦さんと一緒だし・・・それに、着替えもない
どうしようかと考えている時、俺は桜彦さんを無意識に見ていたようで桜彦さんが助け舟を出してくれる
「俺が店から適当に着替え取ってきてやるよ。お言葉に甘えとけ?」
「え、でも・・・」
店の休憩中なのに、昼食もまだなのにと言おうとすると桜彦さんは俺の口に指を当てる
「これ以上は言うな」の合図だ
桜彦さんはそのまま兄弟たちに視線を向ける
弟の方はもちろんだが、兄の方も不安そうな顔をしていた
「そうだ店は今日休むことにしよう。これはきっと主の思し召しだろうな!」
「・・・すいません」
「何を謝ることがあるんだ?せっかくの休みというのに?幸雪は嬉しくないのか?」
「う、嬉しいです!」
兄弟たちの不安を少しでも消すために明るく振舞っているようだった
そんな彼の意思に反して、謝り続けるのは無粋だろう
「そうこないと、幸雪!そうだ・・・君、名前は?」
桜彦さんは弟の方を向いて問う
「ぼ、僕は正二です。お兄ちゃんは正太郎お兄ちゃん」
「正太郎と正二・・・ああ君、あの生花店の子たちか」
「はい。この通りを進んだ先にある「筧生花店」がうちのお店です」
「了解。俺は冬月桜彦。こっちは相良幸雪。しばらくこのお兄ちゃんの事を頼んだ。俺は着替えを取りに行くから、後でお店の方に行くよ。ご両親にも話をしておいてくれるか?」
「冬月桜彦さん、ですね。わかりました。店の前にいる父に、後で冬月さんが来られることを伝えておきます」
「よろしく頼む。それじゃあ幸雪。俺は店に戻る。しばらくその兄弟と遊んでろよ」
手を振りながら桜彦さんは小走りで元来た道を戻っていく
「・・・俺たちも行きましょう。お兄さん」
「あ、ああ」
兄・・・正太郎君、と言っただろうか
なかなかに手際のいい子供だなあと思いつつ、俺は彼に案内されて兄弟の家へと向かっていった