雨と桜
僕は雨が好きだ。ただし、自分が休みの日に限るけど。
遅く起きて、雨が降っていると、僕はしばらくベッドの中で雨音を聞く。まどろみの中で、雨の粒が、ベランダや、家の屋根々々や、道路や、木々なんかをうつ音に耳を澄ませる。
だんだん目がさえてくると、僕はのそのそとベッドから這い出て、キッチンにいく。そこで顔を洗って、お湯を沸かして、コーヒーをいれる。雨の日の朝は、たいていコーヒーの気がする。
スヌーピーのカップとともに、寝室に帰還する。今日は、窓辺で飲むことにした。いつもなら、僕はてきとうな本を選んで、気分でぱらぱらとページをめくりながら飲むけど(いつからか、パブロフの犬のように、ページをめくるだけでうれしくなる、変態ちっくな自分を発見した。本は、カフェインと同じで中毒性があるじゃないかな)でも今は、ちょうど、桜が僕の部屋から見えるから、そうしようと思いついたのだった。せっかく人間に生まれたのに、桜を楽しまないのは嘘だろう。
窓をあけると、冷たい風が入ってくる。思っていたより寒くて、身体がふるえる。そうして、空間いっぱいの、春の雨のにおいが、部屋に、僕の体内に、入ってくる。
雨のにおいは、土地ごとに違うと思う。僕は子供の頃から、住む場所が安定していなかったから、いろんな土地の。雨の匂いを感じて、生きてきた。
なんだか、小説を書くのにも似ている。と常々おもう。
小説は、現実を、書き手のフィルターを通して、また現実に還すものだとすると、(異論は認める)
それと同じで、雨は、その土地のぼんやりとした、こり固まって動けなくなった匂いを一度すいこんで、雨自身のにおいとともに、前よりももっと濃度を強め、色を変え、より鮮明に明快に、僕たちにその土地のことを教えてくれている。そんな感じがする。
今も、雨はふっている。冷たい風が運ぶ、たっぷりの雨と、コーヒーのにおいの調和。
それらは、僕のいる部屋を包み、外の世界、今僕が開けはなって、見ているはずの外の世界から、隔絶して、どこか遠い場所に、今だけ避難させてくれている。ような気さえする。
僕は雨をじっと見た。いつも一定のようで、違っている。雨は絶えず変わり続けている。この文章を書き始めた時と、今とでも、同じじゃない。雨粒の落ちる方向も違えば、強弱も違っていて、光の明暗から、うける印象もだいぶ違う。
そんな雨の中で、桜は、冷たい春の風にふるふる揺れていた。
(終わり)
ご清聴ありがとうございました。