>「我ながら、修行が足りないな」
自由自在にして活殺自在と
意志なく自動的に最適の判断を下して動く機械となる事は同義ではなく
人が機械に成る事は「自由自在」とは正反対のベクトルを持つという話なのでしょうねぇ
修行によって何を目指すのか?
殺しが正統な出世の手段だった時代にあっても
出世のためだけで何かを極められるわけもなく
最初に「意志」があるのが人の目指す「道の極め方」ですが
山水は
意志なくして剣の理合に拘った仙人の弟子となってしまったせいで剣に捉われ
人界に降りてすら「意志」を他者に委ねるという「楽」を選んだせいで
「最強」というものに捉われてしまったのでしょう。
「自主」を捨てては「自律」を持つ意味はなく
「自尊」を捨てては「自由」を目指す意味はなく
「自律」を捨てては「自由」は得られず
「自由」無くしては「自主」は得られず
己の在り方を選ばず「修行」とは何かという本質を見失えば道を違えてしまう。
例えるなら
「力」という「絶対値」を大きくしても
「意志」という「ベクトル」を持たねば
極めるべき「到達点」からは離れてしまう。
「最強」という二元論に捉われていては「線」の次元を超えられず
「生」という「平面」にすら辿り着けず
ただ生きるだけで
「意志」がなければ「人の在り方」という「空間」に辿り着けず
ただ概念を踏襲するのなら「時間」は動かない。
目指す次元が変るのなら
その目指し方である「修行」も変る。
だから
全てに拘らず全てを捨てず
道に捉われず道を誤らず極め続けねばならない。
禅問答ではないですが
「道思想」で「修行」とはそういう意味を持ち
単なる「方法論の追求」と「修行」を同じ意味と考えないのが
「究める」と「極める」という言葉の違いです。
とすれば
この狂戦士とのエピソードは
山水にとっての「修行」が「究める」ものから「極める」ものへと変るための切欠となるエピソードなのかもしれませんね




