>「議論は嫌いだ。必要ないだろ」
>「議論は嫌いだ。必要ないだろ」
この場面でのこのセリフは、「お人好し設定の転生主人公」の性格を表す台詞としては、少しズレた発言のようにも思えますね。
主人公は、日本からの転生者で、ニートとかボッチでもない平凡な少年ですから。
本来、共存原理で動くはずの民主主義社会では、「議論しようとする姿勢」というのは大事な事なので、議論を厭ったり、敬遠したり、嫌いと明言する事は、「話し合って譲り合う事」の前提となります。
もちろん、それで全てが解決するわけでもないし、揉め事が増えない保障もありませんが、そうしない事には「有形無形の暴力」や「裁判による討論と強制」という私的な争乱を呼ぶ以外にも、公的な「言論の自由の否定を望む風潮」を招いたり、「物事を多面的に見る習慣の否定による愚民主義の横行」を許す事になってしまいます。
つまり、議論が嫌いだと明言する事は、日本という場では「助け合いのための民主主義」を否定した言葉です。
どういう者達が、こういう言葉を口にするのか?
「争いあうのが普通と考える者」で、「権力や権威で他者を従える勝利を望む者」の言葉や、そういう権威主義者の利己的悪意を許したり、何も考えずに従ったりする者が、「傲慢や諦め」と共に口にするのが、こういう言葉です。
昨今の風潮として、そういう傾向があると聞きますし、感じる事もありますが、これは「無邪気な子供を地獄へと連れて行くハーメルンの笛吹き」のような、権威主義者の愚民政策で「‘ パンとサーカス ’ならぬ‘ グルメと娯楽 ’」に目を奪われ、「公的な人の繋がり」を大事にしなくなった若者が社会に出て社会を動かしているからなのでしょう。
バブル期に子供や若者だった無邪気な者達も、今では中年や壮年として社会を引っ張っています。
貧しかったけれど「公的な人の繋がり」があった日本も、「権力者に盲従し権威に扇動され起きた虐殺」も、「権威や権力の横暴に屈する悔しさ」も、「米国に服従して民主主義を弾圧した世襲政治屋の利権に対する恐怖」も、戦争を起こし多くの命を、「国のためという絵空事で奪った米国や大日本帝國や天皇に対する復讐より、万民の自由と平等と平和な未来を目指す事を選んだ選択」も。
そういう近代日本の過去を知らない者や、実感のない者が増えた事で、戦後が終わり、「ハーメルンの笛吹きが再び表れた戦前」が訪れたという事なのでしょう。
そういう時代でも、「身勝手な欲望を幸福と考えないのが、人間好きのお人好し」です。
権威や利権が騙る「脅威や国益や幸福」という絵空事や奇麗事を信じ、「身近でささやかな幸せ」を護るための「共存原理の理想」を否定した者達が口にするのが「こういうセリフ」だとするなら、、「お人好し設定の転生主人公」が口にすべき台詞ではない気がしますね。