呼吸
言葉に溺れていく。冷たくて、酷く暗い水の底だ。
私は何とかして沈むまいと、必死にもがいて足をばたつかせる。銀の泡は、そんな私を笑うかのように浮かび上がっていく。
そんな時は、酷く苦しくて堪らなくなる。
思えば子供の頃から、周りとうまく関係を構築することが苦手だった。冗談を本気に取り、ひとつひとつに悲しんで傷ついてしまう。そうしてそれをなかなか忘れることが出来ずに、時々思い出しては傷ついてしまう。
投げ付けられた酷い言葉も、優しい言葉も皆同様にひとつひとつ水底で広い集めては飾った。そうする度に、傷ついたのではなく本当は傷つきたいのではないかと思ってしまう。
冗談も、嘘も、傷つけられることも、傷つくことも嫌いだったから。言葉の痛みに呼吸が奪われないように、生きていくことに精一杯だった。
水の底はまだ、綺麗に青く澄んでいた。
少しだけ大人になって、言葉には本音と建前があることを知った。褒められたことが単純に嬉しくて喜べば、それは建前だと教えられた。
その人は、人はそんなこと本当は思っていないんだと呆れていた。
水はきっと、気付かないうちに濁っていく。濁った水の底は、酷く静かで、そしてどうしようもなく苦しかった。
少しだけ大人になって、大切に飾った言葉が信じられなくなった。どの言葉も「私」に向かって投げられた言葉ではないような気がして、酷く虚しくて。気が付けば私は、大切に飾った言葉をひとつひとつ壊していた。
嘘ばっかり。本当は陰口を言っている癖に。本当は、本当は、本当は────
傷ついた言葉も、嬉しかった言葉も、全て粉々に壊しては苦しいと呟いた。どうしようもなく苦しくて、どうしようもなく痛い。
もういっそのこと、どこかへ行ってしまおうか、なんて呟く。けれど、どこへいけば良いのかわからなくなって、結局はここで苦しいと他人を妬んで呪って生きているだけだ。
自分の醜さに気づくと、足元は突然不安定になる。積み重ねてきた努力は、全て文字通り水の泡に消えてゆく。それでも、私は結局どうしたら良いのかわからずに、足元が崩れていくのを、ただ待っていただけだった。
言葉に溺れていく。ここは、冷たくて酷く暗い水の底だ。
どこかへ行ってしまいたいのに、どこへもいけない水の底だ。
沈みたくないと、必死にもがいて足をばたつかせる。底にいるはずなのに、どこまでも深くて、終わりなんて見えなかった。
酷く呼吸が苦しくなって、この水の中に底なんて無かったことに気付く。沈んでいくことが怖くなって初めて、本当は伝えたかったことが沢山あったことに気が付いた。
好きとか、傷ついたとか、傷つけてごめんなさい、とか。あとからあとから言葉は溢れて、それでも水の中ではその言葉は銀の泡に変わるだけだ。
言葉は思っているだけでは伝わらないのに。傷ついたのなら傷ついたと、好きならば好きだと伝えなければ伝わらないのに。
恨んで、呪って、妬んで、嫌って、水の中にいることを望んだのは本当は自分だったのだ。
そんな簡単なことに、どうして気付けないでいたのだろう。
こんなちっぽけな私のことを、それでも好きだって言ってくれた人を、どうしようもないとため息を吐きながら、それでも笑ってくれた人を、どうして大切に出来なかったのだろう。
世界は本当はずっとずっと広いのに。どうして私を好きだって言ってくれた人の言葉を、信じることが出来なかったのだろう。
本当は、ずっとずっと伝えたかったことがあったのに。信じることが出来なくて、上手に言葉を伝えることが出来なくて、いつだっていなくなってしまってから後悔をするんだ。
苦しい、と、小さく呟いた。一際大きな銀の泡が、透明な水の中に浮かんで消えた。
どうしようもなく苦しくて、それでももう一度浮かび上がる気力もなくて。私はゆっくりと目を閉じる。
────けれど、
誰かに思い切り腕をひかれて、水の中の景色が急速に動いた。彼か彼女かもわからない、けれど力強くて優しい手。
教えてよ、と私の手をひく「誰か」が呟いたような気がした。やっとのことで浮かび上がった水の上は光が遮られて、その人がどんな顔をしているのかはわからない。
なのに、どうしてか泣いているような気がした。泣き出しそうな声と、冷えきった私の腕を掴む温かい手が震えていた。
────君のことを教えてよ
泣き出しそうなその声が、ゆっくりと言葉を吐き出す。触れたことのないその言葉は、苦しくなるくらい優しかった。
飛び出そうとした言葉は、躊躇うように喉の奥で塊となって呼吸を塞ぐ。傷つけることも、傷つけられることも、そしてまた呆れられて去られる姿も見たくなくて、それでも、苦しくなるくらいに震えるこの温かな感情を伝えたくて。
少しずつゆっくりと、私も言葉を吐き出す。傷つけたらすぐに水の中へと沈めるように。すぐに言葉を止められるように。
躊躇いながら吐き出した言葉は、ぐちゃぐちゃで言葉の意味をなさないような、目もあてられない酷い言葉だった。傷つけたこと、傷ついたこと、悲しかったこと、嬉しかったこと。自分の気持ちだけで作られた言葉は、偏見と思い込みに溢れていて。だけど今までで一番、私に優しい言葉だった。
そんなつまらない私の言葉を少しずつ、まるで飲み込むようにその人は頷いて聞いていた。否定も肯定もせず、ただ黙って。
全部話終わってから、ごめんなさいと呟けば、その人は心底不思議そうに、どうして、と返す。
────思っていることを全て言葉にするのは問題だけど、言葉も価値観も、そこに乗せられた感情もひとりひとりが違うのに、どうして間違っているとか正しいとかがわかるんだい。その言葉に救われた人を、どうしていなかったことにするのかな
言葉の中に溺れていく。溺れていたのはきっと、わからなくなってしまったから。
どうしたら人を傷付けずに、上手に話すことが出来るのか。どうしたら上手く自分の言葉を伝えることが出来るのか、わからなくなってしまったから。
立ち止まって、考えて、考えて、考えているうちに、沢山の言葉の中に沈んでしまって。そうしてそのまま、伝えることが怖くなって、傷つけることが怖くて、言葉を話すことが怖くなった。
心が呼吸を止めてしまえば、もう二度と言葉が息をすることもないと思った。言葉が息をしなければ、もう二度と誰も傷つけることがないと思った。
────でも、本当にそれは正しかったのかな
心の底から紡いでくれた言葉に、当たり障りのない言葉を投げ付けることは正しかったのかな。自分を否定した言葉に、それ以上の酷い言葉を投げ付けることは、本当に間違ってなかったのかな。
言ったってどうせわからないと、傷つけないように、傷つかないようにきちんと人に向かい合わなかったことは、本当は酷く人を傷つけていたんじゃないのかな。
言葉は本当は、誰かと向かい合うためにあったのかな。
悲しくて申し訳なくて、けれど堪らなく嬉しくて。ああきっと、言葉はこのためにあったんだね。
伝えたくてどうしようもなかったのに、もうずっとずっと伝えていなかった優しくて温かい言葉。単純な言葉なのに、何故だか気恥ずかしくて上手く伝えられなかった言葉。
恨んで、呪って、妬んで、嫌って。だけど、時々少しだけ口にした、憎みきれなかった優しい言葉を目の前の人に宛てて贈る。
「ありがとう」
吐き出した瞬間、少しだけ呼吸が楽になって。あとからあとから、伝えたかった言葉は溢れて。
どういたしまして、なんてあなたが笑うことが、堪らなく嬉しくて。
ねぇきっと、私は間違っていたけれど。でも、全部が間違っていた訳ではなかったんだね。
言葉に溺れて、人を憎んで、嫌って妬んだあの時間は、きっと人からみればあまり褒められた時間ではないのだろうけれど。それでもきっと、私と私の言葉にとって、何よりも優しい大切な時間だったんだ。
私の腕を掴んでいた手が、私の手を優しく握った。私はその人がいる縁に手をかけて、ゆっくりと水の中から出る。
初めまして、なんてあなたが笑うから。つられて私も笑ってしまった。
ねぇきっと、私はいつかあなたのことを傷つけてしまう日が来るだろう。あなたに何がわかると、何も知らないくせにと、酷い言葉を投げつけてしまう日が来るだろう。
だけどきっと、あなたもいつか私に酷い言葉を投げつけてしまう日が来る。お前なんて嫌いだって、面倒臭いって、そう言ってこの手を払ってしまう日が来るだろう。
言葉の中はあまりにも深すぎるから。お互いに苦しくなって、寂しくなって、どうして自分だけが辛いんだってそう言ってお互いを怒鳴ってしまう日が来るだろう。
自分勝手に他人を傷つけることは間違っていると思うけれど。だけど、こんな風にお互いの言葉を受け止められる日が来るならば、もしかしたらそれも間違っていないのかもしれないね。
大きく息を吸い込む。肺は膨らみ、奥深くでぴりりと微かな痛みを生み出す。
吐き出した呼吸にのせるように私は言葉を吐き出す。一瞬だけ驚いたような顔をしてから、嬉しいとあなたが笑って。それを見て、どうしようもなく嬉しくて。
言葉は完璧じゃないから。時々誤解を生んだり、どうしようもなく人を傷つけて、悲しませてしまう。
だけどきっと、生まれてくる言葉が全て傷つけるものではないことを、私はあなたに教わったんだ。
助けてくれてありがとう。笑ってくれてありがとう。否定も肯定も馬鹿にもせず、最後まで話を聞いてくれてありがとう。
私を救ってくれた、あなたの言葉を生み出してくれてありがとう。
恨んで、嫌って、呪って言葉に溺れた日々を、それでも無駄ではなかったと思わせてくれてありがとう。
────私の言葉を聞いてくれた人が、受け止めてくれた人があなたで、本当に良かった