保健室で10秒、僕は魔法をかけられた。
たこすさま、ブーバンさま、山之上舞花さまに捧ぐ。
三月最後の日を迎えた僕は、三月一日を最後に来ていなかった高校の正門に足を踏み入れた。
騒がしい声の無い校舎は、僕を知らない人として迎える様に佇んでいた。
卒業したからかな、と思いながら癖で三年の下駄箱に行って、はっきりと外部の人間、というのを目の当たりにして、少しだけショックを受ける。
所定の位置に名前が無かった。
当たり前だ。
卒業したんだ。
卒業式の時は何も思わなかったのに、この瞬間に寂しさを感じるだなんてどうかしている。
僕は軽く頭を振って寂寥感を振り落とすと、そんな事よりも大事な事があって僕は来たんだ、と心を落ち着かせて、来客用のスリッパを履き、通い慣れた廊下を歩いた。
****
「あら、平井くん、こんにちは。どうしたの?」
僕がガラリと保健室のドアを開けて内に入り、何も言わずに片手で閉めると、白いカーテンがかかった窓際の席で書き物をしていた先生は、こちらを見る事もなく言った。
その様子は卒業するまで変わらなかった。他の生徒が入ってくる時は顔を上げてにこやかに笑うのに、僕の時はいつも、何かをしながら、声だけで迎えるんだ。
僕は黙って机に近づくと、さっと白衣から伸びた指先にあるボールペンを獲った。
「平井くん」
叱るような目でこちらを見る先生の目元は、珍しく綺麗なアイラインが惹かれていてドキッとした。
普段はほぼすっぴんで無造作に髪の毛を一つにまとめているのに、今日は心なしかほつれもなくまとまっている。
僕は、僕との年齢差を目の当たりに見せつけられたように感じて、ぎゅっと奪ったボールペンを握った。
「先生、好きだ」
ずっと言えなかった言葉を言った。
何度言いたくても言えなかった言葉を。
先生は黙ったままこちらを見ていたが、僕がその後、何も言わずに黙っているのを見ると、少しだけ息を吐いて目を伏せた。
「だめじゃない……そんな事言ったら」
「卒業したから」
「それは、そうでしょうけれど」
苦笑しながら言う先生は、大人だ。
僕の言葉なんて、これっぽっちも届いている気がしない。
それでも、言わなきゃ進められなかった。
不登校気味になった僕が大学まで進学出来たのも、先生がゆっくりと僕の話を聞いてくれて、無理にクラスへ入れる事もなく、ずっとここに居させてくれたからだ。
僕だけをみてくれる先生に恋に落ちるのは、偶然でもなく必然だった。
たまに体調不良で来る生徒に先生が応対しているだけで、嫉妬してしまうのも必然。
不機嫌になる僕を見て、最初は笑っていた先生は、いつしか苦笑するようになった。
そして、仕方ないでしょう? と最後は黙って微笑む。
そして今も、ただ黙って微笑んでいる。
「先生は?」
僕は苛立ちを抑えきれずに聞いた。
好きだと言って欲しい。
でも、たぶん言ってはくれない。
好きかも分からない。
僕の気持ちはたぶんばれているけれど。
もういっそこのまま振って欲しい。
……本当は嫌だ……
ドラマみたいに詰め寄る事も出来ないで、机を挟んでただ突っ立ってるだけの臆病な僕を見て、先生は微笑んだまま、カラッと事務椅子を鳴らして立ち上がると右手を広げた。
「ボールペン、返して。大事なボールペンなの」
「……」
ああ、ダメか。
はぐらかされて終了。
僕の生涯で初めての告白は、ここで終わった。
そう諦めて、握りしめていたボールペンを渡そうとした、その時。
先生の手が、ぐっと僕の左手をひっぱった。
あっ、と体勢を崩して、右手で机に手をつき踏ん張ると、至近距離に先生の、目が、煌めいていた。
「私の気持ち?」
薄茶色の虹彩がゆっくりと笑う。
あまりに綺麗で、思わず見惚れていると、知ってるでしょ? と囁かれた。
「え?」
聞き取れなくて、思わず呟くと、むっとしたようにその虹彩は色を無くして細まった。
「焦らすだなんて高等技術、どこで覚えてきたの?」
その冷ややかな目線にぶるぶるっと小刻みに横に首を振って否定すると、先生はきゅっと唇を結んだ。
「本気なら10秒キスして離れる事。遊びなら、……まぁ、遊びで言わないよね、平井くんは」
そう言ってくすっと笑った。
そんな風にくすっと笑った先生を見たのは初めてだった。
「じ、10秒、お願いします」
「お願いするんじゃなくて、あなたがするの」
出来る? とでも言うような瞳は、またキラリと輝いて見える。
その目が、すっと瞑った。
僕は途端に、耳の裏まで心臓がせり上がってきたのかってぐらい、ガンガンと鼓動が跳ね上がった。
何度も生唾を飲んで、震える手で、先生の頬を触ると、先生の目元が、ぴくりと震えた。
無我夢中で唇に触れたら、少し冷たくて、ふわりと柔らかかった。
数なんか数えられなくて、ずっとそのままでいたら、先生にそっと肩を押された。
はっとして離れると、先生はうつむいて、そして、こほん、と口元を拳で隠すと、ちらっとこちらを上目遣いに見た。
「した、ね」
「は、いっ」
思わず返事をした声は裏返ってしまった。
踊り狂う祭り囃子のように鳴り響く鼓動と共に先生を見ると、実は、と先生は言った。
「今日、ね、平井くんが来なかったら、私も諦めようと思っていたのね。やっぱり、ね、いけない事だから」
いけないこと、と言った先生の声は、甘い響きだった。
いつも聞いてる穏やかだったり、キリッと締まった声じゃなくて、吐息が溢れ出るような柔らかな声に、息が締め付けられるように苦しくなる。
先生なのに、大人なのに。
キスしたら甘く可愛くなるって、ちょっと最強すぎて……僕は、僕はどうしたらいいんだ……!
とにかくもう、これ以上触れたくなる衝動を抑えようと、僕は必死で言葉を探した。
「先生、僕、さ、知ってると思うけど、受かったの地方だし、遠距離、だけど」
「ええ、わかってる。近くない方がかえって都合がよくて良かったわ。二人で歩いてても何も言われないし」
都合がよかった、という言葉に進路の候補先に地方が多かったのを思い出した。
「せんせ、まさか……」
「見損なわないで、そんな理由で勧めはしない」
あっという間に、先生の声がいつもの声音になって柳眉が上がったので、僕は失敗した。すみません、と言おうとすると、でも、と先生はふいっと横を向いた。
「初詣の願掛けには、あなたが地方に受かるようにお願いをしました。ごめんなさい」
ごめんなさいって、先生が言うのは、なかなか無い。
それを横を向いたまま言うんだ。
どうして可愛くみえるんだろう。
僕の目はどうにかなってしまった。
まるで魔法を、かけられたみたいに。
「平井くん、手を出して」
僕は言われるがまま、左手を出すと、先生はあのボールペンでぼくの手のひらに番号を書いた。そのゆっくりとなぞられる感触のくすぐったさに、身体が揺れそうになるのをひたすら我慢する。
「十時以降に電話して、今日は最終日だからそれより前には帰れないから」
嘘みたいにすんなりと貰えた番号をまじまじと見て、僕は、ホントに? と言う言葉を飲み込んだ。
先生は本気なら、と言った。
先生も本気なんだ。
本気。
うあぁ……!
そう思ったら、現実が一気に押し寄せて来て、僕は嬉しくて心がぐぐっとせり上がった。
「せ、先生っ」
「ストップ、平井くん。これ以上迫るとさすがに私も困るから。保健室は具合の悪い人を見る場所です」
「先生……」
「先生じゃない私をあげるから、先生の時にもう来ちゃだめよ?」
「っ……はい」
じゃあそういう事で、お願いね。そう言うと、先生はまた椅子に座って書き物の続きを始めた。
先生じゃない先生って、どんなセンセイなんだろう。
それよりも何よりも。
先生なのに、最後の最後で煽るのは……反則だと思う、先生。
そう思ってうつむいて書いている先生のうなじを物欲しそうに見ていたら、もう、さっき言ったの聞いてなかったの? とうつむいたまま冷ややかな声で言われたので、僕は、うあ、はい、また連絡しますっ、とだけ言って慌てて出てきた。
ガラリと閉めたドアに寄りかかって、左手を見る。
少し斜めになった番号は、数字が反対側から書かれていて読みづらかった。でも、そんな些細な事なんて関係ない。
唇に残る感触と、先生のうなじと左手の番号に、僕は飛び上がりそうな気持ちを抑えて廊下を歩いた。
名前の無い下駄箱は、行きと違って昇降口からの光を受けて明るく日が差していて、僕はがっと勢いをつけて下駄箱の靴を履くと、誰もいない運動場を思いっきり走って横切った。
僕の足は魔法がかかったみたいに、史上最速を記録して校門までたどり着いた。
その日の夜、手に汗を掻きながらかけた電話で、恋人に、走ってたね、と笑いながら言われて、顔から火が出るほど恥ずかしくて、ま、まあね、ととぼけて言ったのは、内緒の話だ。
いつも聞く声が電話越しでも甘かったのは、それこそ誰にも教えたく無い、僕史上最大の秘密事項になった。
fin
イチャコラが読みたくて、活動報告にて
だれかー! イチャコラを書いてくれー!
と叫んだら、ブーバンさまと山之上舞花さまがさささっと書いて下さいました。
ありがとうございます!(感涙!)
さらにたこすさまが、私が書いたらイチャコラ書くよ! と言って下さったので、人参につられて書いてしまいました。
これがイチャコラに値するか謎ですが、連休明けの皆さまも、連休って、ナニヨ、の皆さまも、ちょっとだけ幸せになって頂けたら幸いです。
今日という日が良い日になりますように。
****
しまったしまった、こちらをお伝えするのを失念しておりました。
着想はこちらから!
たこすさまの活動報告でのお題より
『異性から言われてキュンとくるセリフ』
「え? 好き? ……だめじゃない、こんな所で言っちゃ。もう卒業したからいいって? それは……そうでしょうけど。私の気持ち? ……もう、知ってるでしょ?」
b y 夕暮れの保健室
たこすさま、その節でもありがとうございました!