表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見えざる蒐集家  作者: 井出有紀
4/5

5、6

5.


 一万、と打ち切るように言うと、チュラロークは妬みと疑惑の入り混じった視線を剣士に向けた。

「本当にあんたは何ともないのか」

 狩人が不審がるのも無理はない。彼自身あれから二度も狂いかけ必死で正気を取り戻しているというのに、この痩せた若者には一向に自分と同じ兆候が現れないのだ。

「多少目が疲れているが」

 剣士は一つしかない隻眼を瞬かせた。灰色一色の、変わり映えしない景色ばかり見ているためだろうか。

「それ位ならマシだ。俺なんか、この忌々しい通路を見てるだけで、頭は痛くなるし気もおかしくなりかけるし、といっても他に見るもんもない……右目はどうしたんだ?」

「失くした」

「それは分かるが」

 抉り出されたと剣士が補足すると、チュラロークは一瞬黙り込んだ。

「……それ以上は聞かんことにする。それより」

 男の顔に、以前とは比べ物にならない強い恐れが滲み出る。

「なんで奴らが襲って来ないのか、今しがたというか、さっきまた狂いかけただろう、あの時に分かったような気がする」

 剣士は首を傾げた。

「どうしてすぐに言わない」

 責めているのではない。純粋に尋ねている。チュラロークは己が正気を失いつつあるのだ、不安と恐怖を意識の外へ少しでも追い出したいなら、他者と会話して気を紛らわせるしかない。

 灰色の目が不信も露わに翠の隻眼を見返す。

「話しても信じやしない」

「聞いてみなければ、それは分からん」

 どちらにしろ他に喋ることもない、と剣士は付け加える。

 どう言ったものか迷っているようだったが、連れが無言で続きを促すと、チュラロークは口を開いた。

「そういうことになっているらしい」

 少し考えてから、再び喋り出す。

「なんでかは知らんが、またさっき狂いそうになったとき、絶対に一対一で殺し合わなけりゃならんって気がした。勝ち負けとか不利とか、そういう問題じゃない。それ以外の道が残されていないんだ。だから連中も固まらない。集まったら見境なく殺し合うからじゃなくて、一人でやらなきゃならんと信じ込んでるからだ。奴らは殺しを楽しんでいるんじゃない。殺すしかないから、闘っているんだ」

「相手に殺されるからか」

「違う」

 ぶるりと男は身震いをした。

「分からん。分からんが、やり合う相手っていうんじゃない。殺し合わない奴らは、ここじゃ用無しなんだ。いても仕方がない。だから捨てられる。足元にぽっかりと穴が開く。何もない穴だ。明るくも暗くもない。そこへ放り込まれたら、生きていられない」

 恐怖に満ちた目が剣士を見上げた。胸倉を掴んで詰め寄る。

「殺し合うしかないんだよ」

「私たちはまだ狂っていない」

 灰色の瞳が驚愕に見開かれる。

「放り込まれたいのか」

 まるで剣士が穴そのものであるかのように、チュラロークは痩躯から飛び退いた。

「どこでも床が開く訳ではあるまい。この下はどうなっているのだ」

「この分からず屋」

 じりじりと後ずさりながらチュラロークは悲鳴をあげた。

「下なんか関係ないんだ。床が開くんじゃない。穴が開くんだ。寄るな」

 男は鉈を構える。近付こうとする剣士を牽制した。

「降ろせ」

 右手を空にしたまま、静かに剣士が呼びかける。ここで自分も剣を抜いては、思う壺である。

 直後、剣士の脳裏に大きな疑問が浮かんだ。

 誰の?

 決まっている。彼らをここへ連れて来た何ものかだ。

「嫌だ。おまえは狂ってる」

 チュラロークが大きく首を振る。この男ではない。怯えるあまり取り乱している、目の前のこの男である筈がない。

「狂ってるんだ」

 狩人は繰り返した。

「このままだと二人共、穴に放り込まれて終わりだ。生きてられない。首をちょん切られるのとは訳が違う。死ねるとも限らん。ここでやり合えば、少なくとも一人は帰れるじゃないか。俺は帰りたい。ガキ共はまだ小さいんだ。女房一人でどうやって四人も育てりゃいい?」

「チュラローク、落ち着け」

「俺は落ち着いてる!」

 男は絶叫して剣士に襲いかかった。

 剣士はまだ抜かない。狩人の鉈ではなく手首を受け止め、捻り上げる。

 二人の頭上にかざされた分厚い刃が落下する。鉈は剣士の腕を掠め、浅く切り裂き、固い音をたてて石の床に跳ね返った。

 見られている。

 腕の傷に意識は向かない。

 無駄だと半分悟っていながらも、剣士は上方を振り仰がずにはいられなかった。果たして床とそっくり同じ造りの天井が続いている。それ以外には何もない。どこか一点から見られているのではない。上方一面から視線が振って来るような感覚なのだ。それも複数ではないので、もし相手が目を持っているのなら、その目玉は空全体を占めるほど大きなものでなくてはならない。あり得ないことだが、己の感覚を信じるならば、剣士にはそうとしか思えなかった。

 ずん、と全身に衝撃が走る。

 剣士にぶつかったチュラロークが、よろよろと後ずさる。両手に構えられたナイフの刃が赤い。

 腹部に持っていった手を、剣士は見下ろした。

 同じ色に濡れそぼっている。

 膝をついた隻眼の男に狩人が切りかかる。

 長い刀身がナイフを受け止めた。長剣を持っているのは剣士の右手、左手は依然として腹の傷を押さえたままである。

「ほら見ろ」

 剥き出した歯の間から呻きが押し出される。剣を抜いた剣士を見る目は、狂った確信に満ちていた。

「本当はおまえも闘いたいんだろう? だが、もう遅いぞ。おまえ、死ぬしかないんだ」

 チュラロークの言葉は誤っている。剣士の長剣は相変わらず鈍い鉛色にくすんでいる。闘ってはいけないという思いが、この期に及んでも剣士の心を支配していた。

 立ち上がれない。隻眼の男は跪いたまま右手一本で剣を操り、襲いかかるチュラロークのナイフをも弾き飛ばす。重傷を負っているとは思えない芸当に、狩人は悲鳴をあげた。

「どうして死なない!」

 足をもつれさせて床の短剣に飛びつく。剣士は追わない。追えない。ただの刺し傷ではない。狩人の刃物は、引き抜かれる前に剣士の腹を抉り、切り裂いていた。一緒になって走り出そうものなら鮮血だけではない、大きく開いた口から内臓までこぼれ出す。

 チュラロークは拾ったナイフを構え直し、あの光を帯びた目で片目の男を睨んだ。睨んでいるのだが、焦点が合っていない。

 剣士は否が応にも認めざるを得なかった。

 何度も抵抗され退けられたと思われた狂気は、狩人の中に留まり密かに増殖を続けていたのだ。

「おまえ、助からない、死ぬしかない。だったら俺を助けろ。帰るのは俺。俺だ。おまえは用無しだ。その剣、捨てろ。このままじゃ、二人共、終わりだ」

「チュラローク……」

 剣士が、出血のため血の気の失せた顔でなおも呼びかける。

「うるさい」

 狩人は耳も貸さずにナイフを振り上げた。

 受け止める余力も、素早く逃げるだけの体力も残っていない。

 反撃というより、長年鍛錬を重ねた上での反射でしかなかった。

 剣士は鉛色の刃を閃かせた。ナイフが振り下ろされる前に、男の身体を斜めに斬り上げる。

 長い刀身は狩人の上半身を両断こそしなかったものの、寸分の狂いもなく心臓を機能停止に陥らせた。

 上着を朱に染め、チュラロークも両膝をつく。信じられないと言いたげな面持ちは、すぐに恐慌に支配された。

「早く殺してくれ」

 極度の恐怖に駆られてだろう、口から泡を吹き、涙と鼻水まで垂れ流して彼は、早く、と剣士に懇願した。前のめりに顔面から倒れる。どこかが砕ける鈍い音がした。

「穴だけは嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。放り込まれる前に死ぬ」

 独り言は長く続かなかった。うつ伏せになった男の下に新たな血溜まりが広がる。舌を噛み切ったに違いない。

 剣士はその様子を黙って見ていたが、連れの死を看取ると、剣に縋りつくようにして立ち上がり、歩き始めた。

 チュラロークの言った穴は、現れない。

 よろめいているのか歩いているのか、自分でも判然としない。血の帯を床に描きながら、剣士はのろのろと進んだ。

 左手の指に、ぬめりとした温かいものが触れる。動く度に零れ落ちようとする臓物を、彼は腹の中へ押し戻す。

 激痛もさることながら、体温が急激に低下しているのが分かる。寒い。既に半分近くの血液が身体から失われている。立っていられるのが奇跡だと言わざるを得ない。

 剣奴については剣士も聞いたことがある。娯楽のために競技場で闘わされる奴隷である。敗者を待つのは死しかない。勝ち続けることでしか、生き残れないのである。

 剣士もチュラロークも迷い込んだのではない、攫われたのだ。ただし、誘拐したのは人間ではないだろう。この低い天井を透かして上から見ている何かだ。

 視界がすっと暗くなる。剣士は再びその場に崩れ落ちた。チュラロークの言った通りである。

 死ぬしかないようだった。




6.


 魔法使いの詠唱を轟音がかき消した。

 同時に熱のない光の筋が黒い空を切り裂き落ち、目の前の建物に直撃する。

 至近距離の落雷にエウロペが頭を抱え込んだ。魔法使いは、己が唱える詩と肌で感じる精の動きに全ての意識を集中させている。

 雷音にかき消された詠唱は途絶えていなかった。瞬きすらせずに詩を詠み続ける魔法使いは、招雷の詩を火炎系のものへ切り替え、火精の活性化を促していた。

 開け放した窓から火炎が吹き出し、壁を這い上がっていく。木造の一軒家は程なくして巨大な炎の塊と化した。

「……死にたくなかったら出ろって、こういうことなの」

 ようようエウロペが口を開く。魔法使いを見る目に怖れの色が濃い。三つ目よりも自然を任意に操ることの方が、彼女にとっては脅威らしい。

「どうして火事を?」

「この世界は火が嫌いらしいんでな。盛大に燃やしてやった」

 火は不安定な元素である。非常に位相の安定した土と異なり、消えやすい代わりに出現もさせ易い。火精がないために火炎魔術を発動させられないのなら、火そのものを造れば良いのである。ただし火精が漂っていないため、火打石といった通常の方法では容易に火を熾すことはできない。この辺り、鶏が先か卵が先かといった関係である。

 火精がない以上、精霊魔術によって火を生み出すのは不可能である。物理手段によるしかないが、ある程度大規模な現象を起こす必要がある。人一人の物理的な力には限りがある以上、やはり魔術を使用するしかない。

 魔法使いにとっては、手近にある燃えやすい物に稲妻を落とすのが最も手っ取り早い方法だった。彼は総合的な手腕から見れば魔術師とは呼べない「魔法使い」でしかないが、殺傷能力の高い魔術に限って言えば、一流の魔術師の水準に到達している。そのような者が、精霊の中でも特に攻撃的な雷系の魔術を得意としていても何ら不思議ではない。

 見ろ、と魔法使いが顎で指し示す。巨大な炎の隙間から覗いているのは、黒い夜ではない。以前魔法使いが宿の扉を開けたときに遭遇した、あの空間である。が、火の中に開いたそれは、すぐに消えなかった。炎に舐められた空間が溶けるように、じわじわと広がりつつある。ふん、と満足そうに三つ目の青年は頷いた。

「やっぱりな。焼かれるとするには修復できねえんだろ」

 焼け跡に大きな穴ができる。そこから出ればいいと言う魔法使いの言葉に、エウロペは怯えて後ずさった。

「何もないじゃないの!」

 叫ぶが、目はじわじわと広がる空間に吸い寄せられている。好奇心ではない。恐怖で視線が外せない。悪寒で全身の産毛が逆立っているだろう。

 勢いを得た火炎は、魔法使いの詠唱にも促され凄まじい勢いで木造の建物を焼き尽くした。ただし元来ある筈のない要素であるためか、それともこの世界がが火を忌み嫌っているためか。燃やす物がなくなった途端、火は跡形もなく眼前から消失した。

 魔法使いが女の腕を取り、三次元の染みに向かって躊躇いもなく歩を進める。

「いやよ!」

 エウロペが魔法使いの手を払いのけた。

「あんた気が狂ってるわよ。あんな所へ行くなんて」

「うるせえ」

 三つ目の青年は耳を貸さない。再び彼女の腕を、今度は痣ができる程強く掴むと抵抗されるのも構わず力任せに引っ張った。女の身体が引き摺られる。

「ここから出たいんだろうが」

 彼は理解していた。これは厳密な意味での虚無ではない。何ものも存在しないのならば、空間すら存在しない筈である。真実の無は、存在する者には知覚も接触も叶わないに違いない。

 理性がこう主張しても、生あるものの本能はそれを否定する。魔法使いも例外ではない。彼にとっては、そのためのエウロペである。ここを潜って無事でいられるかどうか、先に彼女を放り込んで様子を見ようという訳だった。

 虚無との境界線で足を止める。ほとんど断末魔の叫びをあげて自分にしがみつく女を、魔法使いは無慈悲に両手で引き剥がし、そのまま何もない空間へ蹴り飛ばした。

 一瞬である。叫び声と共に、女は偽りの無へ飲み込まれた。遠ざかるというのではない。最初に右肩が、それから頭、胴、脚、こちらへ伸ばした腕、最後に長い金髪がなびいて消えた。

 壁を突き抜けて行くかのような消滅に、魔法使いは幾分安堵を覚えた。少なくとも、虚無の向こう側にあるどこかには辿り着けるらしい。エウロペに続いて彼も境界線を越えた。

「何故です」

 深い失望の声が面を打つ。椅子に座った女の姿が、明かりにぼんやりと照らし出されていた。心底残念そうに女は続ける。

「何故、貴方は選ばれた者に相応しい行動を取ってくださらないのです?」

「……」

 魔法使いは呆気に取られて眼前の女を眺めた。顔も名前も知っている。次いで、視野にあるもの一つ一つへ視線を移した。どれも見覚えがある。どこで見たのかも思い出せる。ただし、元の世界へ戻ったのではない。己が置かれた状況を理解した魔法使いは、しばしばナルバを持っていたときにしたのと同じように、手にした杖を床に叩きつけた。

「振り出しに戻ったって訳か、ええ?」

 容易く思い出せるのも道理である。彼がいるのはこの世界で初めて気付いた場所、街道の一軒家にある一部屋だった。

「可哀相に」

 パエトゥサが悲しげに呟いた。視線は大柄な青年を通り過ぎ、その背後を見つめている。

 振り返った魔法使いは、壁際に蹲る女の姿を認めた。自分の肩を抱きがたがた震えながら、おそらく意味を成していないだろう言葉を口走っている。小刻みに動く唇から漏れているのは美しい声ではない。枯れた呼吸音に紛れた掠れたそれだった。パエトゥサと同じ色の瞳は何も映していない。

「エウロペです」

 パエトゥサが、

「もう一度、赤子から育たねばならないでしょう」

「それがどうした」

 魔法使いは薄ら笑いを浮かべる。

「この女はあそこから出たいっつったんだぜ。望み通りにしてやって何が悪い。人生をやり直すってんなら勝手にやればいいさ。どうせここじゃ年も食わねえんだ、構やしねえ。もっとも」

 冷たい三つ目がちらりとエウロペを見下ろす。いかなる憐みも良心の呵責も抱いていない目だった。

「白髪頭じゃ、選者とやらのお気に召さんかもな」

「あれは人が通れる道ではありません。あそこに入る位なら、大抵の者は死を選びます」

 確かにあれは本当の無ではない。それでもパエトゥサもそうであるように、人ならばあれを目にし、感じて、虚無と思わない者はいない。エウロペのこの豹変は至極当然なものである。あの道を通って何の異変もきたさない魔法使いの方が異常なのだ。

 商品を見定めるような目で、パエトゥサは三つ目の男を凝視した。恐ろしく険悪な表情を除けば、どこにも異状は見受けられない。この若者の心はおそらく、外見以上に人の規格から外れているのだろう。

「それに」

「一人の女も孕ませてねえしな」

 魔法使いが後をひったくる。充分過ぎる程に分かっている。自分は単なる奇形ではない。生命設計図そのものが人と違う。種自体が異なるのだ、人間の女と交わっても子はできない。しかも彼がおそらく最初で最後の成功例である。まさしく、彼は世界でただ一人の存在なのだ。

「貴方はいつまで経ってもこの世界に馴染もうとしないし、一人の子どもも作らない。ですが、選者は貴方に執着していらっしゃるようです」

 いつの間にかパエトゥサに寄り添うようにして、小さな人影が立っている。明かりが届かないので顔は見えない。

「さあ」

 パエトゥサに優しく促され、子どもが足を踏み出す。

 偽りの炎に照らされ子どもの姿が明らかになった途端、魔法使いは頭を強打されたような衝撃に襲われ、実際殴打されたかのように、二、三歩よろめいた。

「寄るな」

 こみ上げる嘔吐感をこらえて呻く。先程のエウロペのように、彼の全身にも鳥肌が立った。子どもが立ち止まっても魔法使いはじりじりと後退を続け、部屋の壁に背を張り付けた。

 子どもの方は屈託がない。自分を見て動揺している男を、不思議そうに見上げている。

 三つの無邪気な瞳で。

「貴方です」

 子どもに目を釘付けにしたまま動けない魔法使いの耳に、パエトゥサの声が届く。初対面のときの、間の抜けた響きはそこにはない。

「本来なら自然交配が望ましいのですが、仕方がありません。貴方と女性の間に子ができたとしても、目を三つ持っているとは限らないのですから」

 どこから誰がどう見ても、子どもは魔法使いの雛形である。髪や肌の色は言うに及ばず、生まれながらに刻印されている頬の紋様もそっくり写し取られている。親子ではない。似過ぎているのだ。顔立ち一つとっても、このまま成長すれば魔法使いと全く同じ造作になるのは明白である。

 違っている点があるとすれば、魔法使いは、子の年頃ではまだこの世に生まれ出ていなかった程度である。彼は少年と呼べる位の年齢になるまで、標本のように水槽のなかで育てられた。

 子どもが自分そっくりの大人を見つめ、口を開きかける。

 魔法使いの頭蓋内に警報が鳴り響いた。

 声を聞いたら最後である。

 何が最後なのか、自分でも分からない。が、三つ目の青年は自己防衛本能とも言うべき内なる声に従った。何の躊躇もなく一度捨てた杖を拾って握り締め、大きく振り上げる。

 子どもが声を発する前に、彼は自分と同じ色の小さな頭を目がけて思い切り杖を打ち下ろした。

 甲高い悲鳴があがった。

 逃げる間もない。まだ幼児としか呼べない子どもが、無言でその場に崩れ落ちる。魔法使いはやめない。最初の一撃で意識を失ってもなお、白い肌が破れ、血が滲み流れ出し、自分の手に骨の砕ける手応えが伝わって来てもなお、とり憑かれたように己の雛形を殴打し続ける。

 声の主――悲鳴をあげたのはパエトゥサだった――が、制止の言葉を叫びながら二人の間に割って入った。三つ目の男は狂ったように女をも杖で殴り飛ばし、抵抗できなくなった彼女を視界の外へ蹴り転がした。

 動かなくなったと思い込んでいた子どもの身体が、不規則に痙攣を起こしている。

 原型を失いかけた小さな身体を見て、魔法使いは再び吐き気に襲われた。己の所業故ではない。この男に、そのような良心などない。

 まだ生きている。

 これに比べれば、偽りの虚無など彼にとっては春の野原と大差ない。

 恐慌に陥った魔法使いの心を占めているのは変わらない激しい嫌悪と、本人は決して認めないだろう恐怖だけだった。

 正直、杖越しに触れるのさえたまらなく嫌なのだが、それでこの子どもが消えるのならば我慢しなければならない。

 とどめの一撃を与えるべく、魔法使いは杖を大きく振りかぶった。

 足下の床が消滅した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ