3、4
3.
チュラロークが一人で何か呟いている。
剣士の視線に気付くと、彼は苦々しい笑いで応えた。
「数を数えているんだ。何かしてないと気が狂いそうになる」
迷い込んだのか閉じ込められたのかは分からない。が、入った以上は出口がある。入口は出口でもある。井戸のようなところから放り込まれていたら五体満足では済まないだろう。従って、手の届く場所に出入り口があるに違いない。
二人は至って基本的な方法で出口を探していた。片方の壁に沿ってひたすら歩く。餓死も乾き死にもしない。時間はあり余っている。
その時間感覚も怪しくなってきていた。生物はそれぞれ体内時計を持っている。人も例外ではない。太陽や星の運行を目にしなくても大まかな時間は分かるものだ。それがここでは役に立たない。二人の男は自分たちがどの位の時間を歩き続けているのか、早くも見当さえ付かなくなっていた。
「出たら五十年も過ぎてたなんてことはないだろうな」
チュラロークはしきりに気にしていた。
「帰ったら女房はとっくに死んでて、息子が俺より爺さんになってたなんてのは御免だぞ。あんたは……独り身だろうな。カミさんがいるようにゃ見えんしなあ」
「ああ」
小さく頷く。死んだ妻子について、敢えて口にする必要もない。
「一人で河を渡ってたのか?」
「いや、連れがいたのだが」
剣士は魔法使いの特徴を述べる。
「見てないな」
答えてから、チュラロークは呆れた素振りで首を振った。
「そんな派手な奴、一目見れば忘れやしない。その雷って男、本当に魔法使いなのか?」
「そうだ」
「魔法使いってのは、もっと地味な格好をするもんじゃないのか。あんたぐらい背があってあんたより肉付きがいいんなら、大男じゃないか。なんでそれで魔法使いなんかやってるんだ。傭兵かなんかで食ってけるんじゃないのか」
チュラロークの村では、身体が脆弱で勉学に素養があり、かつ変わり者が魔術を学ぶのだという。
「知らん」
答えてから、剣士はいくら何でも言葉が少ないのに気付いた。
会話の他に時間を潰す方法もないのだ。
「会ったら本人に訊いてくれ」
ひとこと付け足したがそれで終わってしまう。チュラロークは肉付きの薄い褐色の横顔を見やった。翠の、明るい無機的な瞳はまっすぐ前方を見ている。しばらくしてから彼はようやく、この愛想のない若者がそれでも無言で話題を探しているのに悟った。気付くだけ大したものである。大抵の者には一見、チュラロークを煩わしがっているようにしか見えない。
「別に無理矢理話さなくてもいいんだが」
俺が人の倍喋る方だからとチュラロークが肩を竦める。再び数を数え始めた男は九一五で中断した。
「連中、なんで寄って来ないんだろうな」
剣士に応えられる疑問ではないからだろう、独り言に近い口調で狩人が言う。
チュラロークと合流して以降、人でなくなった者たちの襲撃はぴたりと止んでいた。襲撃どことか人影さえない。が、消えた訳ではない。時折遠くから、足音や悲鳴らしきものが聞こえてくる。
「二人でいる奴を襲うのはやっぱり不利だと……」
声が途切れた。
剣士は隣の男を振り返る。
チュラロークの周囲に漂う雰囲気が一変していた。
剣士は二歩下がる。やりきれない思いで、彼は剣の柄に手を掛けた。
奇妙な光を帯びた灰色の目が、若者を睨み据える。食い縛った歯の間から、同一人物のものとは思えない唸り声が漏れる。
動かない。身体が不自然に前後する。強く背を押され崖から突き落とされるのを必死で抵抗しているような、そんな動きである。後ろへ下がろうと足踏みするのだが、身体はそこに留まっている。
「ぎ」
チュラロークが短く呻いた。額に血管が浮き上がっている。握り締められた両の拳から血が滴る。目尻からも紅の液体が流れ落ちた。
どの位そうして立っていただろうか。
毛細血管が破裂し赤く染まった眼球の中、灰色の光彩からあの光が消えた。
「チュラローク」
剣士が用心深く名を呼ぶ。男はがくんと膝をつき、そのままへたり込むと後ろに両手をついた。呼吸が荒い。
「……まずいぞ」
肩を大きく上下させて狩人は目から血を拭った。顔面が赤く染まるが、きれいに拭い取る余裕などないらしい。その上からでも分かるほど、チュラロークは青褪めていた。
「飢え死にしなくたって、どっちみち時間はないらしい。くそ、なんでおまえだけ平然としてるんだ!」
声を荒げた男はすぐに冷静になった。
「済まん。八つ当たりしてもどうにもならんのにな」
「私の方が後でここへ来たのだと思う」
「そうだな」
チュラロークが腰を上げる。
二人は再び石の迷宮を彷徨い始めた。
4.
髪が腰まで伸びている。
魔法使いはどきりとして足を止めた。自分の後頭部に手をやる。どうやら長髪を括っているらしい。
いつの間に伸びたのか、全く覚えがない。
無を感じ宿屋の扉を蹴り開けたのはいつだっただろうか。
思い出そうと試み、失敗する。くそ、と彼は小さく悪態をついた。
「どうしたの」
前を歩く女が振り返った。髪の色も瞳の色も同じだが、パエトゥサではない。どうでも良い。誰であれ、魔法使いにとっては同じである。この世界へ来てから何度となく連れは入れ替わっている。ふと気付くと違う女になっているのだ。その癖、見知らぬ筈の互いの名前を二人は知っている。
「別に」
魔法使いは生返事をし、それから厭味ったらしく付け加えた。
「おまえらにとっちゃ、いつ、なんてのは無意味な疑問なんだろうが」
「変な人」
エウロペという名前の通り美しい声を持つ女は、それでも魔法使いが追いついて来るのを待ってから、また歩き始めた。
「何がまずいの」
エウロペが問う。魔法使いはやや意外な思いで女を見下ろした。
「他の女共よりゃ、ちっとはマシらしいな」
「どういうこと?」
「どうして俺がまずいと思うかじゃなくて、何がまずいか訊いたからさ」
今までの女たちは、魔法使いがここから逃げ出そうとあれこれ質問すること自体がたまらなく不思議だったらしい。彼女たちは、自分が何故、あるいはどこから連れて来られたのか、それともここで生まれ育ったのか、そのようなことには全く興味がなかった。彼女たちにとって大切なのは二つだけだった。自分が選ばれた存在であることと、連れとなる男との間に子を成すこと、それだけである。
魔法使いがそう説明すると、エウロペも頷いた。
「あんたの前の男も、同じことを言ってたわ。あたしたちは選ばれて永遠の命を得たんだから、子孫を増やすことだけ考えればいいって。こうやって旅をしてるのも、その選者様とやらに会って一緒にお披露目に出るためなんですってよ」
日の出から夕方まで歩く。出迎えの準備は整っているが無人の宿で休み、翌朝出立する。夜によっては女を抱く。野宿はない。判で押したように、宿は一日の旅程を終える頃合いの間隔で建っている。暑くも寒くもなく、微風は吹くが突風はない。雨も降らない。
気候が生ぬるい程に穏やかなのは、自然の精が元いた世界の半数もいないためである。本来なら目で判別できるのだが、生憎ここでは彼の視力は常人レベル――二つ目と同じ――にまで低下している。精霊魔術使いである魔法使いは代わりに詩を詠じ、魔術が通常の三分の一程度の規模でしか発動しないのを確認していた。火炎魔術に至ってはほぼ全滅である。彼が知っている詠詩全てを試しても起こすことができないのだ。
不自然でない程度に周囲の景色も変化する。今は森を抜けた海沿いを歩いている。難路ではない。鳥の声さえ聞こえぬ、非現実的な静寂に満ちた旅。何のトラブルもない、極めて楽だが単調な旅。穏やかと言うよりも生命力に乏しいと表現するべきだろう。人どころか小動物や虫の一匹も見当たらず、植物も、上手いだけの絵描きが塗ったような、完璧だが作り物じみた緑をしている。
実際、この世界全体が精巧にできた造り物だとも考えられる。
魔法使いが扉を開けたあの時、外には本当に何もなかったのだ。無には時間さえ存在しないのを、彼は理解だけでなく初めて実感した。
時間にしたら何千分の一秒もなかったに違いない。
虚無に遭遇してさしもの魔法使いも立ち尽くすが早いか、四角い枠の向こうに忽然と街道が現れたのである。
彼がいたのは辺境の街道沿いに建つ一軒きりの宿屋という事実が、その瞬間確定した。
選者の正体を魔法使いが知る由もないが、何者であれ、三つ目の視覚を完全に騙すのは難しいらしい。しかも彼は意識して突飛な行動をに出たので、最初のうち世界は、しばしば綻びを露呈することになった。突如として天井をぶち破ったり地面に穴を掘ったりする者は、魔法使い以前にはいなかったらしい。天井の破れ目や掘った穴の中から、あの何もない空間が刹那覗いては消えた。
以前ほどではないが、身体が重い。ということは、夢ではない。近くにおらずとも、ナルバは今もマハカム河流域から所有者の生気を食い続けている。
両方とも現実である。生真面目な剣士と続けていた馬での旅も、ころころ入れ替わる女との徒歩での旅も、現実である。そこらの魔術師や妖術師が見せるような、安っぽい幻覚ではない。
もっともこれが夢ならば、少なくともこんな退屈で生易しい代物ではないだろう。魔法使いとナルバの関係は、剣士と狼のそれのように友好的なものではない。杖族の長は、先同然で契約を結んだ魔法使いに対して殺意を抱いている。従って、昼間は身体的な苦痛を与え、夜は嫌悪に満ちた夢を送り込み、終始所有者に対しての嫌がらせを続けていた。
契約による繋がりがどの程度強固なものなのか、魔法使いは知らない。が、世界かあるいは次元が違い杖の力が及ばなくなっても、相変わらず命は食われ続けている。
常ならば腹立たしく邪魔なだけの杖族の長が、今では魔法使いを元の世界に繋ぎ止める唯一の存在となっていた。この重い倦怠感がなければ、いかな魔法使いといえども、全てを忘れてこの正解に埋没してしまうだろう。
左腕に誰かが触れた。
反射的に払いのけた魔法使いだったが、エウロペは触れられた腕の反対側を歩いているのを思い出す。慌てて彼は左を振り返った。つられてエウロペも振り返る。
一組の男女が歩き去って行く。大気に溶け込むようにその姿は曖昧になり、すぐに消滅した。
「こりゃ、珍しいこった」
首を後ろに捻じ曲げたまま魔法使いは、消え行く男女を見送った。
「お仲間だぜ、おい」
「あたしには何も見えなかったけど」
不思議そうに女が返す。二つ目の人間には見えなかったらしい。
縮れた髪、黒い肌、魔法使いたちと異なる人種だが同類なのは間違いない。身体の均整が取れており、髪も長い。男は豊かな髭を蓄えていた。魔法使いは、そういえば不精髭すら落とした覚えがないのに気付いた。必要がないらしい。
頬の紋様を見せるためだと、彼は突如合点した。見世物なのだ。だから、見目の良い者ばかりがここへ選定されてくる。選者がどのような審美基準を持っているのか定かではないが、長い髪は、感覚としては尾長鳥の尾のようなものなのだろう。
魔法使い自身、自惚れを差し引いてもそれなりに見栄えのする容貌の持ち主ではある。それでも絶世の美男子という訳ではない。彼が目を付けられた理由は明らかだ。一見精巧な彫り物にしか見えない頬の紋様は先天的なものである。それを選者が見抜いたのかもしれず、また、何よりも三つ目の人間など希少価値も極まる存在に違いない。
「箱庭か」
「なんですって?」
ベッドの中からエウロペが聞き返した。つい今しがたまで外を歩いていた筈だが、また記憶が飛んだらしい。あるいは時間が。既に慣れている魔法使いは驚きもしなかった。彼の方は閉ざされた窓際に腰を降ろしている。椅子を斜めに傾け、両脚をテーブルの上で組んだ不安定な姿勢で、壁に取り付けられた明かりをなんとはなしに眺めたまま、
「俺たちゃ品評会に出品されるって訳だ。飼い慣らされるまで閉じ込められて、檻の中をぐるぐる歩き回る」
束縛されているのは身体だけではない。飼い慣らされるということは、己の意思をも渡してしまうことを意味する。
「閉じ込められてる?」
エウロペは理解できない。
「ちゃんと外を歩いてるじゃない」
「ふん」
魔法使いは鼻で笑い飛ばす。
「てめえのおつむじゃ分からねえだろうよ」
「じゃあ、永遠の命……」
三つ目の青年は椅子を揺らせ、今度はげらげらと笑い出した。ひとしきり大笑いしてからもなお、彼は喉の奥から引き攣った声を漏らし続ける。
「そうだな。これだけ髪が伸びてるのに年は食ってない。不老って訳だ。不死のおまけがついててもおかしくはない。大事な収集品だ、選者様とやらも健康には気を遣ってくれるだろうさ。大切に大切に飼ってくれる」
言って、魔法使いは目の前の照明をじっと睨んだ。明るい橙色の炎は確かに周囲を照らしている。
先程から見る限り、僅かな空気の流れにも全く反応しない。閉ざされた窓の隙間から微風が流れ込んでいるのにも関わらずである。
火精に働きかける詩の一節を口ずさんでみる。火精が集まるところに炎があり、炎があるところには火精が密集している。
壁の炎は微かに揺らぎさえしなかった。
詩の発音は正しい。それなのに何故炎が動かないのか、魔法使いには既に見当が付いていた。
火に向かって手を伸ばし、握り締める。
熱いが、痛くはない。
握り締めた手を開き、掌を見る。やはりと言うべきだろうか、火傷も負っていない。まがいものの炎に火精など宿っていないのだ。
風土水、光、活力はないが生命もある。火だけがない。最も不安定で、消えやすいが生じやすくもある元素だけが欠けているのが、どうにも不可解だった。この箱庭を作った主が、意識して火を除去しているとしか考えられない。
「連れてってよ」
エウロペの声で魔法使いは我に返った。
「何?」
「ここから出てくつもりなんでしょ? おでこの目を抜いて考えても、あんた、他の男と違うもの。あたしだって、訳も分からずにいつまでもこんなところにいるのは御免よ」
薄明るい部屋の中、女は苛立たしげに周りの物を見渡す。どれもこれも見覚えがあり、それでいて思い出せない。そういえば魔法使いがとっくにやめたことを、エウロペは繰り返している。おそらく、ここへ来てからさほど時を経ていないのに違いない。
「あんた、何か考え付いたんでしょう? あたしも行く。自分がどこに住んでたかなんてのは、戻ってから思い出すから。じゃなかったら、覚えているところを探しに行けばいいんだわ」
どんなに遠くたって、とエウロペは付け加える。
人並みの心を持つ剣士なら、気丈だが健気な女のこの発言に、何かしら感じただろう。
魔法使いはそんな優しい感情とは無縁である。底冷えする青い三つ目で女を束の間見つめてから、しかし意外にも彼はあっさりと頷いた。
「足手まといになるなよ」