1、2
1.
考えて動いていたら命はなかっただろう。
反射的に斬り払ってから剣士は、それが人間だったのに気付いた。胴体に頭が一つ、口と鼻も一つ、目と腕と足が一対。二足歩行であり、汚れ、ぼろぼろになっているが服もまとっている。形態から言えば紛れもなく人間である。
「何者だ」
問うだけ無駄だった。人に襲われたと咄嗟に剣士が判断できなかったのも無理はない。正気をなくした目でこちらを睨み歯を剥き出す様は、もはや人とは言い難い。極端に上体を丸めているためだろうか、刃こぼれした鎌を持つ腕は猿のそれのように長く見える。
負わせた傷は深い。肉を切り筋を断った手応えを、剣士は確かに受け取っていた。人間ならばまず命乞いをするであろうし、思わぬ反撃を受けた野生の獣ならば余程餓えていない限り、痩せた男を餌にするのは断念する。
相手は獣ですらなかった。動かなくなった片腕を垂らし、意味をなさない叫び声をあげて痩躯に突進する。血走った両目にあるのは闘争心ではない。恐怖である。まるで、闘い続けることでしか生き残れないとでも信じ込んでいるようだった。
「よせ」
身を退きながら剣士が短く制止する。三日月型の刃を、鈍い鉛色の刀身が受け止めた。
「行け。私は追わない」
剣にかかる圧力が弱くなった。獣じみた唸りが小さくなる。涎を垂らしている男に向かって剣士が同じ言葉を繰り返すと、人間だった者は濁った目で浅黒い貌をしばらく凝視してから、身を翻し逃走に入った。
視界から消える寸前である。
横合いから飛び出したものがそれにぶつかり、滅多打ちにした。剣士の前から逃げた影がばたりと倒れる。
唖然とする間もない。
背に殺意がぶつけられる。今度は大振りな剣を構えた女だった。
簡素だが高価な平服、紋章が浮き彫りになったマントの留め具からして、どこかの国に仕える軍人か貴族だったのだろう。女は先程の者のように、あからさまに狂った様相を呈していない。が、剣士以上に無表情なその面は、やはり人と言うには憚る何かを漂わせていた。
意思疎通を図る剣士に、女は問答無用で斬りかかる。何合か打ち合わせるうちに、剣士はこの女が先の者よりずっと救い難いものと化しているのに気付いた。人、あるいは動物が持つ最も基本的な感情――先の男でさえ見せた恐怖すら女は持ち合わせていないのだ。剣士の声も全く聞こえていない様子だった。
自動人形と化した女の胸を鉛色の刃が貫く。剣士の長剣は、持ち主の精神状態をその色に反映させる。強固な闘いの意志を伴い敵と向かい合えば、鈍い色の刀身は青味を帯び冷たく冴え渡る。が、このような戦闘で精神が高揚する筈もない。
薪が倒れるように、女は直立したまま仰向けに倒れた。胸に赤い染みが広がる。瞬きもせず無表情に剣士を見上げたまま、女は呼吸を停止させた。
二桁にものぼる者を殺した後である。
「畜生」
顔を合わせるなり弓を背負った男は叫んだ。
「もうたくさんだ。とっとと殺せ」
言いながらも使い込まれた鉈を剣士へ向ける山に分け入る際、枝を切り払うのに使う小型の鉈である。
「待て」
剣士は細身の剣を鞘に収めた。男がじろじろと剣士を眺める。用心深げに口を開いた。
「……あんた、まともなのか」
身も蓋もない尋ね方だが、相手の心情は理解できる。剣士は頷いてはっきりと意思表示をした。
「名前は」
「雨」
「変な名前だ」
胡散くさそうな顔をした男は、しかし鉈を降ろした。
「まあ、話が通じるだけいいか。俺はチュラローク。グロリウスの森から迷い込んだんだが……」
ここに来てから負ったに違いない。全身傷だらけの男は途方に暮れた目で剣士に問いかけた。
「一体全体、ここは何なんだ?」
無機質な長方形の通路で足を踏み鳴らす。同じ大きさの切石をひたすら並べただけの、単調な通路である。明かり取りも照明もないのにも関わらず、昼間と同じ視界が確保されている。あちらこちらで通路は交差し、迷路さながらである。実際そうなのかもしれない。
「しかもここの奴ら、皆気が狂ってる。おかげで矢なんかあっという間になくなるわ、こんな酷い有様になるわ」
「分からん」
自分はマハカム河を渡っているつもりだったがと剣士が言うと、チュラロークは投げやりに首を振った。
「えらい遠くだな。山脈向こうじゃないか……なあ」
狩人の口調に恐れが混じる。
「気付いたか? ここの連中、着てる服も顔つきもばらばらだ。奴らも、俺らのように何かの拍子であちこちからここに来ちまったんじゃ……」
口を閉ざしたが、何を言わんとしたかは剣士にも察しがついた。代わりに後を引き取る。
「時間が経てば、我々も正気を失うかもしれん、と?」
「時間か」
チュラロークがため息をつく。
「あんた、まだ来たばかりのようだな。ここじゃ時間が過ぎているのかどうかさえ分からん。疲れんし、腹も減らんし、眠くもならん。髭も伸びん。その方がいい気もするが。女房子どもが心配する」
「それに、少なくとも餓死する恐れはない」
にこりともせずに剣士は応じ、すたすたと歩き出した。
「行こう」
「どこへ」
「出口を探しに」
2.
「おはようございます」
身を起こした魔法使いに、女が親しげに微笑みかけた。食事の並べられたテーブルを、優雅な手振りで指し示す。
「お召し上がりになります?」
魔法使いはベッドの上からじろじろと女を、次いで部屋の中を眺め回した。水中で気を失っている僅かな間に、東の異郷から彼の馴染んだ地へ帰って来てしまったかのようである。女はマハカム河流域に住んでいるような東方人ではない。魔法使いと同じ金髪碧眼の持ち主である。部屋の様式にも覚えがある。彼が飛び出した学会か、あるいは流浪を重ね通り過ぎてきたうちの、どこかのものだ。が、見覚えがあるものの特定ができない。思い出そうと壁飾りや天井の梁、自分が着せられている衣服など、ある一点を見つめると途端に記憶が薄れてしまう。妙な話である。視界に入れたまま焦点をずらせば、確かに彼が知っているもので満ち溢れているのに、その個々の認識がままならない。凝視を続けると微かな眩暈に襲われる始末である。
眉を顰め、短い髪に手を突っ込んでかき回す。と、彼はいつも額に巻いている布も取り去られているのに気付いた。額の目を隠すためのものだ。
三個の目を開いていながら、常人の視界しか得られない。まさかと思い額の中心に触れたが、それが消えた訳でもなかった。全てがどうにも捉えどころがなく、曖昧である。
「とっとと返しな」
開口一番剣士は要求した。
「俺の金。俺の指輪。俺の服。俺の馬。俺の耳飾り。俺の……」
彼は所持品を延々と言い並び立てた。女は遮りもせずにそれを全て聞き終えてから、ですが、と落ち着き払った顔で応えた。
「私が覚えている間ずっと貴方はその服をお召しですし、他の物についても」
白い手が指し示す方向へ、三つ目の視線が向けられる。マントと生成りの上衣がきちんとたたまれ、その上に必要最小限の荷物とナイフ、そしてその傍らの壁には頑丈そうな長い杖が立てかけられていた。
どれも違う。
自分のものであり、そうでない。見慣れ、使い慣れ、手に取ればすぐに馴染む物ばかりだが、魔法使いが水中に転落するまで身に着けていたものとは明らかに違う。派手に装飾品をぶら下げた黒ずくめの男は、ここでは存在しないらしい。杖も無論ナルバではない。人を殴る凶器にはなるが、あの杖族の長よりもずっと無難で生命の宿らぬ、ただの杖である。
魔法使いは突然ベッドから飛び出した。壁に掛かっている鏡を覗き込む。他の物同様、それ自体どこで作られたものか判然としない鏡は、しかし魔法使いの顔を鮮明に映し出した。
「俺だ」
彼は口に出して確認した。三個の空色の目、左頬に描かれた青と銀の紋様、貌の造作。紛れもなく彼自身である。が、長い間日に晒され麦わらと赤銅に焼けた髪と肌は、学会を飛び出す以前の淡い色彩に逆戻りしていた。耳飾りを着ける際いくつも開けた両耳の穴も、全部きれいに塞がっている。髪も僅かに伸びている。
なんてこった、と彼は呟いた。
「一体どれだけ寝くさってたんだ、俺は。いや」
彼は驚愕をすぐさま疑念に切り替えた。
「眠らされてたんだろうな?」
女は困った顔で首を振った。動作に合わせ、金髪が微かに波打つ。不自然なまでに長い。頭の上で複雑に結い上げられていてもなお、緩やかな黄金の髪は腰の高さまで伸びている。
「私が覚えている限り……」
「寝ていた」
同じセリフを魔法使いが遮る。いいえ、と女は否定した。
「分かりません。貴方が目覚めるのを待っていたのかもしれませんし、それとも私は貴方とずっと旅を続けていて、いつものように私が先に起きただけなのかも」
「馬鹿言え」
間髪入れずに再び魔法使いは遮った。知っているのかいないのか周りのもの全てが曖昧な中で、女だけははっきりと認識できる。間違いなく初対面である。河に落ちる直前までの自分の連れも、彼は覚えている。人相は悪いが生真面目な、一流の剣技を持つ隻眼の男だ。
「なら俺の名前を言ってみな」
「雷様でしょう」
女も即答した。三つ目の男は愕然として相手を見つめた。
「なんで知ってやがる」
「貴方も私の名前をご存じの筈ですわ」
自信に溢れた白い美貌が魔法使いを見つめる。
「知る訳ねえだろ」
言った端から一つの名詞が、魔法使いの脳裏に書き起こされた。
「……パエトゥサ?」
女の顔が明るくなる。自分が正解を述べたと悟り、彼は苦虫を噛み潰したような表情になった。自分の記憶と認識に反した事象との遭遇は、彼ほど我の強い人物にとっては不可解というよりも不快でしかない。
「男がもう一人いただろうが。どこだ」
「私が知っている最初から、貴方一人しかいらっしゃいませんけれど」
魔法使いは唇の端を苛立たしげに痙攣させた。
「だから」
もともとぞんざいな語気がさらに荒くなる。三つの空色の目で睨みつけながら、
「その、おまえが知ってるってのはいつからなんだ、いつから」
最後の「いつから」を、一音ずつ区切って強調する。それに合わせて彼はテーブルを拳で叩いた。並べられた食器が固い音をたてて振動する。
少しばかり粗暴な挙措にパエトゥサは一瞬身を固くした。その姿にさえ、ある筈のない既視感が生じる。違う、と彼は否定した。怯えるこの女に見覚えがあるのではない。女が怯え身を竦ませる姿を彼は知っているのだ。もともとむら気な魔法使いである。ところ構わず癇癪を起こしては周囲の者を驚かせるのが常なのだ。特に育ちの良い娘などは、粗野な事柄に全く面識がない。
が、パエトゥサの頭を占めているのは、怯えよりも強い疑問のようだった。魔法使いよりも色の濃い瞳を見開いて心底不思議そうに尋ねる。
「何故それほど気になさるのです? 私は自分がいつからここにいるかなんて、考えたこともありませんのに」
「てめえな」
魔法使いが唸る。ナルバがいたらこんな馬鹿な女などさっさと消してしまうのにと思いながら、彼は部屋の中を行ったり来たりし始めた。
「寝てる間にどこだか知らねえ場所へ連れて来られたんだぞ。これでのんびりしてる奴なんぞ、馬鹿も極まる大間抜けだけだ」
魔法使いの言葉を聞いて、美しい白い貌が曇る。
「それなら、私も大間抜けなのかしら」
大股での歩みが中断する。
「ここがどこか、おまえも知らねえのか」
「部屋の中でしょう?」
真実間抜けな答えを背に、魔法使いは部屋を飛び出した。この女では話にならない。
廊下を走る。
階段を降りる。
宿屋らしい、狭い玄関ホールに出た。
誰もいない。
「おい」
カウンターを飛び越え、奥の扉を開ける。無人であるのを確かめてから、彼は厨房を覗いた。かまどに火はない。人気もない。では、上の部屋にあった食事は、一体どこで誰が準備したのか。
何者かが見下ろしている。
魔法使いは階段の上を振り返った。パエトゥサが追いかけてきたのかと思いきや、誰もいない。
静まり返ったホールに、大柄な身体が立ち尽くす。
視線は玄関の扉に釘付けになっていた。およそ人らしくない経緯で生を受けた魔法使いである。目だけではない。人の数倍も鋭い五感を持つこの若者は、建物の外の気配を敏感に感じ取っていた。もっとも、気配と言って良いものかどうか判断に迷うところだが。
何もない。
「無」が意味するところを、魔法使いは概念上は理解している。が、果たして現実にあり得るのか。
あるとして、光も空気も闇も、空間すらないところで、生物の存在は許されるのか。
あり得ないものが、ある。
常人なら思考停止か錯乱に陥るところだが、魔法使いは生憎常人の範疇から大きくはみ出している。
逡巡は一瞬だった。
三つ目の青年は、勢い良く扉を蹴り開けた。