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見えざる蒐集家  作者: 井出有紀
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プロローグ

 まだ日暮れでないことだけは分かる。

 自分たちがマハカム河に沿って馬を歩ませていることも分かる。が、それだけだった。

 濃霧がたちこめている。

「どうなってんだよ」

 最初に音を上げたのは魔法使いだった。

「とっくに昼なんか過ぎてんだろうが」

 幅広い河は、北から南へ横たわりゆったりと海に流れ込む。彼らはあくまで東を目指しているので、どこかでこの河を越えなければならない。

 剣士が上方を仰ぐ。翠の隻眼に認められたのは、薄明るい均一な白ばかりだった。何も見えない。空はおろか、太陽がどの辺りにあるのかさえ見当がつかなかった。

 朝早く発って河沿いに南下すれば、せいぜい昼までには渡し場へ着く。

 村の住民によればこうである「らしい」。二人が尋ねた訳ではないので、こう言わざるを得ない。

 剣士は視線を足元へ移した。馬の横を、一頭の灰色狼が軽い足取りで歩いている。言葉もろくに通じない東方の地で、狼は予想外に旅人たちの役に立っていた。実体を持たないこの不可思議なものは、剣士の耳と口を借りて異国の言語で村人と会話し、二人の若者に通訳している。

 狼は首をもたげ、剣士を見上げた。

『判然とせぬ』

 奥行きのある男の声が剣士の頭の中に響いた。魔法使いには聞こえない。会話もできない。剣士以外の者が狼と直接意志疎通できるのは、満月の昼と新月の夜だけである。人間の何百倍もの年月を生きてきたためか、言葉遣いがいささか古い。

いかずちの言う通り、夕方も近い筈だが』

 賢しげな金色の両目にも当惑が浮かんでいる。「雷」は魔法使いの呼び名である。精霊魔術の中でも雷系を得意とするからなのか、それとも気性を表わしているだけなのかは定かでない。剣士は「雨」と名乗っている。以前、故あって本名を使えなくなった彼に魔法使いが提案した名前だった。

『ただ、なんらかの原因で我らの時間感覚が狂うているだけということもあり得る』

「まだ我々は東を向いているのだろうか」

「そいつは間違いないらしいぜ」

 狼の代わりに魔法使いが答えた。

 奇妙なものを連れ歩くという点では彼も剣士に劣らない。杖族の声を聞けるのは、人間ではその杖に所有者と認められた者だけである。魔法使いはナルバという名の杖を所有している。布に包まれ鞍に括りつけられたそれは、一行が東に向かっていると所有者に告げていた。

『尋常な霧ではない』

 金属の軋むような声が魔法使いの意識に流れてくる。砂嵐の向こうさえ見通す視力をもってしても、この濃霧の向こうを見透かせないらしい。

「どこぞのひねくれ者のおかげで、とんだことになるやもしれぬな」

「クソ犬は黙ってやがれ」

 魔法使いが歯を剥き出した。剣士の目が金色なので狼が身体を拝借していると分かるのだが、確認するまでもない。語調や声の抑揚は言うに及ばず、そもそも生真面目な剣士ならば冗談一つ、からかいの言葉一つ口にしないのだ。

 霧の中から銀細工の妖精が現れた。魔法使いの肩に座って、なにごとか喋る。黒衣の青年は何度もうるさげに頷いた。

「分かった。分かったから大人しくしていろ。はぐれるぞ」

 煩わしげだが、彼はこの少女に対してだけは棘のない反応を返す。クロミスという名のこの妖精は、厳密に言えば妖精ではない。フェアリーの姿をした鍛冶の精である。感情豊かに振る舞うが、元来が人格を持たぬものの精であるため、どこまで深い情感を持っているか定かではない。魔法使いが北方の地で魔術の師に教えを受けていた頃からの付き合いで、その師から餞別に与えられた指輪を、彼女は住処にしている。

 霧が晴れるまで出発を見合わせた方が良いという村人の忠告を聞かずに一行は村を後にしたのだった。決して迷うような道程でないと保証したのは当の村人たちであったし、何よりも次の話を聞いた魔法使いがお得意の天邪鬼ぶりを発揮したからだった。

 早朝、霧の中を出かけて行った者は二度と村へ帰って来なかったのである。消えたのは危険な旅に出た訳でもない、河の向こうの市へ農作物を納めに行ったような者ばかりだった。ここ二十年行方不明者が出ていないのは、霧が晴れるまで決して村を出なかったからに他ならないという。

「戻るか?」

 翠の目に戻った剣士が問う。

「おまえな」

 と魔法使い。馬鹿にしたような――実際そうなのだが――口振りで、

「狼の言ったこと聞いてねえだろ。蒸発した連中が一人も帰りたがらんかったとでも思うのか?」

 隻眼が二、三度瞬く。肉の削げた浅黒い貌が横を向いた。

「引き返しても村には着けないということか」

「ああ」

 では進むしかない。

 狼が一同の懸念を代表して言った。

「永久に歩き続ける羽目にならねば良いがな」


 白い靄の中、雨を凌ぐだけの屋根が見え隠れし始めた。その下では渡し守らしい若者が一人、暇を持て余した様子で煙管きせるを吹かしている。短い桟橋がぼやけた水面の上に伸び、舟が二隻係留されていた。どこにでもある典型的な渡し場である。が、舟の形も屋根も、この地方のものではない。

「どうやら着いたようだ」

 安堵すべきか怪しむべきか迷いながら、剣士が分かり切った状況を述べる。そうだな、と魔法使いも曖昧に頷いた。

 一行に気付いた若者が腰を上げる。おおい、と旅人たちを呼んだ。

「乗るか?」

 狼が通訳しなくても、渡し守の言葉が理解できる。少しばかり訛っているものの、彼は驚くほど流暢に剣士や魔法使いが使うのと同じ言語を操っていた。

 二人が馬を降り手綱を引いて近付くと、渡し守はやけに張り切って準備を始めた。

「久し振りのお客だ」

「行くしかないんだろうが」

 投げやりに魔法使いが尋ねると、渡し守は地元人らしからぬ彫りの深い貌に、人の悪い笑みを浮かべた。悪意は感じられない。

「ここに来たお客は、大体二種類に分かれるんだ」

 二頭の馬を手際良く桟橋から舟に移し、

「喜んですぐ渡るお客と、怪しがって乗らずにさんざん歩き回ってから半分くたばって戻ってくるお客」

 舟が桟橋を離れ川面を滑り出すや否や、濃い霧は旅人たちの視界を不透明な白一色に塗り潰した。

「随分と達者に話しているが」

 こんな場所でよもや聞けると思っていなかった西方語に剣士は当惑している。状況が状況だけに、呑気に感心だけしている訳にもいかない。もっとも、彼は感情の露出が極端に少ない人物なので、傍目からは無表情にしか見えない。

「生まれは山脈の向こうなのか」

「ここは山脈のこちら側か?」

 渡し守が反対に訊き返した。

「あんたらはマハカム河からのお客だな。じゃあ、そうだ、と答えとこうか。向こう側、こっち側で訊かれると答えにくいんだ。ここはもうマハカム河じゃないからな。方角で尋ねてくれりゃ、答えやすいのに。俺はトゥールス山脈より西側で生まれた。いつか戻りたいもんだけど」

 言葉と共に、若者の口から煙が輪になって吐き出される。ぷかりぷかりと輪は広がったが、宙へ拡散する前に周囲の白に同化し消えた。

「マハカム河を渡っているのだろう」

「違う」

 渡し守はあっさり否定した。鼻歌混じりに答える。

「ここは世界中のあらゆる河であり、そうでない。もっとも俺は大陸東部しか担当してないけどさ。見世物にするにゃ行儀が悪くてこっちへ回されたんだけど、お客が少なくて退屈ったらないんだ。ま、闘犬にされるよりはずっとマシだろうけどさ」

 さっぱり筋の見えない話の解釈を求め、剣士は無言で狼を呼んだ。彼にも姿が見えないときは大抵、居心地の良い友人の中に身を潜めている。

 返事がない。

 傍らを向くと、魔法使いが空色の目を眇めて彼を見ていた。

「どうした」

 長期間行動を共にしている賜物だろうか。表情に乏しい剣士の動揺を、魔法使いは見逃さなかったらしい。

「狼がいない」

「おまえもかっ」

 魔法使いが慌てて馬を振り返る。先程から彼の頭の中でも、ナルバの呪詛がぴたりと止んでいた。それでも命を食われ続ける倦怠感だけは去らない。いつかのような非常時ゆえ肉体的な攻撃を中断しているのかと思ったが、どうやら勘違いだったようである。

 ない。

 鞍に括り付けられている筈の杖は、姿を消していた。

「悪いな」

 鼻歌を止めて渡し守が、

「人間と動物以外は自動的に置き去りになるんだ。馬は俺が貰うつもりだけど、あんたら待遇が良かったら返すし。そっちの青い目の派手な兄さんなら何とか見込みはある。おとなしく上品にしてりゃ、あ、言った端から」

「引き返せ」

 魔法使いが渡し守の胸ぐらを掴んで引き上げた。

「命は食われ続けてんのに扱き使ってやれねえなんざ、むかつくにも程がある。さっさと引き返しやがれ」

 彼はナルバに生命を与える代わりに、その杖の能力を行使する契約を結んでいる。ある条件下で契約を解除しない限り、杖は魔法使いが死ぬまで彼を糧とすることになっているのだ。

「ぐえ」

 およそ魔術の使い手らしからぬ体格の持ち主に首を締め上げられ、渡し守が蛙の踏み潰されたような悲鳴を上げる。

「く、苦しい。人の話は最後まで聞けよ。ほら、着くぞ」

 前方を指す。二人の客が釣られて振り向くと同時に、渡し守は長い棹を引き上げた。大きく振りかぶる。

「てのは嘘で」

 外見からは想像できない怪力である。大声で叫びながら若者は大の男二人をまとめて殴り払った。

「態度の悪い客はお断り!」

 豪快な水しぶきが二つ上がった。


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