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YET ANOTHER GOOD BEARS ~非公式の熊~

作者: たいち

父は猟師で、祖父も猟師だった。僕は、長野の南信地方に生まれ育った。子供の頃、父や祖父が狩った鹿や猪の肉でバーベキューをするのがとても楽しみだったことをよく覚えている。猟銃で撃たれ、食べられてしまう鹿や猪がとても憐れに思えたのもよく覚えている。だから、今日の朝、僕の身に起こったことは、僕を酷く狼狽させた。というのも、僕は朝起きると熊になっていたから。幸いなことに、僕は大学生として一人暮らしをしていたから、その姿を周囲に目撃されることは無かった。僕はこれからどうすればいいのだろうか。人間の言葉を喋ることは出来るのだろうか。僕は恐々としながら試してみた。「私はもともと人間でした。安心してください、人に危害は加えません。」どうやら人間の言葉を発することはできるようだ。若干、声質が低く野太くなったように感じた。が、それは耳のつくりが変わったせいかもしれない。


鏡の前に立ってみる。改めて僕の姿を観察してみた。胸部に三日月のような白い斑紋がある。どうやら、ツキノワグマのようだ。本物のツキノワグマを間近でみたことはなかったから、よくは判らないのだけれども、熊としては少し小ぶりな気がした。そして、深く黒く、ビロードみたいな艶のある毛並みなんだな。とも思った。人間の言葉を発することは出来たものの、その容貌はどこから眺めても熊であったから、迂闊に外にでることはできない。街で人の目に触れてはややこしいことになる。


しかし、なんでまた僕は熊になったのだろうか。父や祖父が猟師だった因縁だろうか。もしかしたら、父が何か知っているかもしれないと、テーブルの上のスマホに手を伸ばした。が、熊の手ではスマホはつかめない。鋭く大きな爪に弾かれスマホはテーブルからフローリングの床に落ちてしまった。僕は気持ちがグラグラした。


とりあえず、床に落ちたスマホの上部を左手の小指の爪の先で慎重に押さえて床に固定した。続けて、画面を右手の小指の爪で操作してみる。熊の体で細かな動作は難儀したが、スマホはかろうじて反応してくれた。父の携帯に発信した。幸いすぐに父が電話口に出た。僕は、太い首をぐっと擡げ、茶色く大きな背中を丸めて、スマホに顔を近づけて話をした。突き出た口に生える茶色い毛が視界にチラチラと映った。


「あ、父ちゃん?」

「おう、どうした?珍しいな俺の携帯にかけて来るなんて。」

「いや、俺、今日朝起きたら熊になっとったんだけど、どうしよう?」

「おう、お前も熊になったのか?お前のじいちゃんもちょうどお前ぐらいの年頃に熊になったらしいに。」

「えっ、そうなんだ。じゃ、時間が経てば人間に戻れるのかな?」

「わからんなぁ。それより、ちゃんと学校いっとるのか?遊んでばっかりいたら承知せんからな。」

「いや、今は学校どころじゃないよ。熊になっちゃったんだから。それより、本当に人に戻る方法知らん?じーちゃんはどうやって戻ったの?」

「だもんで、わからんて。そのうち戻るんじゃないか。とにかく、熊になったぐらいで電話してくるなよ。お前もいい年なんだで自分でなんとかしてみろ。今、猟友会の会合中だで。またな。」


苦労してかけた電話だったが、会話はあっさり終わってしまった。だが、祖父も熊になったことがあるという話を聞いて僕はとても安堵した。祖父はもう他界していて、いまの僕の身に起こっている事と、かつて祖父の身に起こったことの経緯や因果関係や詳細を聞くことはできないが、僕が目にしたことがあるのは人間の姿をした祖父だけだったから、きっと時間が経てば僕もまた人間に戻れるだろう。で、あれば、熊になったことをネガティブに捉えずに、さしあたり、謳歌したほうがいいだろう。そうだ、熊にしかできない事を今存分にやればいいじゃないか。と、考え始めたのが8時間前であるのだが、熊を謳歌する良いアイデアがいっこうに浮かばない。浪人時代より内省的で理知的に生きることを優先してきた僕には熊の体を有効に使い奔放に野性を迸らせることに躊躇いがあった。ただ、強いて挙げるなら、長野の実家の庭に生えていた大きく太い胡桃の木に、この強靭そうな爪をつかってガシガシと登りたい。そんなことを想った。堅牢な胡桃の木の幹にざっくりと爪の跡を残し、がっさがっさと葉や枝を打ち払って登りたい。しかし、実家の胡桃の木は、一昨年の夏に手入れが煩わしいという理由であっさり切り倒されてしまって今は無い。祖父が他界したのもその年であった。


日も暮れてきた。腹も空いてきた。いっそ闇に乗じて屋外に出てみようか。と、思案しているとスマホに着信があった。電話にでる。

「もしもし。」

「うぃっす。なにしてる?ってか、なんで今日学校こなかったんだ?」


大学の友人、良平であった。今日は良平と同じ講義が幾つかあった。普段真面目に出席している分、唐突に休むと目立つようだ。

「いや、ちょっと体調が思わしくないっていうか、俺、熊になったんだよね。」

「・・・・・熊?」

「うん。そう、熊。」

「そうなんだ。どんな熊?」

「ツキノワグマ。」

「本当に?」

「本当だよ。見に来るか?」

「うん。バイト終わったらいくよ。」

「あっ、来るときにリンゴ買ってきてよ。10個ぐらい。お腹空いてんだ。俺。」

「了解。リンゴね。たこ焼きも食べる?」

「食べる。」

「了解。また後で。」


今まで、何故、友人を頼ることをしなかったのだろうか。熊になったことを一人で抱え込む必要などなかったのに。それにしても、良いタイミングで電話がきた。夜だし、腹が空いたからといって無計画に街に出没しては、野生の熊そのものではないか。闇雲に外に出ていたら、きっと厄介な結末になっていただろう。熊を謳歌する事と軽率になることは決して同じではないのだから。


22時頃、良平はやってきた。いつもどおり、インターフォンを鳴らすと同時に扉を開けた。予め鍵は開けておいた。すぐに良平の視界に、ベッドに座る熊の僕が映った。

「うわ。熊じゃん。それ、ハロウィン的なやつ?」

玄関で歩をとめて、靴を履いたまま、良平がやや唖然としながら言った。どうやら、リンゴとたこ焼きは約束通り買ってきたようで両腕に袋を抱えている。

「俺がハロウィンとか嫌いなの知ってるだろ。リアル熊だよ。まぁ、俺も熊に詳しくはないけど。きぐるみとかじゃないからこれ。」僕は苛立った。野性が迸っているのだろうか。

「とりあえず、部屋あがるね。お邪魔します。」

いつになく丁寧なことを言いながら部屋にあがってくるあたり、良平もこの異様な僕の姿を不審に、或いは、不憫に思っているのだろうか。良平をこの部屋に呼んだのは軽率な行動だったのだろうか。といっても、もう遅いけれど。

「うわー近くでみるとよりリアルだね。ってか、本物のリアルだね。」

といって、良平は、テーブルを挟んで僕の対面に座った。

「本物のリアルってなんだよ。馬鹿か。」

「いや、俺、熊みるの昨日ぶりだよ。」

「えっ?昨日みたの?」

「うん。」

「どこで?」

「いや、動物園だよ。昨日デートで行ってきたんだよ。動物園ってケモノ臭が半端ないね。もう行かないわ。」

「あっそうなんだ。俺も臭い?」

「・・・・うーん。普通?臭くはないね。それよりたこ焼き食べない?」

「あ、俺とりあえず、リンゴ食べたいから、リンゴ頂戴。」

良平はガサゴソと、レジ袋からリンゴを取り出して、テーブルの上に置いた。それにしても、良平のこの環境への順応性には驚いた。普通友人が熊になってしまったら、もう少し長時間驚愕したり、動揺したりするだろうとおもうのだが、部屋に入って数分でこの奇妙な状況を当たり前のように受け入れて、なおかつたこ焼きを食べ始めたのである。

「講義でないの?」

良平がたこ焼きを食べながら聞いてきた。

「いや、出れないだろ。熊なんだし。出たところで、ノート取れないし。」

「あっ、そう。お前のノート頼りにしてるんだけどなぁ。俺全然ノートとってないからさぁ。また、ノート貸してな。リンゴとたこ焼きは奢るから。」

「うん。」

僕は、適当に相槌を打ちながら。リンゴをまるごと一口で食べれるのか。と思案していた。

「リンゴ食べないの?」

「食べるよ。でも、後で食べるわ。食べるところを見たら良平引きそうだし。」

「引かないよ。むしろ、惹かれるよ。ちょっと野性みせてよ。」

「あ、そうなの?じゃ、食べてみるよ。」

僕は、リンゴをまるごとガブリといっきに口の中に入れた。嗚呼、なんだろう。こんな食感初めて。顎への負荷が殆ど無い。さすが熊だ。この強靭な顎と歯があれば大抵の食物がサクサクなのではなかろうか。嗚呼、熊を謳歌するってこういうことなんだな。僕は「次ちょうだい。」と言って2個目、3個目、4個目をサクサクサクと平らげた。

「いやー、お前、本当に熊なんだな。動物園の熊ってずっと寝てたからさ、なんかこう臨場感のあるダイナミックな熊って新鮮だわ。いや、よくわからないけどありがとう。リンゴまだ食べる?」

感心しきり、加えて、興味本位という体で良平はレジ袋の中のリンゴを取り出している。

「もういいや。後で食べるから、テーブルに並べて置いといて。」


お腹を満たしてみると、僕は、一息つくことが出来た。良平に感謝しなければならない。しかし、熊である状況は朝から何一つ変わっていない。僕は、良平に、熊になった以上は前向きに建設的に熊を遂行していこうと思う。と言ってみた。加えて、祖父もかつて熊になったという話を伝えた。良平は神妙な顔つきで聞いていたが、もし、自分に出来る事があれば何でも言って欲しい。と申し出てくれた。加えて、もし、可能であれば明日バイトを手伝ってほしいと頼んできた。当初からその件を頼むつもりで家にきたのだろう。



やや厚かましく、かつ、マイペースな良平を前にしていると、甚だ野性と理性のクロスフェードを感じた。というのは、良平が落ち着いていればいるほど、僕のペースは乱され、理性を失いそうになるのだが、これはきっと熊になったことに由来したものではなくて、日常的に良平と僕の関係性がそのようなものであったのだろう。などと、あれこれ考えては熱くなったり、冷静になったりしていたからだ。

「え?バイトってなんのバイト?」

僕は全く乗り気ではなかったものの、唯一頼れる身近な人間が良平しかいないことを鑑みて、興味があるかのごとく聞いた。

「えっと、イベント会場設営のバイトなんだけどね。椅子運んだりステージ設営したりする力仕事なんだよね。野性を行使するにはもってこいの仕事だと思うんだ。」

「たしかに、野性向きではあるけど、熊で行っても平気かな?」

「うーん。そうだな。大丈夫じゃない。お前は真面目だし、要は仕事さえきちんとやれば熊でも非熊でもなんでもOKだとおもうよ。」

「そうかなぁ。ってか、非熊ってなんだよ。ヒグマみたいにいうなよ。」

僕は、良平のあまりにアバウトで楽観的な見通しに少なからず不安を覚えた。また、バイトへ赴くという思い切ったことをするなら、部屋に閉じこもり悶々と過ごした8時間は一体何だったのかと考えながらも、良平にしつこくせがまれて、結果、バイトへ赴くことを承諾した。

「じゃ、明日朝6時に迎えにくるから。」

と、良平は言い残して、そそくさと部屋をあとにした。部屋のテーブルにはリンゴが6個ならんでいた。それを1つサクリと食べた。テーブルの上のすっかり冷たくなったたこ焼きをじっと見つめた。夜行性と思われる熊がこの時間に眠るのかどうか、僕にはわからなかったけれども腹も膨らんだことだしと、ベッドの上に丸くうずくまって寝た。隣の部屋からはTVの音がいつもと変わらずに微かに伝わってきた。


次の日の朝、5時頃に僕は目を覚ました。よく眠れた。或いは昨日の出来事はすべて夢ではあるまいかとも思ったが目をこする手が熊だったから、嗚呼、やはり熊なのか。と、嘆息して、それから、今日は熊として引き受けたバイトもあることだしと、気持ちを妙な方向に落とし込んだ。


良平は時間にルーズな方ではあったが、今日はきっちり朝6時に家にきた。


「ういっす。相変わらず熊なんだね。ヒグマだっけ?」

記憶もルーズな良平が言った。

「ツキノワグマだよ。胸に白い三日月模様があるだろ。これトレードマークだから。」

「あっ、そう。それより、着替えなくていいの?」

「着替えるって何に?」

「何か着た方が良いいんじゃないかなぁ。それって裸なわけだし。」

「・・・・うん。てか、どこ見てんだよ。」

良平がじっと股間のあたりを見ているので、早朝なのに思わず大きな声を出してしまった。が、たしかに良平が言うように何か衣服を身に付ければコスプレ的な方向へなにかしら和らぐかもしれない。傾くかもしれない。だが、熊として前向きに生きるってことは、人間社会に安直に迎合しないということは言えるだろうし、服を着るという短絡的で中途半端な人間的ギミックは熊的にどうなんだろうか。という趣旨のことを良平に伝えてみた。

「熊になっても、理屈っぽいね。全然、熊らしくないよ。そーゆーところ。もっとどかっと構えてよ。ツキノワグマ君。」

「てか、サイズ的に着れるものが無いんだよ。そもそも。」

「じぁあ、そう言ってよ。ってもう時間ないよ。行こバイト。」


家を出る。熊になってからの初めての屋外。12月の早朝。風がやや強い。これだけ分厚い毛皮に覆われているのに、寒い。と、思うこの感覚は熊的にだろうか。それとも、人間的にだろうか。とくに、足から伝わってくるアスファルトの感触と冷気に人間の時には感じなかったえぐ味を感じたから、きっと熊的にアーバンな街の作りが負荷となっているのだろう。都会で熊として前向きに生きることは結構きつい。


そういえば、バイトの詳細についてを聞いていない。時給やら、場所やら。その他諸々。って言ってももう熊なんだから時給とか気にするのはせこい。なので、野性、野性と念じていると、近所の柴犬がけたたましく吠えてきた。良平の次に熊を認知したのが、柴犬。柴犬の気持ちはわからない。柴犬の鳴き声を後ろに聞きながらアパートのある道を東に進んだ。駅に向かっている。すると、良平がバックパックから首輪を持ちだした。

「なにそれ?」

僕は素朴に聞いた。

「みてのとおりの首輪。これをお前につけることにより、俺とお前は、ペットとご主人様になるわけ。便利グッズなのだ。」

「便利グッズなのだ。じゃねーよ。首輪なんかしねーからな。そもそもそれ犬用だろ。」

「いやでもね。よく考えてよツッキー。熊を放し飼いで連れていたとなると、俺、かなりイリーガルな輩になってしまうじゃない。警察とか保健所に通報されたら厄介じゃない。そこで、人間社会と動物の架け橋、それは首輪。ってことになるわけ。人間なんて単純だから首輪があるだけで諸々に納得してしまうんだよ。愚かなり人間どもよ。」

良平は微かな笑みを浮かべ、僕を見たり、首輪をいじったりしながらそう言った。

確かに首輪ひとつで熊にぐっと社会性が備わるのは確かだ。ネクタイみたいなものだろうか。ここは少々野性を犠牲にして、人間社会との駆け引き、打算は必要だろう。熊を謳歌することと、頑なになることは決して同じでは無いのだから。


首輪をつけた。良平はオーソドックスなジーパンにブルーのマウンテンパーカーという出で立ちで、胸には【wild things】というロゴが入っていた。おそらく意図的に着てきたのだろう。現時点では、熊を連れ、街を闊歩し、野性を飼いならす感じの良平が少しクールに見える。僕は、ネルソン・マンデラを題材にした映画のことをぼんやり考えながら、良平と連れ立ってノソノソと東に進んだ。駅の周辺にくると、人も増えてきた。


「あっ、熊。」誰かが言った。良平はドナドナの熊バージョンを歌いながら、綱の端ををクルクル回しながら歩いている。僕はどうか騒ぎにならないようにと祈ったが、1分弱で警官がやってきた。首輪はいったいなんだったのだろうか。警官は腰に手を当て、僕達の前に立ちふさがって良平に言った。

「ちょっと待って君、それ熊だよね。」

「はい。ツキノワグマのツッキーです。オスです。こう見えておとなしいものです。」

良平が乾いた口調で真面目くさった顔つきをしながら平然と答えている。僕は空気を読んで黙っていた。周囲は、少しづつ騒然としてきた。警官は少し沈黙した後に、熊を運搬する場合の所定の手続きは経ているのか。また、なぜ専用車両等を用いずに往来を歩行しているのか。など、当たり前の疑問を当たり前の様に聞いてきた。僕が警官だったら、同様の対応をしていただろう。付け焼き刃の首輪戦略などに言いくるめられた僕は浅はかであった。だが、そんなことを今さら悔やんでもしょうがない。ここは良平の楽観性と順応性をベースにした危機回避能力に期待したいところである。良平が相変わらずの乾いた口調で返答した。

「えっとですね。この熊はこれから処分されるところなんです。可哀想な話です。人間の尊大さやエゴが生態系を圧迫して歪をうみ、結果として、山での生活に困窮したツッキーは仕方なく山を降りて人里に出た。ただ、それだけなのに。ひどい話ですよね。だが、共に生きることは出来る。」

うん。可哀想だね。でも、質問の答えになっていないし、君の現状を何一つ説明できてないよ。という、警官の主張はもっともで、良平がどういう方向性でこの状況を打開しようとしたのか全く僕にも見当がつかなかったが、結果的に、僕は猟友会へ引き渡され、良平は警察所へ連行された。儚い、ワイルドシングスであった。


猟友会に引き渡された僕は人生初の檻の中にいた。こんな形で檻の中に入るなど全く予想していなかったし、不本意であった。良平は流石に檻には入れられてはいまい。不条理である。ただ、麻酔銃で撃たれたり、あまつさえ、射殺されたりしなかったのは幸いであった。猟友会の人たちの会話の内容から、岐阜の大学の応用生物科学部に一旦預けられ、発信機をつけられたあとに、山の奥地に放逐されるという手はずであることを知った。幾度か、声をだしてしゃべろうとも思ったのだが、やはり混乱をきたすであろうし、人間と熊の中間ぐらいの合理性が僕をその行為から遠ざけた。山に行ったら、木に登ろう。いや、まずは食料や水を確保しないといけない。などと、考えなら檻の中でおとなしく、小さな茶色い丘陵の様に丸くなっていた。


「もうこの時期は冬眠しているはずだし、いくらなんでもあまりに都会にでてきたからおかしいなぁとは思っていたんですよ。」

「はい。」

「で、やっぱり息子さん?」

「はい。間違いありません。大変なご面倒をおかけいたしました。申し訳ありません。」

そんな会話を耳にして、僕は檻の中で目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。なにか気がかりな夢をみたのだが、覚えてはいない。

「おい、圭佑。」

聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。父であった。

「あ、父ちゃん。」

僕は、思わず声をだした。猟友会の人が「ありゃま、本当に息子さんだ。」と、にわかに信じがたい。といった表情をした後に、口元を歪めて苦笑いをしていた。

「さぁ、俺と一緒に帰るぞ。」

ほどなくして、僕は檻から出された。父に経緯を聞いた。父は、僕が熊に変身したと電話で聞いたあと、もし僕の住む地域で熊が出没するような騒ぎがあった場合には速やかに連絡をもらえるように、猟友会の全国ネットワークを通じて手はずを整えていたらしい。猟師の数は昔に比べて減ったが、猟友会のネットワークは全国的に密な連携をとっているとのことだった。まさか、こんなに早く騒ぎになって連絡が来るとは思ってはいなかった。と、父は無表情で言った。相変わらずお前は未熟だな。という意味の事もいった。

「熊を謳歌しようとおもっとった。」

僕がそう言うと、父は黙ったまま無表情で僕を見つめていたが。しばらくは実家におれ。と、一言いい、僕を軽トラックの荷台に載せてシートをかぶせると、長野へと車を走らせた。


僕は、長野で暮らすことになった。この時期の実家の寒さは応えた。が、母や兄は暖かく迎えてくれた。市役所で働く兄は、特に歓迎ムードで、家族が熊になるようなことが無いと人生というのは非常に退屈なものだ。と言って僕の姿を間近から写真に収め、呑気にはしゃいでいた。母は、何を食べるのか、風呂はどうするのか、いつ頃人に戻るのか、学校はどうするのか。と、こまごまとしたことを聞いてきたが、人間と違って洗濯物が増えないのは助かるな。と、言って静かに笑っていた。僕は家族が平然としていることに、多少違和感を覚えたが、一方で家族というものの懐の深さに感謝した。この家族のなかに生まれ育って良かったと、しみじみ感じた。


一息ついて、そういえば。と、良平のことを思い出した。良平やバイトはどうなったんだろう。母の携帯を借りてすぐに良平に電話をしてみた。


「もしもし、あっ、良平。大丈夫だったか?」

「ういっす。ツッキーいま何処にいるの?」

「え、ああ、いま実家だよ。」

「あれ?猟友会に捕まったんじゃないの?」

「親父がきて、助けてくれたんだよ。それでいま実家にいる。」

「ああそうなの。俺は午前中には警察から解放されて、バイトにも一応顔出してきた。まぁ特に問題ないかな。」

「えっ。特に問題ないの?」

「うん。それよりも、ツッキーのノートがないと今度のテストやばいんだけど。」

相変わらずの良平で、安心した。そんなにテストが心配であれば、講義にはしっかり出席してちゃんとノートを取るようにしたらどうか。僕はしばらく学校へは行くことが出来ない。家に置いてきてしまった携帯とノートパソコンを郵送でいいから届けてくれないか。冬休みになったら長野へ遊びに来ないか。等々を伝え、僕は電話を切った。


翌々日の夜に良平が長野にやってきた。よほど暇なのか、異様にフットワークが軽いのかよくわからないが、冬休みでもないのにやってきた。言われたとおり僕の携帯とノートパソコンは持ってきてくれたようだ。良平は、母に「大学では圭佑くんにお世話になっています。つまらないものですがどうぞ。」と言って、崎陽軒のシュウマイを渡していた。母は、熊だけど圭佑と仲良くしてあげてね。遠いところからわざわざありがとうございます。などといってもてなしていた。


良平と実家の部屋へと入った。

「ツッキーがいないと学校も面白くないし、そもそも前からあまり行ってなかったから、長野に来ちゃったよ。」

「単位落とすよ?」

「いやぁ、もうどうせだめでしょ。はは。」

「いつまでいるつもりなの?」

「うーん。観光しつつしばらくは滞在しようかなとおもってるよ。てか、長野って寒いね。」

「まぁね。で、さっきから何撮ってるの?」

「いや、買ったんだよね。デジタルビデオカメラ。これでツッキーの数奇な運命を克明に記録しようとおもってさ。自然に振る舞ってね。」

「なんだよそれ、疲れるからやめろよ。」

「いいじゃん。あとで動画サイトにアップするよ。」

「だから、そういうことするなってば。」

「いや、ツッキーがいつまで熊で居られるかわからないじゃない。だから、この記録はあとあと貴重なものになると思うんだ。それに、様々なメディアに情報発信してさ、ツッキーの社会的認知度を上げていけば、外を歩いても、ややこしいことにはならないと思うんだよね。」

「つまり世間に俺の存在が広く知れ渡れば、警察や猟友会につかまらなくなるってこと?」

「ま、そうだね。社会全体がツッキーを受け入れてくれたらOKなわけじゃない。」

「まぁ、そうなってくれれば俺も楽だけどさぁ、そんなに上手くいくかな。」

「とりあえずネットで発信するならお手軽だし、動画再生数が伸びれば収入とかにもなるみたいだから、警察や猟友会に捕まらないで、収入が手に入る一石二鳥のナイスアイデアじゃない。世の中なんて単純だからツッキーの日常を垣間みるだけで癒やされちゃう人なんか出てくると思うよ。猫の動画アップしてその広告収入で生活している人もいるんだしさ。みんな暇だよね。熊も猫も変わらないでしょ。」

良平は、首輪を持ちだしたときと同じような顔つきとトーンで話している。果して、良平の言うことを軽々に実行していいものだろうか。社会に受け入れられるのはたしかに厄介事が減っていいかもしれないけれども、無闇矢鱈とメディアに露出してサーカスの熊やゆるキャラのごとき見世物になるのは嫌であるし、また、癒やしとかって言っているけども、当初に目指した、野性を主軸に据えて熊を謳歌するというヴィジョンから逸脱してはいまいか。世間の好奇の目にさらされ、熊を、というか自分を見失うことになりはしまいか。という趣旨のことを良平に伝えてみた。

良平は左手で顎をいじりながら少しの間思案するような仕草をみせたが、その間も僕の事をカメラで撮りながら、話を続けた。

「野生のリアル熊はさ、山に食べ物がなくなれば、人里に降りるという危険を犯してまでも生きようとあがくわけじゃない。実家に住んでのほほんと家族と人里にくらしているツッキーが語る野性ってそれと比べるとすっごい安っぽいというか薄っぺらいというか表面的で滑稽だよ。まさにピエロだよ。だから、見世物になることを今更恐れるのはナンセンス。だって、すでにピエロなんだもん。そもそも、ツッキー、いや、古谷圭佑の人生がこれまでピエロではなかったと言い切れる?まぁそれはともかく、動画サイトのアクセス数が伸びれば、月に50万ぐらいになるらしいよ。すごいよね。」


言い終わってまだ良平はカメラを回している。僕は、ハリボテの熊が一輪車に乗ってクルクル回るところを連想していた。中身の無い滑稽な野性がそこにはあった。たしかに、良平の言うように、実家で安穏と暮らしている僕には野性はない。僕は熊という状況に混乱し、すでに振り回されていたのだ。主体的に選択し、能動的に行動しているようでいて僕は迷走していただけなのだ。視野を狭め、熊といえば野性という短絡思考に陥っていたのだ。

今ならまだ軌道修正はできる。認知度をあげ、僕の居場所を人間社会の中に确保していくことこそ喫緊の課題であろう。まぁそれはともかく、50万円か。お金はあっても困るものじゃない。熊を謳歌することと、貧乏でいることは決して同じではないのだから。僕は、良平の動画配信プランを承諾した。


そんなわけで、良平はせっせと僕の動画を撮影しては動画サイトにアップするようになった。内容は、僕がカメラの前にちょこんと座り、良平が放り投げるリンゴをうまくキャッチしてまるごとサクサクと食べ、「はじめまして、ツキノワグマのツッキーです。リンゴが大好きです。」というセリフを吐くだけのシンプルのものであったが、動画をアップして2日目ぐらいで、数件のコメントがついた。内容は「リアルすぎるだろこの熊www」「よく調教されていますね。でも、なんで普通の家に熊がいるんですか?謎です。」「ツッキーかわいいwwハチミツ舐めてほしいww」「クマーン(白目)」「アフレコ秀逸だなwww」等々、たわいの無いコメントであったが、しだいに、ツイッターやフェイスブックに動画のことが広まると、しだいにコメントと閲覧数が増えた。【動画あり】リアル熊がお茶の間に降臨【ツキノワグマのツッキー】というまとめサイトができたり、某巨大掲示板に複数スレッドができたり、多くのブロガーが僕のことを取り上げたりしはじめた。TVのネット動画特集にも取り上げられ、某アイドルグループのSNさんがメディアでツッキーのファンだと語ると、動画サイトの再生数は爆発的に伸びに伸びて月間で合計200万再生を超える状態となり、動画以外にもアフィリエイトもやっていたため、一ヶ月後には僕達の手元に72万円が転がり込んだ。良平は「今のところ順調だね。でも、もっと話題になるはずだよ。」と冷静であったが、僕はなんだかあまりにも上手く行き過ぎではないかと少々不安になった。が、72万円である。大学生の僕の理性を削り取るのには十分すぎる額であった。


僕の不安と理性を置き去りにして、ツッキーの認知度はますます上がっていった。それにともない良平は公式サイトを立ち上げ、ツッキーとの交流窓口にした。早速、その窓口を通して「リンゴを美味しそうに食べるツッキーの動画いつも楽しく拝見しています。」というコメントとともに、地元のリンゴ農家からツッキーあてに大量のリンゴが届いた。そのリンゴを利用して、1分間でリンゴを何個食べられるか挑戦するフードファイト的企画を動画にした。1分間に30個のリンゴを立て続けに食べたときは達成感よりも胸焼けがした。が、これも話題になった。また、【熊とガチに相撲をとってみた】という企画では、良平がなんどもなんども僕に投げ飛ばされるというシュールな映像をとった。その反響はすごく、「熊強すぎワロタwwww」「危険過ぎだろwwwでもウケルwwwww」「リアル金太郎かよwww」等々のコメントが付き、相撲協会から良平と僕へ「次回はこれを着けてお願いします。」というコメントとともに二人分のまわしまで届いた。それをきっかけにして、良平はコミカルなダンスを考案した。相撲の要素とパラパラを巧みに組み合わせて踊るこのダンスは、ドスコイ・パラパラと名付け、二人でマワシを着けてたどたどしく並んで踊る映像は、子供からお年寄りまで幅広く支持され、僕らの人気は空前の熊ブームとして日本中にあまねく広がっていった。僕らは、冬休みが明けてすぐに、学校に休学届けをだした。良平は、長野に5LDKの2階建ての一軒家を借り、そこを住居兼事務所とした。田舎とは言え、一軒家を借りるにはそれなりの資金が必要だったけれども、それを支払って有り余る資金を僕たちは手にしていたのだ。


毎日のようにツッキー公式サイトを通して様々な依頼が舞い込むようになった。熊本県のご当地キャラとの共演、環境保全団体のマスコットキャラクターへの起用、ドラマ出演、映画出演、写真集出版、エッセイ執筆依頼等々、内容は多岐に渡ったが、僕らはそれをガンガンとこなしていった。そんな日々を過ごすうちに、熊になってから半年が経過した。季節は夏の一歩手前まできていた。僕は、当初、熊ブームは一過性のものとしてすぐに飽きられると予想していたのだが、さにあらず、良平のツッキープロデュース力は秀逸で、メディアミックスを巧みに利用した企画は常に社会現象を巻き起こし、ブームは続いていた。良平の事務所には、様々な人が出入りするようになり、いつの間にか良平をサポートするスタッフを数名雇う形になり、それに伴い、事務所を法人化した。法人名は悩んだ末、 【YET ANOTHER GOOD BEARS Inc.】という名前にした。GOODは良平の【良】の字から来ている。直訳すると【さらにもう一つの良いクマ】になるのだが、暗に非公式の熊という意味をはらんでいるらしい。良平が考えたネーミングだったから、僕は素直に従った。僕はこの頃、良平のセンスに全幅の信頼をおいていたし、非公式という言葉は人間と熊の間に位置する僕の微妙な立ち位置と心理を見事に表しているように思えたからだ。人間からも熊からも等しく距離を置いた非公式の存在、それが僕。


ツッキーの人気は日本中を席巻した。僕は熊人間として、確固たる地位を築いた。その一方で、不安もあった。【YET ANOTHER GOOD BEARS Inc.】のスタッフの数は今や30名を超え、スタッフの生活基盤はツッキーの活躍を大前提としていた。もし、僕がある日突然熊から人間に戻ってしまった時、スタッフの生活はどうなってしまうのだろうか。そんなことを思うと、一日でも長く熊として存在し、なおかつ、人気を維持しなければと思った。が、人気はともかく、熊の状態を維持するための方法は全くわからなかった。ある朝目を覚ますと僕は人間に戻っているかもしれない。そんなことを考えるとツッキーブームを手放しに喜んではいられなかった。そんな不安を良平に話してみた。良平は、事務所のPCでグリズリーというアニマル・パニックホラー映画を見ていた。新たなツッキーの仕事のプランでも練っているのだろうか。

「なぁ、良平、俺が普通の人間にもどったらどうしようか?」

良平は、映画の再生を止めると僕の目をじっと見つめた。

「・・・・ツッキーその話はとりあえず、外で話そ。」

そう言うと良平は、僕を連れて屋外へ出た。もう夏の風がそよいでいた。全身の黒い毛がかすかに揺れた。

「ツッキー、その件に関しては事務所内で話されたら困るよ。でも、まぁ、たしかに、ツッキーが人間にもどった時のことは何も考えてはこなかったなぁ。はははははっ。」

良平は一瞬困惑した表情で僕を見たあとに、一転して無邪気に笑いながら言った。

「なんだよ、良平、無責任すぎるだろ。一応、会社の代表だろ。スタッフの将来とか考えてないのかよ。」

「ツッキーだってなんも考えてないじゃん。」

「俺は、色々考えているよ。どうしたら、長く熊でいられるかとか。」

「えっ?ツッキー、熊を維持する方法ってあるの?」

「いや、無いけど・・・・」

「・・・・・・それじゃー意味無いじゃん。考えているだけじゃん。念じているだけじゃん。」

「考えてるだけましだろ。」

「考えてるだけって、それ、意味無いじゃん。俺は少なくとも現状を最大限に生かす企画とか戦略とかは色々考えてるし、なおかつそれを実践しているよ。ツッキーはただ単に熊なだけじゃん。念じてるだけじゃん。」

「なんだよ、ただ単に熊って。じゃあ良平が熊やれよ!!」

「まぁ、ツッキー落ち着いてよ。少なくとも、今、古谷圭佑は熊のツッキーで、ツッキーブームも順調で会社の運営も軌道にのっているんだよ。未来のことなんて誰にもわからないんだし、ツッキーが一人で不安がって色々念じても意味ないんだからさ、今やれることを精一杯やろうよ。人間にもどったら、以前の生活に戻るだけじゃない。スタッフの人たちだって、自己責任でこのツッキーブームに乗っかっているわけだしさ。ゼロからスタートしたものが、ゼロに戻るだけの話じゃない。」


確かに良平の言うことは正論であった。僕は単に熊で、単に不安がっているだけで、現状を維持するための実際的な方策を考えたり、行動したりはしてこなかった。スタッフの将来などと話を持ち出してみたが、実際のところ考えていたのは自身の保身のみだった。僕はなんと卑しく自己中心的な熊人間なのだろうか。今の成功があるのは、僕の熊的魅力よりも、良平やスタッフの日々の様々な努力の積み重ねによるものなのに。僕は「わかった。今を頑張るよ。」と良平につぶやき、二人で事務所に戻った。事務所にもどると僕は2階にある【ツッキーさんの部屋】という6畳の和室にごろっと寝転がった。







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