砂城は西に。
――本当のこと言ってくれよ。誰にも言ったりしないからさ…………。
*****
僕こと西原孝太には昔、友達、がいた。昔といってもそこまでさかのぼるほどの時間は経っていないが、確か、小学三年生までの期間だろう。
――友達ってそんなに必要なものだろうか。
その疑問はぐるぐる僕の日々につきまとって、未だに存在を主張する。胸に影を落としている。
僕の周りの大人や同年代の子達も、僕のそういうところをわらうし、みんな、同じことを重ねるように口に出す。こんな感じ――それで、友達は出来たの? ――まるで、友達作りが義務のようだ。半ば強制的なもの言いなので、僕としても――ううん、いないよ――正直に答えることが癪な気がしてくる。何で絶対作らないといけないみたいに言うんだと返したこともあったけど、そんなときは大抵、いや別に個人の勝手だけどね一人もいないと何かと困るんじゃないかな……なんて言うんだ。
こっちが真剣に問うているのに、僕の話をちっともとりあってくれない。君はね、物事を少々難しく考えてしまうらしいね。もっと肩の力を抜いて楽にしたまえよ……これは校長先生のお言葉だったかな。
彼らの意見がまるっきり悪いとは思わないし、正しくないなんて言わないけど、それを無理くり押し付けようとする輩もいるもんだから、ついつい友達作りに対して不のイメージばかりが先に立ってしまう。僕には僕なりの考えがあるんだ! なんて反発心さえわきあがってくる。
友達……そんな存在がもしいたら、きっと楽しいんだろうな。学校生活はもうちょっと潤うんだろうな。
欲しくないのか、と聞かれれば、やっぱり僕だって友達が欲しい。ひとり、たったひとりでもいい。多さなんて関係無いから僕にとってとっても大事な人が欲しい。恋人と友達っていうのは、これもやっぱり違いがあると思う。すごく似てるけど違う。何も経験していない僕が言っても仕様も無いことなんだけど……。とにかく、むやみやたらに作るもんじゃないっていうのは共通してるよな。
ええと、なんだったかな。ああそう! 友達の話だった。危うく恋と友情の違いについてに移行するとこだった。それではこれから西原孝太の昔話を始めようか。
*****
元々は沼地だったある埋め立て町の一角に、極々普通の小学校があった。といっても、一学級二十程度で編成された、全校児童の人数からして小規模学校だった。その学校を取り囲むように緑がそびえ立ち、鹿や栗鼠なんぞがちょくちょく顔を見せてくる環境にあった。
そこに、毎日のように目を赤く腫らしている少年が、俯きがちにやってきた。背はひどく小さくて地味くさい顔立ち。遠くを見るとき目を細めてばかりいたので普段から横線のような目だった。
少年は幼稚園時代にはすでに泣き虫なので有名だった。些細なことでぶわっと泣き出して、えんえんと泣きじゃくっていた。先生がどんなになだめても、簡単には静められないのだった。一たび泣き出すと止めることの出来ない性質で酸欠状態に陥ることもザラだった。
彼が憶えていること――くっきりはっきりしているのは全部で三つ程しかない。
一つ。熱く腫れぼったい目で教室の扉の前、無邪気に遊ぶ子どもたちの様子を硝子窓からしゃくりあげながら見つめていたこと。
二つ。みんな外の遊具で遊んでワイワイやっていたというのに、一人だけ幼稚園の畑にいて、夏の炎天下、向日葵の種の幾何学的な密集パターンをしゃがんでじぃと見つめたこと。
三つ。幼稚園のお泊り会で真っ赤に熟れた美味しい西瓜を食べたこと。
どれも大して面白みのない思い出。一人ふらふらとみんなの輪から外れて行動する印象が強いように思えるだろう。確かに少年は孤独に遊ぶことが多かった。その当時の心境がどうだったのかは今は成長した僕にもよくわからない。さみしい、とは感じていなかった気がする。気がするだけだ。多分。
少年はいつも一人というわけでもなかった。二人、遊び友達がいた。そのうちの一人とはのちの小学校に上がってからもしばらく交流があった。ただ彼女の場合、食道かどこか悪いらしく、入院していてずうっと会えない日もあった。けれども体調の良い日にはままごとをしたり、フラフープをまわして遊んだりしていた。一日中どこへ行くにもくっついていた。今だったら信じられない行動だと思う。だけど、あの頃はみんなまだ良くも悪くも無邪気だった。少年も友達作りを当たり前のようにしていた。
沼地の小学校には知っている顔が全くなかった。彼の通っていた幼稚園は小学校よりかなり離れた場所だったから。彼らはみんなもっと近くの幼稚園や保育園の出だった。つまり、彼を除いてはもうすでに小さな仲間の基盤が築かれていたというわけ。彼は急に尻込みして誰とも話しかけられなくなった。持ち前の傍観の立場をとった。いろんな子がいる、とぼんやり思っていた。
新たな環境で既存の小社会に化学反応を起こそうという輩がいなければ、きっと彼は運動会でも孤立を極めていたに違いない。少年は向こうの働きかけがあって初めて口を開いた。長いこと閉ざしていたので上手い会話にならない。もとより、ゆっくり話す人間であったので、折角近づいた周りはいらだってだんだんと離れてゆく。身振り手振りや声の調子が大げさで、そのくせ顔は無表情にしているものだから不気味がられる。どうしようもない。
それでも彼の同級生たちは辛抱強く接した。とても良い人たちである。見捨てるほうがどんなにか容易かったろうに! 彼らは少年の特性を黙って飲み込んでくれたのだ……。
あるときは少年たちが「おーい、一緒に遊ぼうぜ!」。校庭の古ぼけたジャングルジムで戦隊ヒーローごっこに誘ってくれた。
またあるときは、女の子たちが「一緒に『はないちもんめ』しよう?」。そう言ってためらう少年の肩をぽん、と叩いた。
半年経った頃、隣の組の子―一学年につき二組しかなかった―とよく遊ぶようになった。それは学校というくくり抜きの遊び相手。いつの間にそんな関係を結んだのかはやはり思い出せない。二人はしばしば互いの家を行き来する仲だった。
お誕生日会をやるんだからきておくれよ、とその子が言うと必ず何か贈り物を持って祝ったし、新しいおもちゃ買ったんで見にこいよ、と言われるともちろん彼の家に行った。歩いてそう遠くない距離に家はあった。
少年はいつしかその子を友達と考えるようになった。ほかの子たちと違ってたくさんお話しするし、遊ぶし、一緒に登下校しているし……。家にも何度か上げてるし。でもこれは少年の両親にとっては微妙だった。おやつを出したときは嫌いな食べ物だから違うのがいい! と駄々をこねてみせたし、なにせ、おじゃましますやいただきますなんかも言わない。礼儀のなっていない子は好きじゃないわ、と見送るなか母は呟いていた。物の扱いが少々乱暴なところがあって、家の中をどたんばたんと走り回る。少年の家は借り家だったから近所迷惑で訴えられやしないかとおろおろする母。
少年――孝太がその子(仮に園田耀一としよう)の家に行くと決まって耀一は溜息をついて言う。
「孝ちゃんはしゃべるのホントとろいねえ。もうちょっと努力して話そうとか思わないわけ?」
「あはは……そういう耀ちゃんはどうして早くお話しできるの?」
孝太にとって一番疑問だったのがこれだ。彼は一度きちんと頭の中で試行錯誤してから言葉を口に出す癖があった。だから、時間遅滞は当たり前だった。
「さあ? 知んねえよ。てゆーかさ、きいてよ。ぼくの兄貴ヒでえんだ。ゲーム機器独り占めしてやんの」
「ふうん、大変そうなんだね」
少年は気のない返事をする。実のところ孝太はテレビゲームというものをあまり知らなかった。やってもお料理ゲームとかリズムゲームくらいだったので、友達の遊ぶような格闘ものは未知の世界。そして興味もなかった。架空の世界相手に必死になっているなんて虚しくないのだろうかというのが孝太の考えである。というより、母親が良い顔をしないから……なのかもしれないが。
「そうだ。ぼく、歌つくったんだよ。きくかい?」
「うん」
少年の歌声はあまり聞こえのいいものではない。しかし自分で旋律を編み出したりそれを口ずさむことが彼はめっぽう好きだった。家ではしょっちゅう音楽が溢れていた。童謡だったり懐メロだったりいろいろ。そのせいか、孝太の生み出すものもそんな世界観が反映されているようだった。
「……どう? 今回は全然自信ないんだ。行き詰っちゃって」
「うーん。ぼくにはわかんないや。それよりさ、ぼくとピアノをひこうよ。ママがもう一つ買ってくれたんだっ」
少年はやわらかく微笑む。「おけいこ、楽しい?」
「いや? だっきらいだよあんなの! ぼくの演奏にケチつけるんだもん。それに、毎回課題が出てるんだぜ? いやになる……」
友人のむき出しになった歯の奥のほうがきらり、光った。最近の彼は矯正器具を歯につけているらしい。高そう……。
いつだって孝太にはないものを彼はもっていた。ピアノ、ゲーム、とても暖かな家、たくさんの習い事をするためのお金と素質。孝太は羨んでさえいた。
「そんなにいやなら、やめればいいのに」
「だって、ゆったらママが怒るもん……いえるわけねーよ!」
「え。いったら、怒られちゃうの? なんで」
「『耀ちゃんがやりたいっていったことなのに。せっかく、お金出してあげたのにどういうこと』だってさ、ゆうに違いないよ」
「ふうん、そういうものなのか」
楽しくもなんともなくてただ苦痛に思うだけならやめたほうがいいと思うけど。だって、それこそ時間とお金の無駄だ。
少年は小さな欠伸をもらす。どうも、波長の合わないときがあるのだ。耀一とその家族とは。
ときは三年経ち、少年は三年生は校舎の二階、校庭の見渡せる硝子窓の柵にもたれて、ぼんやりしていた。横を数人の女子がやたら楽しげに通り過ぎた。教室に目を向ければみんながノートを手にわいわいしているのがわかる。
最近彼らの間では交換日記が流行りなのだった。孝太も一度参加したことがある。なんてことない内容を面白おかしく膨らませて書いて、それを次の当番に渡す。その子は感想とかを書いて自分の周りの出来事を誇張してそれも書く……の繰り返し。たいした意味はない。ただわいわいおしゃべりしていたいだけなのだ。
孝太は書き方がわからなくて悩んだ。自由すぎるのだ。どんなことをどんなふうにも書いていい。ルールがない。その仲間が楽しそうならなんでも。少年には彼らを楽しませる才は持ち合わせていなかったらしい。早々に脱退した。
孝太はなにもかもが楽しかった。そして、それ故になにもかもが怖かった。この数年で砂のお城は立派にらしくなっている。海のひだがかすめもしなければ完璧といえる。みんな同じ大きさのお城を波打ち際に並べている。彼は、同級生となんら問題なくおしゃべりしたり、体育館でボール遊びをしたりする。
本を読むことも好きだった。図書館に毎日のように通いつめるので、本が恋人、なんてからかわれたりした。いいのだ。そんなの放って置け。
……なんでも順調だと思っていた、ある日のこと。
「先生、私のかばんについていたクマさんが誰かに盗られちゃったみたいなんです」
女の子が先生にそう言った。
「坂上さん、いつから見当たらないのですか」
「今日! それよりも早く! 私のクマさんを盗った犯人を捜してくださいよ」
「そうですか……誰か、彼女の失くし物を見かけた人はいませんかー?」
みな、知る由もなかった。彼女はあの水色のかばんにいつもじゃらじゃらとキーホルダーをぶら下げていたし、それは日に日に増えていた。そしてそれを得意げにしていた子なのだ。周りがみな赤や黒のランドセルを背負っているのに彼女だけ違った。やっぱりそれも彼女は誇らしげなのだった。
それが、今崩れた。正直言って、自業自得という感じだった。もともと落として駄目なものはつけてくるなというルールがあった。彼女は文句なんか言えない立場のはずで。髪の毛がたっている。顔色が悪い。
「盗ったのよ! 私の、誰かが欲しさで盗ったんだわ!」
高慢。彼女は悲鳴交じりの声で先生に泣きつく。そんなことしても、教室は彼女に酷く冷たかった。このときは。
「では、見つけた人は先生に教えてください。みなさん、帰ってもよろしい」
さようなら、先生。そう全員の唇が動いた。坂上さんはハッと目玉をせり出してこっちを見た。恐ろしい目だった。
鉄砲玉のように赤と黒のランドセルが教室を飛び出す。家で遊ぶ話をしながらがやがやと。
あくる日も坂上さんは、犯人探しを続けていた。孝太が脇を通り抜けるとき、彼女が言った。「ねえ、犯人探しを手伝ってくれる? 西原くん……」媚びるようなその目つき、声音に少年は吐き気がした。女らしさがそこにはあった。小学三年生の彼には恐ろしいものに見えた。
少年はぎょっとした後、首を横に振って男子たちの許へ駆けた。そこでちら、彼女を見たら、その周りに固まっている女子たちがなにか囁きあっている。
男子の一人がそちらを眺めつ誰にともなく呟いた。
「女って怖ええのな」
孝太はそれにコクリ、頷いた。しかしちょっとして首を傾げた――男子だって怖いときあるな。だから、そういうくくりでひとを見たくなかった。
しばらくして昼休みになった。少年は尿意を感じてお手洗いへ走った。便所から出るとき、砂の城が浮かんだ。みな、同じ大きさで一列に並んで……。
少年はぎくり、教室に入る手前で固まった。さあ、と血の気が引いてゆくようだった。学級全員が教室内からじぃ、とこちらの様子をうかがっている。気持ち悪いくらい固まって、たくさんの目が目が目が少年を映している。
結構仲が好くなった奴、大人しい少女、正義感あふれる奴。みんな坂上さんのお城に寄り添って少年という波から崩れてしまうのを守ろうとしている。そう、僕は彼らにとって波みたいなものだったのだ。真実がどうであれ。
「西原くん、なにしていたの? すぐどっかいっちゃったから、みんな心配したのよ」
薄ら笑いが全員の顔を支配している。孝太はただ答えることしかできない。
「なにって……トイレにきまってるでしょ」
「ふーん? そうなんだあ。トイレならなんだって人目につかないし、なんでもし放題よねえ……」
「え……ぼく」
何でそんなこと言うんだろう。孝太は鼻の奥がつん、と痛くなるのを感じた。
「違うよ。きみたちが考えてることはいくらなんでも飛んでるよ。ぼく、ぼく……おしっこしにいっただけ」
「うそだわ! あんたは私のものを水に流したんだわ。言い逃れようったってそうはいきませんからね」
そう言うと坂上さんは近くの男子に少年の動きを封じるよう指示した。孝太のひ弱な力ではひとまわりもふたまわりも大きな彼らに敵うはずない。
「――あんたの持ち物、全て確認させてもらうわ。トイレもね」
少女はそうまくしたてると腕を組み、仲間の許へ戻った。そう、彼女はリーダーになる素質があった。みな、彼女に集まり、従う。こんなに学級がまとまったことがかつて一度でもあっただろうか。孝太は彼らが自分のランドセルのなかを漁り、机のなかや巾着までも漁ろうとしているのを涙目に見た。
「ね、ないでしょ……? もう、気はすんだでしょう?」
「まだよ! あんたのほうが終わってないわ!」
彼女はぎらぎらと底びかる瞳で完全にすくみきっている少年を睨み付けた。彼女の合図でみんな少年のズボンのポッケやら上着やらを探り始める。それまでは堪えていられた感情の波がとうとう防波堤を超えてしまった。ぽろぽろというよりだああああ、というふうで泣きながら少年はわめく。
「そらっ これでもう、十分わかっただろう!」
「みなさん、いったい何してるんですか! もう始業のベルが鳴りましたよ!」
そこへ先生が今まで見たこともない厳しい顔をして、やってきて、少年に服を着るよう言った。少年は目が真っ赤になっていて、わなわな屈辱に燃えていた。そこかしこにビリビリと破けた孝太の服の切れが舞っていた。
一同、しーんと静まり返った。誰も動かない。
「……さあ、自分の席に着いて。西原君も」
おそるおそる、全員が先生の顔を見上げた。我に返った、という顔がほとんどだった。みんなさらなる怒りが自分たちの頭上に落ちることを想像した。
しかし、先生はパン、と手を叩いてにっこり笑った。
「号令、始めてくださいな」
その日あったことを孝太は一言だって口にできなかった。そこまでひどいことをされたわけでもなかったし、親自体、今は忙しかったのだ。余計な苦労を背負わせたくない。
学校では、相変わらず、少年はちょっとした嫌がらせを受けていた。孝太がそばを通り過ぎるたびひそひそ話をするのだ。ぶしつけにじろじろ見てくるのだ。
――内緒話は、嫌いだ。
でもそんな日々は長く続きはしなかった。というのも、親は独特の勘で子どもの身のまわりの変化を見抜いてしまうのである。そしてやたらしつこく尋ねるのだ。「学校で何かあったの?」
「別に、なにもないよ。どうして?」
「ふうん。ほんとに?」
このときの孝太の気持ちは僕にはわからない。確か、ばくばくと心臓がうるさかったな、くらいしか思い出せない。
「私たちってね、そうやって自分の子どもに、勝手に慮って陰で泣いていられちゃうほうがよっぽど辛いんだよ。後で知らされるほうがとても傷つくんだよ……」
母は、寂しい目をして少年を見ていた。なおも孝太は洗いざらい話すことがためらわれた。
「話して」
何故話せたのだろう、と今でも不思議に思う。僕は母のそんな疲れたような顔が見たくなかったのかもしれない。けれど、そうしてなにもかも語り終えると母は安心させるように子どもに笑いかけた。「大丈夫。明後日には解決しているよ」
「うん……でも、たいしたことじゃなかったんだよ」
「でも、クラスの子たちにあんな目で見られて辛かったんでしょう?」
そうだ。けど、一般に世間で騒がれるような、問題として取りだたされているようないじめは僕が経験したものなんかよりもっとずっと……ひどいはずだ。僕のがいじめと言えてしまうのなら、そういういじめを受けている他の子たちのはなんて言えばいい? 申し訳が立たない。それに、僕はいじめられていた、なんて彼らに失礼だし、いじめられていたんだよ可哀想でしょ? なんて同情心を煽っているような変な気分になる。
母はそれでもこれをいじめと言う。彼女だって数々のいじめを目撃していたはずなのに。
実際、それからは急展開した。そして僕が話してまだ二日目だというのにもう事件は幕を下ろした。
僕は母に、母は先生に、そういう連携であっさりと終わった。昨日、先生はみんなを叱りつけてもう二度とするんじゃない、というようなことを言ったらしい。僕はその場にいなかったから知らない。僕としてはいじめの謝罪なんかより違うことのほうが辛いことだったんだから。
先生は一冊のノートを掲げた。何人か紙のような児童が出た。ああ、交換日記じゃないか。どうしてこのタイミングで出す? 全然関係ないでしょう、先生。
「――ここに、クラスみんなの過ちが書き残されています。西原くんへの」
そこには、『西原って鈍いよな。ていうか、母親に言ったらしいじゃん。まじうぜえ』、『一人じゃなんにもできないチビのくせに』、『ああいうトコがイラつくよなあ。ボク全然悪くないもん! みたいなさあ、被害者面してんじゃねえぞってカンジー』。そして最後には、『西原をとっちめようぜ(笑)』。
みんな、いやいや従っていたわけじゃないんだ。みんなもそう思ったからこうすることを自分でも選んだんだ。僕とみんなのお城が一列に、同じ色や形で建ってはいなかった。
僕が一番驚いたのは、そのやり取りの最後の日付が昨日だっていうこと。大人が注意したのにそんな……という思いだ。みんな反省しちゃいなかった。
僕は、知らなかった。なんにも。
その日の帰り道、久しぶりに耀一とおしゃべりをした。最初は取り留めのない話で馬鹿みたいに盛り上がっててさ。それなのに、僕がもうずっと忘れられないときは、幸せな過去にしがみつく僕を引きずってあの瞬間に立ち会わせるんだ。今の僕になる決定的な分岐点。あの嫌な記憶に。
耀一が不意に僕を追い越してくるり、とした。そうすることで僕らは向かい合う形になる。耀一はおどけてみせて、言った。
「……なあ、お前いじめられてたんだろ? そういうことは、ちゃんと言えよな。オレ、味方になってやったのに」
「うん、うん……ありがと。ごめんね、言わないでいて」
僕の脳裏を、友達という言葉がかすめて光った。どうして彼に打ち明けてしまわなかったんだろう! 言えばきっと助けてくれた。なんで信じて話そうとか彼のことを思い出そうとかしなかったんだろう。
やっぱり、耀ちゃんは僕の友達たる、そう思いかけたそのとき。
あの言葉が瞬間がやってきた。
「――本当のこと言ってくれよ。お前、あの女の盗ったんだろ……? 誰にも言ったりしないからさ、な?」
なに言い出すんだ。
彼はいったい僕のなにをきいていた? 僕のなにをわかる? 信じてくれないわけか。これっぽっちも。形だけ、表面上の薄っぺらい慰み? 心ない言葉! 僕にとって、これは、どんなものより辛い痛い悲しい暴力だ。
「なに……言ってるんだよ。僕、なにも盗っていないって言っただろ!」
僕は焦った。友達と思った奴がそんな、奴なわけあるもんか。砂の城は海水を吸ってぶよぶよ。今にも壊れそう。
「そんなこと言っちゃって! やったんだろ? あ、あの女が好きでもしかして――」
「馬鹿! そんなんじゃないったら。もう、もう、お前なんか! 知らない!」
へらへらと実に空っぽの脳みそで彼が僕をそう決めつける。まあ、仕方ないよな。あいつは可愛いし美人だからな。好きになっても仕方ない。みんなあいつが好きになるし普通だ普通。
普通? なにが、じゃあ、普通じゃないんだ?!
彼の僕を見る目は明らかに軽んじ蔑む目だった。なんてこと。
彼の前で泣くなんてさらに屈辱を味わうのが嫌だった。だから彼の許を離れて逃げるように家に帰った。母の、なんてことない優しい目が視界に入ったとき、僕は溜まっていた水を全部、彼女の手のひらに落としてしまった。しかし不思議と思った以上に僕の涙は乾いていて、もう幾らも出なかった。「どうしたの?」母が穏やかにそう言って僕の背をさすった。僕は話しながらとうとう気持ちが堰を切って流れ出すのを感じた。僕は僕一人じゃ泣けなかった。
*****
僕が友達を作ろうとしないのはこんな理由だ。友達という自分の中の定義が崩壊し、修復しようとしたものの捻じれてもとに戻らなくなったのだ。
そんなわけで僕は友達についてはよくわからない。友達になれたら――なんて思うことはたまにあるけど、怖くて。また同じことが起こるんじゃないかって思うんだ。人間は完全に相手をわかり合えたりしない。心ない言葉を平気で口にする生き物だ。僕もきみも、いつ裏切るとも知れない生き物だ。
本を読んでいると時折、本当に羨ましてたまらなくなる! こんなにすてきな真っ白な関係! 僕もこんなふうになりたいものだ。もっと気楽に構える余裕が欲しい。
でも所詮はおとぎ話。机上の空論。本のなかと僕らの世界の境界線は曖昧で近づいたと思えば遠ざかる。無理。今のところは。こうして過去にとらわれる僕にはまだ。人は存外、簡単に既存の考えを変えられないらしい。それでも友人が欲しいと思うのは悲しいかな、僕の心の裏側に張り付いた人間の本来の性なのかもしれない。