約束
「そうではありません。もう少し、礼節を持って」
露骨に嫌そうな表情をみせるマスターに、冷淡な表情で対応する。
それがマスターとしての務め、などと強いるつもりはないが、それでもある程度の品格は欲しいところだ。かつてのマスターを再現する必要はない。だが、それでもマスターとしてふさわしい立ち振る舞いというものがあるのだ。
まかり間違っても、あの不出来なホープのマスターのようにはなってほしくない。いや、なってはならない。ゆえに、ブリュンヒルドはアルテミスの礼儀作法を教え込んでいる。
「で、でもさ、やっぱり私は私らしく……」
「あなたらしさと無礼は別の問題です」
「で、でもシュノンはさ」
「シュノンは例外です」
「じゃあホープは」
「ホープは欠陥品です」
アルテミスの反論を特に問題なく論破して、彼女のふてくされたような表情がレンズ内に映る。
少々固いかもしれない、とは思う。多少融通を利かせるべきか、とは。
しかし、こういうものは初期教育が大切なのだ。最初のプロセスで失敗すると、後々に影響が出てしまう。
対人マニュアルを参照しながら、ブリュンヒルドは適切なワードをチョイスする。
「感情表現をする場とそうでない場を弁えて。あなたには立派なマスターになってもらいます」
「別に立派になんかならなくても私は……」
「私が構うのですよ、アルテミス」
ふくれっ面を検知。アルテミスの不満は募って止まらない。このような教育を施したことは初めてなので、データが圧倒的に不足している。そもそも、マスターがアンドロイドを自身に最適な状態へとカスタマイズするのだ。多少の礼儀作法や言葉遣いの訂正なら可能だが、根本的な改善などは本来アンドロイドの仕事ではない。
「これじゃどっちがマスターなのかわからないじゃん……」
「なら、小言を述べてないでマスターらしい振る舞いをしてください」
「マスターらしい振る舞いって何?」
「それは……」
言葉に詰まる。スピーカーから音声が未出力。
どうしてもメモリーから再生されるのは、シグルズ様の姿だ。マスターシグルズ。彼ほど高潔で素晴らしく、自身が畏敬の念を持って接することができたマスターをブリュンヒルドは知らない。いや、恐らくもう二度と彼と同じ品格を持ったマスターと出会えることはないだろう。
アルテミスはシグルズではない。比較に意味はない。
理性ではそう理解しているが、感情が唸っている。どうしても姿を重ねてしまうようだ。
「……私にも問題があるかもしれません」
ゆえにブリュンヒルドは認識を改めた。現状の心理状態での教育プロセス続行は困難。シグルズとブリュンヒルドは完璧なシンクロニティを実行できていた。最後の命令無視を除いては。
最後の汚点を除いても、ブリュンヒルドとシグルズの関係性は当初から完成されていた。最初から共感できていた……いや、共通の認識、目的があった。共和国の守護。その一点において二人は通じ合い、ゆえにこのようなわかり合いなど不要だった。
改めて、学習をする必要があるのかもしれない、とブリュンヒルドは考える。
ここから先は未知の領域だ。最初から成功してしまったがために、結果に至る過程の情報データが存在していないのだ。
「不本意ですが、彼女を利用するしかありませんか」
「じ、実はさ、少しウィッチに話を聞いたんだけど」
「ウィッチに? しかし彼女も」
「例外……変な関係だったんでしょ? 仲睦まじい姉妹のようだったって」
まさに姉に甘えるようにウィッチにべったりだったキルケーの姿が思い起こされる。アルテミスよりも若かった彼女は、情報処理以外のことはからしきだった。
天才肌ではあるものの、一点特化型。シグルズやヘラクレスのように総合的に優れていたわけではない。
その足りない部分を、キルケーはウィッチに求めていた。彼女がアンドロイドに一番求めた項目が愛であり、それがゆえにウィッチとキルケーの関係は不思議であった。
「さっきさ、シュノンとホープの話をしたけどさ、確かにあいつらは変人だと思う」
「それで」
ブリュンヒルドは傾聴する。拙いマスターの話を。
これは自分にとって良いサンプルになる話である。そう思考ルーチンは推測していた。
「あの子たちはマスターとアンドロイド……主従関係じゃなくてさ、友達感覚なの。それでさ……私はそういう関係が羨ましいと思ってるの」
「つまり、あなたは……私と友達になりたい、と?」
推論を述べると、アルテミスは恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「そう。ダメ……?」
「…………」
しばし、黙考する。シグルズと自身の関係ではまずありえなかったことだ。そして、それはホープも同じだったはずだ。キルケーとウィッチのような例外は数少なく、そのためにホープとシュノンがまさにそのような関係性に落ち着いたことにブリュンヒルドは少なからず驚いていた。
だが、もし。もしその形が最善であり、そして最高のシンクロニティを発揮できる関係だというのならば。
「……一考の価値はあるかもしれません」
「あー、うん。そうだよね、やっぱりだめだよね……へっ?」
「思索の余地はあると言ったのです」
「え、本当? 嘘じゃないよね!?」
「私は嘘などつきません」
ただ不必要な情報をカットして編集するのみである。新たなる思考実験の材料を得たところで、ブリュンヒルドは戦術データベースを起動する。
「ですが、どちらにしろこの件については時間がかかるでしょう。どうやら一筋縄ではいかないようです」
「うん、それは、それで……。時間が掛かってもいいんだし」
「絆に関しては、それで問題ありません。しかし連携戦術を見直す必要があります」
「今度の作戦のために?」
「そうです」
戦術面に関しては、アルテミスは目ざとい。その点についてはあまり心配はいらなそうだ。
しかし、問題は敵だ。生死不明のアレスを除いても、否、除くからこそ敵の戦力は未知数だ。
「アプロディアとヘスティア、そして、ゼウス……」
「その三人はまともな戦闘データが記録されていません。あなたの情報のみです」
「でも、私もあの三人とはまともに関わったことがない……ごめん」
しおらしく謝るアルテミス。構いません、と彼女を気遣いながらも、ブリュンヒルドは危惧する。未知の敵ほど恐ろしいものは存在しない。アレスのように強さを理解できれば、それなりの対処方法を構築できるからだ。
とは言え、油断ならないものの、二神に関しては対応可能だろう。
問題は……最高神。自部隊を管轄に置いていたオーディン様を直接抹殺した相手。
「ゼウスはオーディン様を殺した、とされています。正確な記録がないのでわかりませんが」
ブリュンヒルドは空間にホロモニターを呼び出して、情報出力を始めた。アルテミスがモニターを興味深げに眺める。画面には白髪の老人が映っていた。左目に眼帯をしている老人は宇宙探査計画の提唱者である科学者だ。
同時に黄金の種族でもあり、優れた人格者、そして、戦闘に長けた歴戦の戦士でもあった。
「この人は……この人も、何でもできた」
「三十世紀最も完璧な人間であり、もし神という称号を誰かに当てはめるとするならば、間違いなくこの方でした。ゼウスが最高神というのなら、オーディン様は主神でしょう」
ある種、直属の上司……長と言うべき存在だ。ヴァルキュリアを組織したオーディンは、矛となるべきプロメテウスと連携を密にして、盾となるべきヴァルキュリアを適正に運用してきた。
かつての大戦で黄金の種族として覚醒したオーディンは、アルテミスの言葉通り何でもできた。しかし、不遜な考えに至ることもなく弱者を救い、相反する者を説き伏せ、拒否する者にも手を差し伸べた。
ゼウスと似ているようで、決定的な違いは民を第一に考える男だったという部分。ゼウスは市民を使い捨てにするが、オーディンはたったひとりを救うために自身の命すら平気で賭す。だからこそ皆は尊敬し、彼の提唱したプランに惹かれたのだ。
似た者同士のようで明確な差異のある両者は、生前のオーディンの発言から何らかの確執があったとされている。が、詳細は不明だ。
「ゼウスはオーディンを目の敵にしていた。最近でも、オーディンに対して言及していたことがあったわ」
「オーディン様ですら勝てなかった相手に、我々が敵うかどうか。可能性は未知数であり、確率は不透明です」
しかし、だからこそその打開策としてシグルズ様は彼の復活を期待していた。もし彼が戻ってくれるのなら、今の戦力でも十分に倒せると最後まで信じていた。
だが、殺されてしまった。その願いが届くことはなく。
「勝つか勝てるかじゃない。勝つ、でしょ」
「……また不定形な言葉ですね。しかし……何もないよりは幾ばくかマシ、ですか」
アルテミスは敵の強大さを知っている。そんな彼女が放った誤魔化しは、言葉に力を付与する。
「では、シミュレートを開始しましょう」
ブリュンヒルドはモニターを操作してオーディンのフォルダを閉じると、訓練場を手配した。
前回のような無駄ではなく、今度は意義のある訓練を行うために。
※※※
「座標の特定に成功した」
オペレーションルームで告げられたメカコッコの発表は、出席したメンバーをざわつかせるには十分過ぎた。
皆が浮足立つ中で、ウィッチもまた高揚感を内部で観測している。しかし理性回路は適切に作動していたので、興奮を外に漏らすことはなかった。
「静粛に。まずは、と」
大型のホロモニターにロケーションを表示させる。そこは何もない場所、無縁高地だった。低い山が連なるその場所は、しかし自然の恵みがほとんどない荒れ果てた大地。
だが、ある意味隠れ場所としては最適な地域だった。何もない、ということは、何かを設置することができる、と同義だ。
「そこにグングニールが隠されていると言うのか」
「設置場所としてはふさわしい。連なる山々が良いカモフラージュになるし、暴徒が侵入してくることもない」
まぁ、仮に侵入したとしても返り討ちにあっただろうがね。メカコッコは続ける。
「グングニールは元々貨物運搬用の電磁射出機だ。彼らはそれを兵器に転用し、超電磁砲として利用している。どの程度の角度をカバーするかはまだ予測の範囲を出ないが、それでも安心はできない」
「地上から攻めた場合にも、撃たれる可能性がある、ということですわね」
「その通りです、王女殿下」
熱心に耳を傾ける姫様に同意する。隣のクォレンは腕を組んで唸る。
「では、どうするというのかね? 狙いを分散させるか、そもそも狙わせないか」
「後者は難しいですね。どうしても……」
大まかな位置は特定できたが、完全特定には至っていない。誰かしら狙い撃ちにされる可能性は十分残されている。もし死角があるのならそこを通って進撃するべきだが、生憎そこまで計測ができなかった。
一つだけ完全な死角がある。地下に通路を構築してそこを通るという作戦だが、それもあまりにも荒唐無稽であり、誰も口に出すことはなかった。そもそもリソース不足だ。下手に時間を掛けると半減させた敵の戦力を回復されてしまう、という問題もある。
「昔ならもっと大胆な戦術が取れたが、仕方ない。またもや戦地に向かう戦士に対して配慮のない作戦を実行しなければならない。それが私とウィッチが立案したオペレーションギガントマキアだ」
「地上と宇宙からの同時攻撃か?」
察したクォレンの質問にウィッチは首肯する。そのために全ての艦隊を残さずに、宇宙に部隊を残したのだ。
しかし、地上はまだ未確定だが、宇宙軍には多大な負担がかかる。決行するかどうかの最終判断は、司令官であるクォレンに任せられた。クォレンはしばし黙考した後、了承のサインを出した。
「構わない。私も宇宙に上がろう」
「あなたも、ですか?」
「そうとも。誰かが指揮を執らねばならない。となれば適任者は私だろう」
そう述べるクォレンは頼もしいが、ウィッチには苦々しいビジョンが映る。今もなお姉を案じて看病しているであろうリンだ。彼女は父親を救うべくかなりの無茶をした。そのことを責めるつもりはない。スレイプニールの指揮を執っていた身としては、苦い物があったものの、彼女の行動は結果的に功を奏した。
だが、だからこそ、この決定が正しいのか思い悩む。思考ルーチンは適正判断と優位判定しているが、心は我儘だ。
そこへクォレンは理解を示した。案ずることはない。戦士の顔つきで。
「娘に救ってもらった命、無為に投げ出すつもりはない」
「その言葉、あたしではなくリンちゃんに言ってあげてください」
「無論だとも」
「では、大体の方針は固まったようですね」
フノスが場に呼び掛ける。異論を挟む者は誰もいない。またもや単純な作戦であり、ウィッチとしては力量不足を感じる。本当ならもっと安全で、確実性のある作戦を立てたい。しかし、そのための時間も資源も足りていない。本音がいくら喚こうが、建前のままで決行しなければならなかった。
「後はこちらで人員と物資の調整をし、改めて貴君たちに伝達しよう」
メカコッコの言葉を最後に、指揮官たちが退室していく。残ったウィッチとメカコッコは、作戦の細部の取り決めにかかった。
人員配置は特に重要だ。今まで以上に。この選択次第で、死者の数が決定する。
「アンドロイドをどこに配置するか。黄金の種族の位置取りはどうするか。責任重大ですね」
「しかし、やりがいは大いにあるだろう?」
くちばしをずらすメカコッコの挑戦的な返事は、ウィッチの感情回路を燃え滾らせるには十二分だった。
※※※
――マルチロックオンシステム、正常稼働。目標捕捉、一斉射撃。
両肩に装着された二門のキャノンと同時に両腕に装備する大型ガトリング、両脚部に搭載されるミサイルパッケージを斉射して、自身に向かってくる敵軍をなぎ倒す。形式としてはレーヴァテインに近い一騎当千の追加パックだ。
正式名称リディルの名を持つこの装備は重火器で敵を撃滅するスタイルの装備であり、レーザーメイスを近接武器に採用する特異な武装だ。元々シグルズがブリュンヒルド用に設計した装備のようだが、ホープ用に再調整されている。
現在は、その使い心地を確かめるために訓練場でシミュレーションを行っていた。端ではシュノンと、偶然訪れていたアルテミスとブリュンヒルドが観戦中。
「ミョルニルパックの方が使いやすい、というのが正直な感想です」
テスタメントのホログラムを薙ぎ払いながら、ホープが率直な意見を述べる。
「だったら守りゃあ良かったのに」
ぼそりと呟かれたシュノンの独り言は真実だが、あの状況ではどうしようもなかった。格納途中にピンポイントで攻撃を受けたのだ。むしろ装備パックの破壊だけで済んだことが僥倖である。
「リディルはレーヴァテインほどではないものの、鈍重な装備です。しかし、砲撃戦においては間違いなく優位に立てる性能を持っています。……先陣を執るには最適かと考えますが」
「ヒルドさんのおっしゃる通り……ですが、機動性の確保が不安ですね」
「それなら私のプレミアムで」
「いや、今度の作戦に使うのはあのトラックじゃないわよ?」
アルテミスの突っ込みに、へ? と呆けた表情をするシュノン。何を言っているのか、と呆れ顔を出力して、ホープはマスターを窘める。敵にガトリングを掃射しながら。
「あんなポンコツでは砲撃でやられてしまいますよ」
「ポンコツじゃないって何度言ったら……! あなたの中身がポンコツ! ポンコツホープ!」
「なっ……シュノン!」
「ホープがポンコツという部分は同意ですが、プレミアムの使用には反対です。適正ビークルが支給されるのでそちらの使用を推奨、いや、強制使用していただきます」
毒を吐きながら撃ち込まれる援護射撃に苦り切ったフェイスを構築したホープは、キャノンの精度を確かめるべく遠方にテスタメントを配置した。照準補正を行い、デタラメなタイミングであえて発射する。それでも大型キャノンは敵を撃ち抜けた。素晴らしい命中精度だ。これならば、緊急時にも弾幕を張ることができる。
狙って当たるのは兵器として当たり前。狙わないで当たる兵装こそ、驚異的な武器と成り得る。
ホープがリディルの性能に関心を寄せている隣では、すっかり新型ビークルの話題で持ちきりだった。シュノンにとって見れば、ホープの追加パックよりも自身が操縦することになる乗り物の方が気になるらしい。それは信頼の表れか、はたまた……。
「で、そのビークルって何? この前のでっかいの?」
「そうじゃない? たぶん……」
「恐らくはこれでしょう」
言葉を濁すアルテミスをフォローするように、ブリュンヒルドがホロを浮上する。治安維持軍のミリタリーカラーである青色に包まれたビークルは、あらゆる環境に適応するために開発された大型の軍用車両だ。基本的には兵員輸送用ではあるが、搭載されるレーザーサイクルマシンガンは戦闘車両としても運用可能なほどの火力を占めている。
ブリュンヒルドが提示したのはそのタイプの中でも、後部が剥き出しとなっているものだ。パートナーであるアンドロイドが登場することを前提したビークルは、本来の人員輸送機能をオミットして、戦闘兵器でもあるアンドロイドが動きやすいように改良されている。
パッと見た印象では、それこそ図体のデカいプレミアムだ。決定的な違いは、プレミアムよりも大型であり、走行も厚く、移動性能にも優れている、ということ。つまり、完全な上位互換だった。
「これなら文句ないでしょ?」
「うん……スペック的にはね。でも」
「でも、とは?」
カタログスペックを閲覧したシュノンの表情がかげる。不思議とホープは答えを聞く前に共感できたので、彼女の心理問題の解決を図る。
「これが最後ではありません。プレミアムはあくまで冒険用。そちらのビークルは戦闘用ですから、用途に合わせて使用すればいいのです」
「そういうことでは……あるけど」
拗ねるように言うシュノンへアルテミスが困り顔を向ける。シュノンの友人とは言え、経験値が足りない彼女では理解が及ばないのだろう。
シュノンはプレミアムにこだわっている。あの車はクレイドルと冒険を共にし、ホープとも様々な冒険を繰り広げたある種家のような存在だ。そのため、最終決戦となるであろう今回の戦闘では、信頼できるホームであるプレミアムと共に出撃したいのだろう、とホープは推測できる。
変なところでロマンチストなマスターは、ホープにとって悩みの種であると同時に唯一無二の存在だ。ゆえに、安心性よりも安全性を優先して欲しいという希望から、ホープも新型ビークルの使用を訴えた。
「確実に、無傷で帰還するためにはそちらの使用がベストなのです。名前は……」
「スペシャルよ」
そう応えるとシュノンは唐突に歩き出した。どこへ行くの? というアルテミスの問いにも回答せずに。
その姿を横目で確認したホープは最後の一斉射撃を行うと、追加パックをパージしてシュノンを追いかけた。
シュノンの情緒は不安定である。そう多次元共感機能は裏打ちし、収集されたデータも心の不安を予測、今までの蓄積された経験からもシュノンの状態がおかしいというのは簡単に推測できた。
手早く言えば、怯えている。思えば出会った当初に比べると独特の言い回しの数が減っている。
その変化は良くあると並行して悪くある。彼女の精神状態はダイレクトに自分へ反映されるのだ。それが完璧なシンクロニティであり、だからこそ彼女には健全な精神状態を保ってもらいたい。
しかしそれもまた良くあり悪くある。この局面で不安を感じるということは、本来の人間らしくシュノンの心が移ろいだ証だ。以前のシュノンは暴徒に比べれば優れていたものの、どこかリミッターが振り切れていた節があった。
だが、今や安全装置が正常に動作し、機能が働いてセーフティが掛かっている。せっかく正常作動する装置を無理やり停止させるのは果たして正しい判断なのだろうか?
いや、正しいのだろう。もし勝手に単独で出撃したらシュノンは間違いなく怒る。
それは嫌だった。シュノンは怒っているよりも笑っている方が綺麗なのだから。
「シュノン」
「……ついてきたの」
滝壺近くの岩に座って、シュノンは壮大な、しかし偽りの景色を眺めていた。
水の音は聞こえるし、重力に惹かれて地面へと落ちる激流の荒々しさも目には映る。しかし、ホープのアイカメラと聴覚センサーはリアルタイムで別の、乾燥した岩肌と施設内の空調の音を捕捉していた。
偽物が悪いわけではないが、やはり本物でないと満足できないだろう。しかしシュノンはそれでもいいかもしれない、と思い始めている。これはモニタリングせずとも導き出せる結論だった。
「もし、さ。もし……戦わないで済むのならさ」
「…………」
今更何を、とは言わない。今だから言うのだ。既にメカコッコがウィッチと共に敵拠点の座標を解析したという話は部隊内に行き届いている。準備が整い次第、作戦は決行される。
誰もかれもがこの戦いを最終決戦だと位置づけていた。皆、総大将であるゼウスの首を殺る気でいる。ホープも俄然その気だった。此度の戦闘で全てを終わらせる。継承したマスターの遺志に従って。
それがプロメテウスエージェントとして、多目的支援型アンドロイドとしての務めだと。
「はぁ……何言ってんだろ。無理なのわかってるのにさ」
「そうですね、無理です」
ため息を吐くシュノンにホープは同意する。と、シュノンの肩がびくりと震えた。怯えるように。拒否するように。どこかでホープが自身の考えに同調してくれるのではないかと期待していたのだ。
「私はさ、宇宙で一番のスナイパーでドライバーで……最強無敵のシュノン様! のはずなのに、なんでかさ……今までにも増して、なんでかさ……」
そう言って握りしめたのはAIチップだ。クレイドルというシュノンを守護したドロイドのメモリーチップ。アンドロイドの依り代がコアならば、ドロイドをドロイド足らしめる大本がそのチップだった。
それはシュノンにとってお守りであると同時に現実を見せるメモリアルなのだ。生きていればこういうことが起きる、という実証データ。
「あなたの強さはわかってる。今までずっと見てきたし、宇宙でもすごかったし。最初は頼りないと思ってたけど、いや、散々いろいろ言ってきたけど、本当はわかってた。あなたはすごく強い。スペックとかそういう意味じゃなくて、強さを実践するための……信念のようなものを持っている。私なんか敵わないよ、全然」
「どうでしょうか。私の強さはあなたがあってのものですから」
ホープは真実を告げる。忌憚なく。これは思考ルーチンの片隅にずっと張り付いている事実だった。今でこそ大部分の機能が修復されているが、当初はほとんどが一時的にオミットされ、使用不能になっていた。
その時からシュノンは自分の欠点を補う最高の補助パーツだったのだ。口では様々な不満言語を再生していたが、本当は気付いていた。
かつての強さに戻りつつある今も、ホープの考えは不変である。アンドロイドにはマスターが、ホープにはシュノンが必要だ。
「そんなこと」
「ありますよ、シュノン。忘れたわけでは、ないでしょう?」
ホープの記憶回路が今まであった出来事を続々と再生し始める。最悪な出会い、過酷な環境、驚異的な敵、旅の途中で会った様々な人たち……。
期間こそそこまで長いというわけではない。しかし、密度は非常に濃かった。冒険の密度の濃さは絆の深さとなって、二人をもはや切っても切れない関係性へと昇華させた。
「私とあなた。二人でなければ勝てません。ですから……」
「だったら! だったら、約束して!」
シュノンは岩から立ち上がってホープに詰め寄る。ホープはその行為を微笑と共に見つめた。彼女が何を言おうとしているのかがわかる。そして、彼女もまた自分が何を応えるのか理解しているのだろう。予定調和の会話。
しかし、だからこそ真剣に答える。私として。希望でもアンドロイドでもなく、私という一存在として。
「いっしょに帰って、世界中を旅するって! 今までみたいに、今までよりももっとたくさん!」
「もちろんですよ、シュノン。もっといろんなところへ行きましょう。このようなところへ」
ホープが川辺を見渡す。と、不可思議なエフェクトが発生した。川から溢れ出た水しぶきに太陽の光が反射して、虹がかかる。これもまた偽物だが、その光景の美しさは本物だ。
偽物でも悪くない。しかし、本物も見たい。シュノンの中に潜んでいた探求心がふつふつと燃え上がった。それは不思議と自分自身に伝播して、欲求となる。持っていなかった欲望を他人から与えられる。それが共和であり共感であり、マスターとアンドロイドが織り成す心理同調だ。
「すご……綺麗。でも、こんなぱちもんじゃ私の心は満足しないよ!」
「ですね。次は本物を見ましょうか」
「うん! こうなったらちんたらしてられない! とっとと調整しないと!」
「待ってください、シュノン」
シュノンは格納庫へと駆け出した。
せわしないマスターの背中をホープは追いかける。苦笑と期待を入り交えて。