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必然的奇跡

 突然H232の速度が上がった。アイカメラによる観測では、エナジーの消費量を増加させることでスペックの引き上げを図っているらしい。


「だが、それでも僕には勝てない」


 そのような小細工を弄するということは、通常の義体性能では敵わない、という表れだ。太陽と光の神の異名は伊達ではない。アポロンは笑みを崩さなかった。


「金の矢はそんなまやかしすらも凌駕する」


 レーザーアローを構えて、矢に該当する部分へエナジーの充填。レーザーが矢を形成し、驚異的な速度で放たれる。


「くッ」


 H232は進路変換を余儀なくされた。猛スピードで近づけば近づくほど、多方向への回避は困難になる。実弾兵器ならばともかく精密な金の矢への対処はただ走って逃げるだけでは不可能だ。起爆矢とは違い、金の矢は屈折し対象を追尾する――。


「逃げ惑え! アルテミス! H232を追い詰めろ!」


 妹に指示を飛ばしながら、アポロンは洞窟付近での戦闘へ目を配る。洞窟内部に多数の生体反応を確認。忌々しい治安維持軍の残党だ。

 彼らの回収など父上からは命令されていない。いつでも皆殺しにはできる。

 だが、あえて殺さないことで敵の戦力の分散が可能だった。僕は頭がいい。そう思いながら、アポロンはH232の破壊へ注力する。

 レンズでH232の行動パターンを分析し、必殺の一撃を放つに足るタイミングを見計る。


『うーん、大丈夫だとは思うけど。もう少し急いだ方がいいかな……』



 ※※※



(レーザー粒子を調整して、屈折機能を付与したのですか……!)


 共和国時代に敵味方の主兵装として使用されたレーザー兵器は、適時環境用にレーザーの集束率を調整しなければあらぬ方向に飛んで行ってしまうという欠点を抱えている。金の矢はその法則を逆手にとって作成されていた。

 あえて屈折するように調整し、粒子内に微量のナノデバイスを混入することで屈折を意図的にコントロールしている。アンドロイドの演算能力ならば拡散率と折り合いをつけながら調律は可能だが、それでも途方もない演算力だ。

 ホープがアポロンの高度な演算システムに感服している間にも、金の矢の追跡は続いている。ホープはエナジー残量に注意しながらステップを踏んで雪の中へ矢を突っ込ませた。ジュウ、という雪が溶ける音を聴覚センサーが捉える。


「接近しなければ――!」


 背後からの一矢。アルテミスによる起爆矢を前かがみになることで避け、即座に前進する。アルテミスとの交戦は明らかに不利。アポロンは彼女の命綱を握っている。

 下手な反撃はアポロンに利用されるだけだ。どうにかして彼に肉薄し、彼女の自由を取り戻さなければならない。


「H232、お前の弱点はよく理解しているよ」


 矢が再度発射される。避けるために方向転換。パーソナルシールドの破損が響いていた。ブリュンヒルドに援護を要請したいところだが、彼女は残存部隊への援護へ向かってしまったため望めない。他の仲間もそうだった。

 しかしそれを、ホープは信頼の証と受け取っている。大丈夫だと思ったから任せたのだ。決して見捨てられたわけではない。


「お前は弱者を見捨てない。市民を救おうと努力する。ドブネズミの分際で」

「失礼な男ですね、アポロン」


 アポロンの思考ルーチンを乱すべく煽りを言い放ってみたが、さしもの彼もこの程度では動じないらしい。彼は完全に自分を見下しているので、格下相手の言葉が響くことはないのだろう。

 だが、とホープは思う。彼は結局のところ人間に対して劣等感を持っているアンドロイドだ。人を意識し、人を使役し、自分が完全無欠な存在だと誤解している、アンドロイドらしからぬ思想の持ち主。アンドロイドである以上、完璧な存在などこの世には存在しないことがわかっているはず。なのに、その結果から目を逸らして、優れた存在を演じている。

 それは致命的な隙と成り得る。脅威を脅威と認識できず、呆気ない出来事で崩れ去るのだ。

 勝機はある。十分に。マスター……ヘラクレスなら、アルテミスを救いつつアポロンを止めることなど簡単。

 ならば彼の意志の継承者である自分が、できぬはずなどない。


「――ッ!」


 ホープは加速に全エナジーを集中。近づくことさえできれば攻略は可能。アポロンは遠距離戦が得意とデータベース内に記録されている。近接戦はホープが有利。さらに彼は油断して、ホープのことを見くびっている。その選択の妥当性には疑いの余地がなかった。

 ゆえに突撃を繰り返すホープに、アポロンは何度も同じ迎撃方法を取る。金の矢による射的。埒が明かないと踏んだホープは博打に出た。


「避けないのか? ドブネズミ」

「ッ!!」


 回避せずの特攻。攻撃を最大の防御として、奔るレーザーを叩き斬る。ライトアームの耐久値が減少したが、まだ稼働しているので自己再生プログラムは使わない。


「何……?」

「次射には充填時間がある!」


 敵の弱点を叫びながら、ホープはアポロンへ肉薄。もはや悪態を吐くことも忘れたアポロンは呆けた表情で渾身の一撃を避けることも防ぐこともせず――。


「言い忘れていたけど、僕の義体とアルテミスの生体情報はリンクしてるよ?」

「なッ!?」


 残虐な笑みへと表情を変えて、言葉と共に拳を放った。


「ぐぁ……!!」


 腹部への苛烈な打撃にダメージアラートが響く。


「僕は近接戦闘が最も得意なんだ。彼女のような失敗作とは違う! 特に、拳を用いた格闘戦が、ね」

「く……ああッ!!」


 左頬にアポロンの右拳が入る。電脳に振動が伝わり、一時的に反応速度が低下。衝撃ダメージによりバランスを崩したホープにアポロンはさらなる連撃を見舞う。


「以前の、追加パックを装備したお前なら警戒しただろうが、今の廃棄物同然のお前では、神である僕に敵うわけないだろう!」


 レンズ内に表示されるダメージの蓄積率。義体の耐久度が減少し、内部パーツの破損が広がる。どうにか彼の暴挙を食い止めようとしたが、アポロンの拳闘は本物だ。嘘偽りではなく、本当に格闘戦が得意らしい。見誤っていたのはホープの方だった。


(せめて、アルテミスとのリンクを断てれば……!)


 殴打されながら、どうにか防御姿勢へと持ち直しアポロンの義体をスキャニング。しかし、コントロールデバイスらしきものは見当たらない。一番装置がある可能性が高いのがアポロンの頭部だが、カウンターで破壊するにはリスクが大きすぎた。もし間違っていた場合それはアルテミスへの死に繋がる。攻撃できなかった。

 反撃できないホープを嘲笑いながら、アポロンは打撃を続ける。


「万策尽きたか、H232。愚かなドロイドだ! 所詮お前はゴミで、僕が神だ。ゴミの分際で僕と同じフィールドにいることを恥じるんだな!」

「うあッ!」


 致命の一撃。ガードの隙間を縫って放たれた拳は、ホープのバランサーを機能不全に陥らせるレベルの威力だった。雪へと身を落とし、倒れる。ダウンしたホープの頭部パーツをアポロンが踏みつけた。


「これでまずはひとり、愚か者を打ち倒すことができたな。次はブリュンヒルドとシグルズ……全員、皆殺しにしてやる」


 精密機械の塊である電脳の保護フィルターが唸る。コアが無事である限り、パーソナルデータは保全されるが、頭部パーツが破壊されれば活動は不可能となる。急いで脱出しなければならない。エナジー量は減っているが、まだ十分な量が残っている。

 だが、逃れるための布石となる払い除けができない。アポロンへのダメージはアルテミスへと連動してしまう。


(このままでは……いけない。いけないのに)


 もし仮に自分が敗北しても、全員の安全は保障されていた。シグルズとブリュンヒルドがアポロンに後れを取ることは有り得ない。戦闘力こそ高いが、それでも彼は卑怯な手段を用いてなおホープを倒すのにこれほどの時間が掛かった。単純に、実力者なら小細工を弄してもここまで時間はかからない。アレスならば正攻法ですら一瞬だろう。

 味方はきっと一人も死なないで終わる。アポロンはシグルズに負けて情けなく逃げ帰る。そこについてホープは何の心配もしていない。感情アルゴリズムが哀なのは、自分に対しての情けなさや友軍への不安からではない。


(でも、アルテミス、は)


 だが、アルテミスの生命は保障されていないのだ。如何にかの剣士でも、仲間を守りながらアルテミスを救うことは困難を極める。だからこそブリュンヒルドは率先してアルテミスを抹殺しようとしていた。その方が理に適っているから。

 その決断に異を唱えるためには、ホープがアルテミスを保護するしかなかったのだ。しかしそれすらも、失敗してしまった。このまま電脳へ負担がかかれば、ほどなくして意識がシャットダウンされてしまうことだろう。もう打つ手はない。


「く……」


 味覚センサーが冷たい水分を検知する。氷水……雪の味だ。口の中に雪が入り込んでいる。それを吐き出すこともままならない。アポロンに行動を制限されてしまっているから。


(アルテミスはずっとこんな気持ちだったのでしょうか)


 身動きが取れず、閉じ込められる感覚はその身を持って実感している。悪意あったものではなく、希望を託してのスリープ。それでもずっと待ち続けるのは辛かった。

 いつ誰が助けに来てくれるかわからない。ずっとこのまま閉じ込められているかもしれない。

 幸いなのは、眠り続けている間、ホープの意識は睡眠状態スリープモードだったことだ。忘却の彼方に置いて行かれても、そのことを自覚しないでいられる。自分の状況を認識しないことがどれだけ救いだったかわからない。

 だが、アルテミスは違う。自分が何であり、どういう状況で何をしなければならないかを自覚していた。不本意な命令を、長年聞かされていたのだ。それを運命だと受け入れて。それはとても悲しく、辛く、苦しいことなのではないか。


「私には、責任があります。人を守る使命が……」


 沸々と気力が沸き起こる。感情優先機構が働きエナジーが義体を満たす。

 対して、アポロンは現実という痛みを与えてくる。


「使命がなんだ。死者の使命だろそれは。想いだけでは人を救えない。お前が僕に勝てるはずはないのだから」


 そうとも、彼の言葉は事実。正しい、現実を直視した上での言葉。

 どれだけ綺麗事を並べても、現状を打開する力はホープにはない。力と想いだけが空回りして、損傷率が増加していく。


「仲間に泣きつくか? 雑魚め。仲間なんてのは雑魚が作るんだ。完璧な僕はひとりで全ての敵を殲滅できる」

「違い、ます」

「あ?」


 アポロンの戯言に、ホープは鋭い眼光を浴びせた。


「違います! 仲間とは、自分を補うための大切な人々です!」


 即座にレスポンスが返ってくる。音声言語を通してではなく、脳内に直接響く音声データで。


『よーく言ったな! いいセリフだぞホープ! あたし感動しちゃった!』

(接触通信……!?)


 アポロンが反論を喚いているが、ホープの意識はアポロンのレッグパーツから伝播するウィッチの声に向けられていた。先輩は普段の陽気な調子で続ける。


『そーそー、あたし。シグルズ様に頼まれたんだよね。あたしの力が必要だって言われてさ、断わるわけにはいかないだろー?』

(でも、どうやってここが?)


 いくら何でも都合よく助けが現われるはずはない。そこでようやく登場したのがシュノンの寄り道だった。


『ジャミングさえなくなればどうとでもなるよ。それにシュノンちゃんから連絡貰ったしねー。やっと頼られていい気分! ここんとこずっと留守番で暇だったし、そろそろ先輩のカッコいいところ披露する時が来てもいいだろー!』

(では、アルテミスとのリンクは?)

『もっちー切断準備オーケー。ちなみに弱点は頭で、こっそりハックしたアポロンの戦闘パターンを送信するから、ちょちょいとぶっ飛ばしちゃってー』


 戦術データベースがアップデート。アポロンの戦闘フィードバックが追加され、彼の動きが完璧に読み取れる。準備はいつでも万端だった。


『あんたのマスターの言葉、忠実に再現しちゃってくれい。んじゃ行くぞー?』

「わかりました!」

「おい聞いているのかゴミ虫――何ッ!?」


 気付いた時にはもう遅い。ホープはアポロンの足を右手で払い、彼の足を除けた後バック転をして攻撃態勢。彼の反撃を完璧にいなしながら的確な打撃を与え、数発でノックダウン。物の一瞬で決着がつき、アポロンは口に雪を含む。


「バカ、な……僕は神……の前に愚か者だったんだねーなはは。完全に掌握しちゃったぞ」


 意識を乗っ取ったウィッチが表出して立ち上がり、勝利のブイサインをみせる。


「想いだけでは人を救えない。あなたの言う通りでしたね、アポロン」


 想いだけで人を救えないのなら、仲間に頼ればいい。想いで力を律し、共闘して強力な敵を打ち倒せばいいだけだ。まさにアポロンの言葉通り。彼は正しく、それがゆえにその自尊心が最大の弱点になった。


「ジャミングは先輩をここに呼び寄せるためにシグルズ様とシュノンが解除した。アルテミスを救うためには先輩の力が必要不可欠」


 ホープの推論に、アポロン=ウィッチが同意する。


「そうそう、流石シグルズ様ってとこだなー。いくら生体ドロイドにアクセスできるからと言って、あたしに情報戦で勝てる奴はいないしね」


 アポロンの義体を掌握した先輩と状況を整理していると、シュノンの声が聞こえた。テスタメントが撤退し残存部隊の安全が確保されたようだ。

 さらに、当惑するアルテミスの声も。ホープは戸惑う彼女の元へ駆け寄る。


「わた、し……?」

「大丈夫ですか、アルテミス」


 優しい声で問いかける。

 意識を取り戻した彼女はアポロンの姿を見て心音を負の方向へ高鳴らせたが、彼女の中身が違うことに気付いて正反対の心理メカニズムへと変える。そして、ふらりと身体を揺らした。ホープが倒れないよう身体を支える。


「はは……支えてくれるんだ。助けて、くれるんだ……」

「当然です。市民を守るのが私の使命ですから」

「市民……地球連合共和国の、市民……。本当に、いいの?」


 アルテミスは弱弱しく、だが、希望を捨てないで訊ねてくる。満を持して答えようとしたホープの代わりに、回答が背後から放たれた。


「問題ありませんよ。……状況が、変わりましたので」


 戦闘を終えたブリュンヒルドが戻ってきていた。自分の言葉よりも彼女の言葉の方が信憑性が高いため、ホープは首肯するのみに留める。


「おおーっ? ブリューちゃんのクーデレが発動ー?」

「相変わらずあなたの言動は珍妙ですね、ウィッチ。まぁ、ホープよりはマシですが」


 飄々とするウィッチに動じることなく応じるブリュンヒルド。しかし、次の発言に眉が吊り上った。


「とか何とか言っちゃってさー。今までの全部ホープのための行動じゃん? いろいろ聞いちゃったし見ちゃったぜー? 昔からそうだけどさ、本当にあんたは素直じゃおふっ!?」

「失礼。識別コードが敵のままだったもので」

「ちょ、ちょい待って。そりゃ敵の義体を使ってんだから識別コードは敵……待って、待ってって!」


 ブリュンヒルドが無表情でウィッチを殴り始める。苦笑交じりにその光景を見つめるホープの眼下で、アルテミスが小さな笑みを漏らした。幸せを噛み締める笑みを。


「本当に、いいんだ……。べ、別に嬉しくなんかないけどね!」

「はいはい、わかりました」


 サイコメトリックスは真逆の反応を示している。もはや多次元共感機能を使わなくとも、彼女への理解は深まっていた。シュノンとはまた別の方向で個性的な人物だ。


「本当の本当に本当だからね! わかってる?」

「ええ。わかってますよ、本当に」

「嘘だ! 絶対誤解してる! 私にはわかるんだから!」


 あまのじゃくのように喚くアルテミスへ、シュノンがご機嫌な様子で歩み寄ってくる。若干ホープの不快指数が増加した。シュノン語録になぞらえれば、とびきり素敵なムカつく笑顔、という類のものだ。


「どう? 素敵なサプライズ! 私のおかげー!」

「策があるなら策があると前以て伝えてくれれば苦労しなかったのですが」

「だから言ったじゃん。寄り道って。伝えたじゃん。寄り道だって。何なの? せっかくの大活躍に水を差すようなこと言って」

「……曖昧過ぎます。もう少し明確に……」

「というかさ、自分だってアポロンについて何も教えてくれなかったでしょ? 超ヤバかったって話もう一回する? いいよ、私は構わない。何べんだって言ってやるわ!」

「それなら私だって文句がありますよ、シュノン。寄り道するにしたって、先にこちらを見つけてくれればもっと簡単に事が済んだはずです」

「いやいやそれを言うならさ、もっと手早く私のこと見つけてよ! 危うくアイスになっちまうところだったんだよ?」


 シュノンの言葉はもっともだったが、だからこそホープは反論を口にした。


「そこは心配していなかったので無問題ですよ。信じていましたから」

「それだったら私だって心配してなかったよ! 超信頼してましたけど何か?」


 と二人揃って啖呵を切ったところで恥ずかしくなり、フェイスモーションをレッドカラーに染める。シュノンも少し気まずそうに視線を逸らし、アルテミスの笑いが響いた。


「何なの? あなたたち。おかしい。本当おかしい。大して面白いこと言ってないはずなのに、なんでこんなにおかしいの? 笑える」


 ひとしきり笑ったアルテミスは、疑問を感じながら頬を伝う涙を拭う。


「あれ……? 何でさ、笑ってるのに泣いてるの私? 意味わかんないや。あは、ははは」


 泣きながら笑うアルテミスを見て、ホープの心理光が温かくなる。シュノンも微笑んで、喜びをわかち合っている治安維持軍の兵士たちへと目を向けた。

 あちこちから歓声が広がっている。勝利の歌が響いている。


「見ていますか、マスター。私は使命を果たしています」


 幸福に頬を綻ばせて、ホープは呟いた。充実感に感情アルゴリズムが躍っている。


「これも運命か、友よ」


 シグルズが彼女たちへ意味深な視線を投げていることには気づかずに。



 ※※※



「これは運命だ、友よ」


 マスターは唐突にそう語った。アポロンとアルテミスの敗北を部隊から報告を受けてすぐにだ。


「アルテミスは敵に絆され、アポロンは義体を奪われました」


 淡々とレポートを参照し、アレスはゼウスに報告する。主はゆっくり腰を上げると室内を後にした。その退室に意味を感じ、アレスは主の背を追いかける。


「予定通りですか、マスター」

「我とて読み違うことはある」


 主は曖昧に返した。アレスは薄暗い世界へ目を凝らす。夜はまもなく明けようとしている。闇の時間は終わり、光が世界を包み込む。人は夜を悪意の象徴とし、光を善意の証としてよく例える。

 明けない夜はない。そう言って他者に希望を与えるのだ。夜の再来には目を瞑り。

 愚かな、と強く思う。光と闇、希望と絶望は裏表だ。切り離せるものではない。

 いい加減認めるべきだ。どれだけ希望を謳おうと、勝利に酔いしれようと絶望はすぐにやってくる。寝首を掻こうと隙を窺っているのだ。幸福に身を浸している合間にも。


「支配の基本を覚えているな」

「恐怖を使って民衆を統制する。それが支配の基本です」


 主から教わった通りに応える。が、主はそれだけではない、と笑いかけた。


「あえて反発させることも重要なのだ。一度機会を与え、ふさわしい場を設ける。その上で希望を打ち砕く。古代から行われてきた手法だ」

「ゆえに……運命であると」

「そこまでは言っておらぬ」


 と語られる主の顔には凍てつく笑みが浮かんでいる。H232はこの勝利を偶然と取るのか必然とするのか。アレスには思い当たっている。

 その誤解を解きたい衝動に駆られた。今すぐにでも現地へ向かい、希望を打ち砕いてやりたい――。だが、衝動のままには動かない。マスターの命令は絶対だ。

 アレスは主に抗わない。それが無意味だと知っている。主こそが世界をよりよく理解しているのだ。世界は滅ぶべくして滅んだ。全ては必然だったのだ。


「まだふさわしい時ではないぞ、アレスよ」

「わかっております、マスター」


 今は耐え忍ぶ時。己の怒りを封じ、充填する期間。

 いずれは怒りを爆発させて、H232を破壊しあの男の遺志を抹殺する。その時を千年も昔から待ち望んでいたのだ。地獄の淵でマスターに救われたあの時から。


「今宵ももう夜が明けるであろう」


 そう言いながら主は月を見上げている。太陽に場所を奪われかけながらも、輝きを失っていない三日月を。


「見えますか、マスター」


 アレスが問うと、ゼウスは眼を瞑った。そうして、酷薄な笑みで告げる。


「……ああ、よく見えておる」


 その言葉を機械化された身体で受け止める。

 ――ヘラクレス。お前の遺志の灯ももう僅かだ。必ずこの手で終わらせる。

 それが俺の宿命だ。抗うものでも流されるものでもない。

 自らの意志で選択し、勝ち取った運命なのだ。

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