『橘』 一
タチバナ。
そう呼ばれるようになって、三年以上が経過しました。
夜明けの光が目蓋に差し込み、眩しさに眼を覚ました俺は、店の準備を始めます。
ドーナツやサンドイッチなどの軽食を作るのはシキにしか出来ませんが、その下準備に倉庫から牛乳や小麦粉などの材料をキッチンに揃えるくらいは出来るので。
後は、夜のうちに製作した傷薬や軟膏、風邪薬などを店のストックに追加します。
必要なものを纏めて持ってキッチンに向かうためにリビングへと降ります。
「うにゅ……おはよー、タチバナ」
「おはようございます、シキ。何時にもまして髪がうねってますから早めになおしたほうがいいですよ」
「うぃー」
二階の部屋はカレンとフィリーに貸し出してしまったし、もう一部屋は私の自室で、あと一部屋は客間。
ついにリビングのはずの部屋を自室へと改造してしまったシキには少々呆れますが、皆の食事も寛ぐときもこの部屋を利用しているので問題はないのでしょう。
シキは結構寂しがり屋なのです。
寝ぼけ眼のシキを洗面所へと追い立てた後、キッチンへと材料を準備します。
昨夜のうちに用意したもの、日持ちするものもありますが、そうもいかないものもありますから。
そうしていると、とあるパン屋が食パンやバゲットなどを届けてくれるので、料金を支払って購入します。
異世界の料理や東西問わずこちらの世界の料理も色々作るシキですが、パンだけはどうにもならないようです。
本職が作ったものには敵わない、らしいです。
売り物として十分な質ですが、やはり特化型とは経験値が違い過ぎるのでしょう。
ましてやこの都市で一番人気のパン屋のパンですからね。仕方がありません。
「あー、さっむ。さて、朝ごはんは何にしようかねー?」
「別にいらないんじゃないですか?面倒でしょう?」
「それは絶対に嫌。お湯沸かして、昨日の残りのご飯でとり粥にしよう」
シキは、俺たちが食事を抜くことを嫌がります。
どんなに店が忙しかろうが、昼食をとる時間をくれます。
夕食だって、疲れているだろうに必ず作ってくれます。
それは、俺が彼女に呪縛まった日から続く絶対です。
俺は、暗殺者でした。
リヒトシュタート聖教国の暗殺部隊、『死の翼』の一人。
15番目と呼ばれていました。
かの国では獣人は道具でした。奴隷ですらありません。
使い捨てられる、道具。
見目が人に近く美しかったエルフたちはかろうじで人扱いされていましたが、獣の特徴を持つ獣人は美しかろうがなんだろうが、ケダモノでしかなかったのです。
生まれた瞬間から数字や記号で管理され、秀でたところがあれば利用するための訓練がつけられる。
俺は見目の美しさと狐獣人ゆえの幻惑術への適性によって選抜され、暗殺のための技能を叩き込まれました。
言葉遣い、声の出し方、立ち振る舞いは標的に近付くために。
幻術は獣の特徴を隠し、敵を欺くために。
薬や毒、針などの暗器は、殺すために。
体を使った誘い方も当然、叩き込まれました。
抱くことも、抱かれることも、無防備な部分をさらす行為であり、もっとも標的の命を狙いやすい瞬間でもありましたから。
そうして生きるために殺しを覚え、けれど決して人扱いされず。
同じように死の翼として生きていた同胞たちが使い潰されていくのを見ながら、あの地獄で生きていました。
そして、ある日下ったのが、シキ暗殺の命でした。
魔王クラスと呼ばれる、対応を間違えれば一国を滅ぼしかねない力を持った魔獣。
その討伐のために異世界から無理矢理召還された少女を殺せという、命令でした。
彼女は『元の世界に帰る』という目的のため、一年ほどで驚くほどに魔法の力を自在に操るようになり、そして魔王クラスの魔獣の討伐を成し遂げました。
異世界から召還された人間は稀有な能力を世界から与えられる。それを見事に己の血肉にしたのです。
ですが、異世界への帰還魔法など存在しないのです。
だからこそ、異世界召還魔法は禁忌。
どうやら、国のトップの連中は召還し心細い思いをしている彼女をハニートラップなどを駆使して洗脳し、この国の駒にする予定だったようでした。
ですが、王子自ら仕掛けた誘惑も、見目のよい騎士たちからの誘いも、彼女には通用しなかった。
加えて、彼女はこの国の歪に気がついていた。
リヒトシュタートという国の、最大の誤算だったのでしょう。
聞けばシキの故郷では字が読めて当たり前、加減乗除よりも複雑な計算が出来て当たり前。
この国における一流貴族並みの教養が、一般人にも当たり前のように与えられる世界だというのですから。
リヒトシュタートという国の識字率は三割から四割程度。
貴族でさえ、加減乗除が限界で複雑な計算式は出来ないのが当たり前です。
さらに、社会情勢や地理、カガク(こちらの世界で一番近いのは錬金術の一部でしょうか)、文学や古典、数学、他にも様々な分野の知識を叩き込まれ、彼女よりも上の年齢になればさらに専門的な分野をも学ぶ。
こちらの世界の常識が無かったからと言って、彼女が愚かという判断はしてはならなかった。
それを見誤ったのは、この国でした。
召還当初から仕掛けられ続けた杜撰なハニートラップ。
国にとって都合のよい情報のみしか口にしない周囲。
送還方法が存在しないと言う真実を、彼女の助力を得るためだけに捻じ曲げ隠した嘘。
なによりも、魔王クラス魔獣の足止めを出来るだけの戦力があるというのに、それを討伐には使わなかったこの国そのもの。
不信感を抱いた彼女は国の命令に従わなくなってきたのです。
ですが、それはリヒトシュタートにとって看過できるものではありませんでした。
最初は地位や名誉をちらつかせたものの、必要ないと断られ、ハニトラを仕掛ければ逆に仕掛けた人間を遠ざける。
こうなると、洗脳どころではありません。
だからと言って、薬品漬けにしてしまえば魔法が使えなくなるし、暴力による支配も彼女の魔法の強さが仇となった。
功績を称えるための贈り物などと称して、隷属の首輪と呼ばれる装着者の意思を強制的に従わせる魔道具を装飾品として偽り贈りました。
ですが、その装飾品と称した呪いの道具は、効果を表しませんでした。
こうなると、とるべき手段は一つしかなくなりました。
『使えない道具は処分すべし』
このままでは、彼女はこの国を出て行くでしょう。
そうなれば、禁忌とされる異世界召還を行ったことが周辺各国にばれてしまう。
経済制裁で済めば御の字。
下手をすれば、周辺各国から攻め入られる口実を与えてしまう。
どちらにせよ、この国がそのような屈辱に耐えられるわけがなかったのです。
結果。
国の命令に逆らいがちになった彼女は、暗殺が決定しました。ですが、ある人物が提案したのです。
王子をはじめとする人間によるハニートラップは効かない。ならば、虐げられている獣人が助けを求めてきたならどうなのだろうか。
彼女は、この国の人間という人間を警戒していました。
また、獣人が奴隷以下の扱いを受けていると知ったとき、とても憤っていたといいます。
ならば其処に付けこめないか。というのです。
そして選ばれたのが、俺でした。
偶然を装い、わざと受けた暴行の痕を残したまま、彼女と出会い、助けを求める。
命令した人間が用意した状況も一役買っていました。
彼女の嫌う騎士の一人が俺に首輪を付けて暴力を振るうことを楽しんでいるのを、目撃させたのです。
気絶した俺を、彼女は部屋に招き入れました。
そして、丁寧にこちらを治療する彼女に、俺は同情を誘うように助けを求めて縋りつきます。
このまま俺を受け入れれば時間をかけて洗脳し、そうでなければ殺す。
ですが、事態は思わぬ方向へと流れました。
「ごめんね、わたしの僕になって」
縋りつくフリをする俺を、悲しげな眼差しで見ながら彼女は魔法で拘束してきたのです。
こんな反応をされると思わなかった俺は、思わず呆けてしまいました。
そして、不思議な言葉を聞きました。
「けだかきけもの、いえきかな、なのらさね、なかればわれが、なをあたへむ。これよりなのれ、なんぢはかおりたつはな。『橘』」
その言葉によって発動したのは、隷属の首輪の根源となった魔法でした。
時空魔法の一つ、呪縛。
圧倒的な彼女の魔力と紡がれた言葉により、俺は彼女に縛り付けられました。
後ほどシキに聞いた話ですが、シキの季節によって変化する魔法の中にも『通年』と呼ばれる季節を問わない魔法がいくつかあるそうです。
ですが、その魔法の発動には通常の四季によって変化する魔法群『暦』とは違い、『古語』による詠唱が必要であり、難易度も中々に高い。
ですが、彼女はその術をなんとか発動させました。
そして、名前を持たずに番号で管理されていた俺は、魔力がこもった名を与えられることによって、ものの見事に言霊の呪縛を受け縛られてしまったのです。
彼女に縛られてしまった俺は、彼女を害することができなくなりました。
任務は失敗。当然のように、目的も背後にいる者のことも洗いざらい吐かされました。
拷問など、必要ありません。
名を呼ばれる。
それだけで、彼女に逆らえなくなるのです。
言葉とは言霊。力の宿る言葉の中でも、名前というのは一番短く一番強い最強の呪なのですから。
そして一週間ほど、俺は彼女の部屋に拘束され続けました。
甲斐甲斐しく俺の怪我を癒そうとするその姿に、命じた者たちは洗脳ができるかもしれないという希望を抱いていたことでしょう。
ですが会話の内容はここからの脱出の強制的なお誘いと連中に一泡吹かせるための作戦。
彼らの希望をぶち壊すためのものでした。
とある真冬の日。
王宮では絢爛豪華なパーティーが催されました。
権力にはなんの興味を抱いていないはずのシキが、王や法王にお願いがあると言ったのです。
権力者たちは狂喜乱舞しました。
ですが、彼らの期待とは裏腹の事態になりました。
俺をともない会場に現われた彼女は、今でも思い出すたびにぞっとするほどの冷え切った微笑みを浮かべていました。
王と法王の目前に立った彼女は、その手に持っていた袋の中身をぶちまけます。
出てきたのは、変色した銀食器や、氷漬けにされた菓子類。
粉々に砕けた、装飾品に偽造された隷属の首輪。
「いい加減、頭にきましたよ?お二方。こっちが黙っていればゴキブリみたいにコソコソ、コソコソ。勝手に召喚びだしておいて、自分たちの思い通りにならないならコレ?謝罪するなりなんなりすれば、まだ譲歩してやったっていうのに、やってくることがハニトラ洗脳暗殺?寝ぼけてるの?それとも、頭の中お花畑?」
害虫呼ばわりされた王や法王は怒りのあまりに顔を真っ赤にします。
当然、獣人である俺がこの場で膝もつかずに立っていることも怒りに拍車をかけているのでしょう。
そんなことに構わず、シキはこれまで溜まった鬱憤を晴らすかのように笑います。
「あぁ、そうだよねぇ。頭ん中、お花畑じゃなきゃこぉぉんなことしないよねぇぇ!?いいよ、いいよ、それならこっちにも考えがあるよ」
周囲はまったく手出しができません。
なぜなら、彼女がその気になれば一瞬でこの場にいる人間を皆殺しにできるだけの力があるのですから。
「こおりつけぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!!!」
莫大な量の魔力が、シキの体から噴出し、彼女の望むことを実行します。
城中が、いえ、市民街を抜いたこの王都の全てが凍りついたのです。
椅子もテーブルも、蜀台も、暖炉も、壁も、そこにある無機物はなにもかも全て。
無事なのは、生きているものだけ。
「ふふ、ふふふふふ…」
ぐらり、と倒れ掛かった彼女を支えます。
一気に力を放出したせいでしょう。おまけに無差別ではなく、凍らせる対象を事細かに指定しての異常な精度の大型魔法。負担がかからないわけがありません。
ですが、俺に寄りかかり真っ青な顔色のシキはそれでも笑います。
「さて、王都中を一部除いて凍りつかせたよ。どれくらいの時間で溶かせるかなぁ?急がないと、凍死しちゃうかもね?」
室内の温度が、急激に落ちていきます。
ましてや、パーティー用の服装など防寒機能はないも同然。
我に返った周囲がパニックを起こします。
「じゃぁね、王様、法皇様。魔獣討伐の報酬はこの悪戯と、彼でいいよ。あぁ、それから二度とこの国に戻る気ないから。んー、そうだなぁ、元の世界に安全確実即座に還せる方法を見つけたなら、ちょっとは考えるかもね。それではみなさま、あでゅー♪」
投げキッスを真っ青になったまま崩れ落ちる王と法王に投げつけたシキを横抱きに抱え、俺は彼女の指示するまま城の外へと飛び出しました。
肉弾戦に向かない狐獣人であるとはいえ、それでも彼女くらいならば軽く抱えて走れますから。
そして、俺とシキはリヒトシュタートという国を完全に見限り、飛び出したのです。