ふてぶてしくなった異界の野良猫
ラグ一番と呼ばれるパン屋『オンディーヌ』は、かなり広い。
従業員数も、店舗のサイズも、シキのカフェであるミズホとは比べ物にならない。
立地に関してはミズホも負けてはいないが、やはり老舗と言うのは一等地を押さえており、一般人から冒険者まで誰もが利用する店だ。
シキの経営するカフェ同様、他の大衆食堂、宿屋などでも食パン黒パンなど、食事パンと言われるパンの定期購入をしている店も多い。
そんな、巨大パン屋の関係者のみが立ち入ることができる応接室で、シキは蜂蜜入りのグリッシーニを齧りながら店主の話を聞いていた。
「やはり、柔らかくて甘いパンは人気なんだ。だが、それだと長持ちしないからって、冒険者の子達がなぁ」
ため息をついているのは、パン屋オンディーヌ店主、ミハイルだ。
恰幅のよい、人の良さが滲み出るおじさんなのだが、やはりそこはやり手のパン屋の店長なだけあってなかなかに油断できない人物だ。
「そこは、そちらの経験でどうにかしていただけるとありがたいんですけどね?」
「いやいや、なぁに、あの、オイル漬けとグリッシーニをセットで、と考えた貴女なら、何か妙案がありそうだ、と。従業員一同考えましてね」
「無茶いわないでください。それに、ハッキリ言ってしまえば、わたしのレシピをタダで奪われるわけにはいかないんですよ。うちは小さな店舗なので」
長期保存できる、菓子もしくはパンのレシピが無いか。
ミハエルは買い物に来たシキを捕まえると、ニコニコ笑いながら応接間に引き込んで、そう問いかけてきた。
これがオルタンシアの雨姫様のように、正式な面会として封書が存在し、加えてギルドの立会人を呼んで見返りが提示されるならば問題ないのだが、彼は教えてほしいと言葉にするのみで、教えた見返りを何も提示していないのだ。
もしここで、シキが思いつくレシピを教えてしまえば、ありがとうございましたと、レシピをもっていかれた挙句、当店新作オリジナルの~とか紹介されても文句を言えない状態にされる。
「教えてくれるだけでいいんだよ?」
「えぇ。異世界の物知らぬ小娘ですが、持てるもの全て、安売りをする気はないんですよ」
シキは良く知っているのだ。
この店主が、シキを甘く見ていることなど。
異世界人だから、と同情してもらえるばかりではないのだ。
ただ、異世界や東大陸の珍しい飲食物を扱っているだけの店だ、とシキの喫茶店を評価する人間も、当然存在している。
表立って言葉にならないのは、シキの後見人が王族と血縁関係がある公爵家だからだ。
不況を買って、店を潰されたくない。そう考えているだけなのだ。
もちろん、シキの作る菓子や料理を評価し、気に入ってくれたからこそ常連客がついているのだが。
「おや、気がついて?」
「初めてあなた、というかこの店を紹介された時。柔らかい口調の癖に小馬鹿にした言葉でわたしを嘲笑っていた事に、気がつかないとでも?」
「では、なぜこの店と取引を続けているのかな?」
公爵から紹介された商人から、さらに紹介された時。
快く引き受ける、という体裁をとっていたが、言葉の端々にどうせ潰れるとか、何も知らぬ異界の小娘の道楽、ということをかなり遠まわしに言われたのだ。
おかげで、シキは滅多にこの店には近づくことはない。
パンは特定量配達という形にして、在庫切れを起こさない限りは近付かない。
契約更新の際も、ギルドの立会人を必ず連れて行くほどだ。
正直、シキとしてはここの店主は気に入らない。気に入らない、というよりも嫌い、関わりたくないと思っているくらいだ。
だが、それでもこのパン屋でパンを買う理由。
「あなたの人柄はともかく、美味しいからですよ。他に理由なんてありません。わたしは、お客様に美味しいものを提供するのが仕事ですから」
そこに私情を挟む余地はない。
シキが少し、この店主への不快感を我慢すれば、美味しいパンが手に入り、そしてそれを使って調理した軽食はシキのカフェに利益をもたらす。
素人同然のシキが始めたあのカフェ・ミズホだが、曲がりなりにもここまでやってきたプライドと意地がある。
「プロ意識、ですかね?」
「そうですね。何も知らぬ小娘ですが」
鼻で笑うかのような声音で言い切ったシキに、ミハイルは深くため息をついた。
ほんの数年で、周囲を警戒しまくるだけの子猫がふてぶてしく街を歩いて生きる野良猫に成長した。
遠まわしなやり取りを好かないのは変わらず、小細工をすればなんだかんだで通用するだろうが、それに気がついた時の報復が怖いタイプだ。
倍返し、どころの騒ぎではないだろう。
「……負けます。負けました。無理強いはしないです。ヒントさえくれれば、どうにかこちらで試行錯誤するから」
「報酬は?」
「はいはい。本日のパンどれでも好きなだけ」
「それだけじゃこっちが割に合わないので条件を追加です。私が先に作って売り出すんで、当店オリジナルとか言わないでくださいね。そもそもがわたしの持っているレシピなんですから」
「……ぐ。それ、は」
「断るなら、ヒントすら出しません。ここでさようなら、です。売り出したものをご自分で食べて分析してください。あと、妨害工作とかがあったら真っ先に公爵経由で抗議するんで」
これ以上は何を口にしてもシキは折れることはない、と判断したミハイルは、少しでも情報が欲しい、と報酬を明確にした上で問いかけた。
その報酬に、割に合わない分を容赦なくつっついて条件を足したシキにミハイルは唇を引きつらせる。
オンディーヌ注目の最新作として売り出す予定が真っ先に潰された。加えて、二番煎じの地位に甘えなくてはならなくなった。
生産量では勝てるだろう。味も、年月をかければ超える自信はある。
だが、専売特許として周知できないのは、かなり痛い。
「……わかりました」
だが、この条件を飲まねば本当に一からレシピを考えるか、シキの店に買いに行って分析して模造品だと言われながら売り出すことになる。
それくらいなら、『魔女から教えてもらった長持ち菓子パン』として売り出したほうが、世間はよい方向に見てくれる。
『あぁ、魔女に教わったんだね』と。
真似をしてます、となるよりも教えてもらいました、のほうが店の心証が良いのだから。
苦虫を噛み潰したような表情で了承するミハイル。
シキとて、まだるっこしい真似をせず、立会人を挟んでの契約としてならばレシピそのものを譲ることに抵抗は無かったのに、となんとしても立会人をいれまいとする彼に呆れた視線を向けつつ、提示した報酬に値する分の情報を口にする。
「バターと粉砂糖でコーティングして熟成。これがヒントです」
「それで長持ち?」
「昔ながらのレシピだと、二ヶ月は余裕で持つ菓子パンになりますよ」
「パンなのに!?」
「えぇ。具も保存食を作る時のようなものを多用してますから。さぁ、ヒントは此処までです。がんばって再現してください。あぁ、名前はこっちで売り出したのを確認してくださいね」
さぁ、パンを持ち帰るぞー、とシキはソファから立ち上がる。
慌てたようにミハイルが外で待っていた案内の侍女に、好きなだけパンを持って帰ってもらうこと、料金は取らないことなどを説明して送り出す。
「バターと粉砂糖でコーティング……具は保存食と同じ……やってみるしかないかぁ」
まさか、酸化しやすいバターで長持ちするのか、という疑問が浮かんでいるが、彼女が言うのだからそういうレシピが異世界には存在するのだろう。
今までミハイルが作ってきた保存パンは、保存にのみ特化したあまり美味しくない代物だ。
中に干しブドウなどを練りこんでもいたが、パン自体がぼそっとしてしまう。
あとは、固いだけだったり。
普通のパンは、卵たっぷりだったり、ふわふわとした美味しいと誰もに胸を晴れるものなのだが。
「あー、しばらく実験、実験、実験、かぁ。しかも、魔女が売り出すのを待ってからじゃないと売り出せないし、売り出しても味で追いつくのはいつになるやら。ほんと、魔女のことも見直さないと、後が怖そうだねぇ」
近頃は、他のパン屋も腕をあげてきている。
すでに何件かの食堂はそちらに乗り換えるところもでてきている。
老舗、そしてラグ一番。その看板に甘え続けることは出来なくなってきている。
散々、公爵のおかげで店を保っている、と思っていた小娘の店も、今ではギルド職員が通いつめるような店になっているのだ。
今回の取引のように、プライドがあるが故の弱点をつついてくるようにもなったし。
どこもかしこも、油断できない。
「あ、あの、店主?」
「ん?なんだい」
「魔女さま、バゲットなど30本、他にも大量にごっそり持っていかれましたけど……」
「うん、仕方ないよ、うん……今回は、彼女を舐めていたぼくが悪いから」
容赦なく持っていったらしい、と報告をうけてミハイルはまたもや唇を引きつらせた。
本当に、油断できない娘になったものだ。
ご指摘があったので、ヒント開放条件を追加しました。
パン持って帰り放題→パン持って帰り放題+シキの店での先行販売、オリジナルと銘打つことの禁止。妨害工作などがあった場合、公爵経由で制裁有り。
この世界の長期保存パンはシュトーレンのような方向ではなく、水分や卵など腐りやすいものを徹底的に排除する、という方向に進化しました。
カンパンとか。
大戦後、魔獣によって寸断された地域が多かったので、特定のスパイスが特定の場所だけに、みたいな状態だったためです。
最近はそうでもなくなってきたので、もうちょっと時間がたてば自然とシュトーレンのようなものは生まれたことでしょう。
また、異世界人だからと同情してくれる人間ばかりではないのですよ、ということです。