決めてしまえばそんなもの。
「出てこないな……」
「出てこないわね…」
緊張走ったリヒトシュタートの大司祭の女との邂逅から一夜明けて。
そろそろ起きねば店の支度もできない時間だというのに、シキもタチバナもリビングにいなかった。
特に、リビングを自室状態にしているシキがこの場にいないのはおかしい。
二階につながる階段を見つめながら、カレンとフィリーはうむむ、と悩んだ。
時間が時間なのでいい加減出てきてほしいが、だからといってうっかりドアを開けてアレな場面に遭遇するのは御免こうむりたいというか。
なんとなく何があったのか予想がついてしまい、行きたくないというか。
「……仕方ないわね、行くわよ!」
だが、仕事は仕事。
おまけに自分たちの朝食もかかっているので切実だ。
勢いをつけて階段を上り、自分たちの部屋の対面にあるタチバナの部屋の前に立つ。
コンコンコン、とノック。
しばし待つ。
「おはようございます。どうしました?」
今着替えてるんですけど、とカーディガンを片手に持ったタチバナが顔を覗かせた。
「いつまでたっても降りてこないから、起こしに来たのよ。シキは?」
「…え?下にいませんか?」
心底不思議そうに首を傾げるタチバナ。
おかしい、何かがあったわけではないのか。
夜中に出て行ったり帰ってきたりな音がして、しかも二人分の足音がタチバナの部屋に消えたのでてっきりそういうことだと思ったのだが。
「下にいるはずなんですけど…おかしいですね」
「っていうより、昨夜何があったのか説明が欲しいんだが」
出ていったことには気が付いているぞ、とカレンがタチバナに詰め寄った。
驚いたように瞠目するタチバナ。
シキが出ていったのは気づかれてもしょうがないとは思うが、己が出ていったことに気が付かれるとは思わなかった。
戦闘に関して半分素人のシキはともかく、タチバナは暗殺者だった身だ。隠密行動は身に染みている。
「……二人は、どう考えていますか?」
「そうだな、私としては、昨日のあの女をきっかけに不安定になったタチバナがシキを食った、といったところか」
「もしくは、不安定になったシキをタチバナが、かしらね」
「どちらも意味合いとしては同じじゃないですか」
合ってますけどね、とため息を溢してタチバナが苦笑いを浮かべる。
だが、そのままそれで?と逆に二人に問いかけた。
「それで、俺に何を求めますか?」
出会ったばかりの頃のカレンとフィリーならば、立ち入ることのできない領域だとして、その問いかけに答える事はできなかっただろう。
だが、半年近く共に生活して、すでに二人は友人や仲間と言って過言ではない。
立ち入ることが許されない個所も、当然多くある。
だが、それでも、友人として踏み入る。
「シキと、どうしていくつもりか、答えてほしい」
「答える義理は無い、と言われても、それを聞きますか?」
「えぇ、聞くわ。だってシキは友人だもの。それに……異世界人よ、彼女は」
還る方法は無い、とされている異世界人たち。
けれど、もしもいつか還る術が見つかったとき、どうするのか。
還る彼女を見送れるの?残る彼女を守れるの?
彼女たちの持つ大きな力を求めて、バカをやる国がリヒトシュタート以外に現れないなんて絶対に言えない。
今、シキを保護してくれているギルドやラグが、彼女を利用しようとするかもしれない。
いや、すでに利用している。
強大な力を持つ彼女がここに住んでいる、国とギルドの保護という名の監視を受け入れている。
それだけで、十分抑止力として機能するのだから。
「答えなさい。返答如何では、私たちはシキからあなたを引き剥がすわ」
傷の舐めあいなら引き剥がす。
同情でも当然引き剥がす。
恋情を絡ませろなんて言わないけれど、快楽を求めてのギブアンドテイクでも仕方がないとは思うけれど。
それでも、シキの足枷になるような関係になるのなら、力づくでも。
カレンとフィリーが、強い眼差しでタチバナを睨み付ける。
タチバナも、それを見返す。
静かに、静かに。
「………真名を、教えてもらったんです」
心底幸せそうな声音で、タチバナはそう言った。
人とは違う位置にある獣の耳が、少しくすんだ金の尾が、小さく揺れた。
「シキは、名を隠しています。理由は様々なようですが、根本的にこの世界の住人を信用していないのだと思います」
「あぁ、わかるな。所々一線を引かれる。出会った半年程度ならば仕方ないと思っていたが、それにしてはタチバナにも一歩引いているところがあったというか」
特に顕著なのは、故郷の話をする時だ。
タチバナがいるときは、食べ物などの話が多いものの話さないわけではない。
だが、カレンやフィリーだけの時、すでに話したものの絡みのあたりしか、決して故郷の話をしない。
そしてどんなに思い返しても、カレンとフィリーはシキの家族のことを知らないのだ。
母や父はいたことだろう。兄弟も、いたかもしれない。
友人だって、恋人だって、いたかもしれない。
けれど、そのうちどれも知らないのだ。
タチバナは、知っているかもしれないけれど。
「シキと出会ってから、俺は自由でした。どこに行こうと、何をしようと、決してシキは止めない」
タチバナの魂を握っているくせに、決して束縛しない。
何処に行ってもいいよ、わたしはひとりでいいよ、と突き放すのだ。
「それが酷く、嫌で嫌で」
自由にしたくせに、どうしてその自由を行使した結果を否定するのか。
そして、考えて考えて考えて。
不安定な時くらいは頼っていいとなんとか教え込んで。
それでも、彼女は申し訳なさそうに言うのだ。
自由にしてもいいんだよ、と。
「自由にしてくれた、人として扱ってくれた、それだけで、それだけで俺は救われたのに、それは本来なら当たり前に持っているはずの権利だったからと、感謝すらさせてくれない」
恩を返したいと願っても、シキは違うと言う。
縛りつけたのはわたしだからと、本当の自由をあげられたわけじゃないと。
だから、どうしたというのだ。
「俺は感謝の言葉を贈りたかった。名をくれたことが、あそこから逃げ出すための力として俺を選んでくれたことが、今の俺にとってどれほど、どれほど……っ!」
いつもは穏やかに振る舞うタチバナが、感情的になる。
その姿を見て、二人は口をはさむこともできずにその言葉を聞くしかできない。
タチバナがどんな扱いを受けたかなんて、本当の所は知らないし、彼も教えてくれないだろう。
だが、ここにこうしていられるだけで奇跡のようなものだと言う彼の言葉を信じるならば、そうなのだろうと考えた。
「だから俺は、対等になりたかった」
まるでシキは修道女のようだった。
誰もに平等に振る舞う、孤児たちの母のようだった。
彼女にそんなつもりはなかっただろうと、タチバナは知っている。けれど、シキにとってタチバナは庇護すべき対象だった。
それでいて、身を守る力があるから、どこへでも行けるでしょう?と微笑むのだ。
なんてチグハグな祝福。
そんなもの、タチバナはいらなかった。
「昨夜、シキが出ていった理由は話せません。ですが、その代わりに俺はシキの平等になりました」
だから、ねだったのだ。
シキの名が欲しい、と。
互いに真の名を握り合っているのなら、互いに縛りあっているのなら。
それは対等というものだろう、と。
それなら、感謝を受け取ってくれるだろうと。
「感謝を伝えて、それでも満足はできませんでしたが」
ずっと贈りたかった言葉を贈るだけでは、もう到底足りなかった。
もっともっと、大きなものを彼女に捧げたかった。
それが、たとえ独りよがりの歪んだ形だったとしても。
「シキに向かう感情の名前は知りません。今でもわかりません。甘ったるい恋情でも、傷を舐め合う同情でも、取引をする計算でもありません」
だが、強いて言うなら。
「俺は、この世界におけるシキの家族になりたい」
ただそれだけだと、タチバナは言う。
「これで答えになりますか?」
「……そうね。それにしたって、面倒ね、あなたたち」
「そうでしょうか」
「えぇ、面倒よ。互いに矛盾した事ばっかり考えて、そのくせ相手の為だからって無駄なことばかり」
「素直に感謝すら受け取ってくれないシキに言ってください」
もしも最初の時点でシキがタチバナからの感謝を受け取っていたら、きっとこんな風な考えにも関係にもならなかっただろうけど。
だから、今は今で納得している。
それに。
「可愛かったですから…」
うっそりと笑うタチバナ。
そういえばこいつハニトラ得意な関係上、蜜事も得意だった。
きっと散々な目にあっただろうシキに、二人は同情する。
「とりあえず、今日は申し訳ないのですが店は休業ということで」
「シキの許可が出ていないぞ?」
「意地で動いてるんでしょうけど、どうせ半日もしないで潰れます。お叱りは俺が受けますから、休業の看板出しておいてください」
「まぁ、そういうことなら仕方がないわよね。いいわ、朝食の支度だけしてくれれば」
「分かりました。では、後ほど」
着替えに戻るのだろう、そういえばズボンはパジャマのままだった。
ドアが閉まると同時に、カレンとフィリーは顔を見合わせてため息を吐いた。
「……今更感、ひどいわよねぇ」
「あれだけ近くて、なぜ……」
「鈍いのよ、二人とも。根本的に」
「だろうな…で、恋愛すっとばして夫婦状態に、そのくせ相手を明後日の方向で労わり過ぎて意思の疎通がずれ込んでいた、と」
「やっとのことで歯車が噛み合ったのね。まったく、巷でなんて呼ばれているのか自覚無いのかしら」
階段を下りて、二人は浴室に向かう。
リビングにおらず、二階にもいない。しかも事後。
ならばここしかないだろう、と容赦なく扉を開けた。
「ひょわっ!?」
腰が引けた状態で壁伝いにシキが歩いていた。
シャツもハイウェストスカートもいつもの通りの格好だけれど、背筋が伸びていない状態でよろよろと歩いているだけで、こうもなんだか情けない。
「シキ、今日は休みだ」
「タチバナには吐かせたから、逃げられないわよ」
「うえうえうえうえ!?」
既に人の言葉じゃなくなっているシキ。
何故だどうしてバレたというかタチバナに吐かせたって何をしたんだ。
「まったく、ありがとうくらいさっさと受け取っておけばこんなことにならなかったのよ」
「三年弱、か?ありがとうすら言わせてもらえずそのくせ放置などされれば、タチバナの思考がズレるのも当然だろうに」
二人が予想するに、タチバナは、出会って疑惑をもち後に依存含む信頼を寄せ、依存状態から脱出して自由をくれたことに感謝するも感謝を受け取ってもらえず鬱屈としたままシキの事ばかりを想い結果恋情ぶっ飛ばして家族になればいいじゃない、に辿り着いたとみる。
本人の自覚は恐らくない。
「…うぅ、昨日も散々言われた」
「なんて?」
「ありがとうすら言わせてくれないのに自由だなんて酷いって」
「まぁ、酷いな」
「酷いわよね」
自由ならば感謝を言うのも自由なのだ。心から出た言葉ならば。
それを封じて自由だよ、なんて。
「傲慢」
「………返す言葉もありません」
まともに歩けないシキを、カレンが支えてリビングに戻る。
クッションを積み上げてその上に落とした。
「~~~~っ!!!」
何処とは言わないが、痛みに呻いて崩れるシキ。
それを見てニヤニヤ笑いながらカレンとフィリーは彼女の前に座り込んだ。
「まぁ、取りあえず。嫁き遅れにならなくてよかったじゃないか」
「そうよ。で、シキはタチバナをどう思うの?」
涙目でカレンとフィリーを見ながら、それでもシキは言った。
「家族」
思い返してみれば単純なこと。
彼を縛るときに決めたではないか。
決して裏切らず、決して道具扱いせず、一番の信頼と信用と、家族と同じ名を、と。
だというのに、ここまで彼のありがとうを封じてそのくせ側にいるのは彼の自由だからと放っておいて。
何のことはない、自分が裏切られるのが怖いから、自由だよという言葉を盾にしてタチバナに近づかないようにしていただけだ。
だが、覚悟は決まった。
「タチバナがわたしを縛るなら、わたしもタチバナを縛るよ」
誰かを縛る。
字面だけ見れば悪いものに捉えがちだが、言い換えれば絆とか呼ばれるものになる。
友情とか、愛情とか。
そして絆を結ぶためには、世界で人と向き合いながら生きていかなければならない。
「で、その覚悟を決めて、どう?」
「…決めてしまえば、案外呆気ないね。いかに自分がこの世界から目を反らしていたか思い知った気分だよ」
「シキ、私たちもちゃんと見てほしい。私たちはシキを友人であり仲間であると思っているのだが?」
「当然、友人で仲間です。本当に、ごめんねぇ……」
如何に世界を見ていなかったか思い知ったシキは、恥ずかしいとクッションに埋もれた。
きっと、昨日の事が無かったら進めなかっただろう。
あの女に関してはやはり憎悪と殺意しか湧かないが、少しくらいは手加減をしてもいい。
嬲り殺しはやめてあげよう、というくらいだが。
タチバナを侮辱したのは許せないし許さない。
だが、あの女が来て。シキがブチ切れて、ちょっとした仕返しをして。
それを不安定なタチバナが見て、お願いをしてきて、安定しているようで安定していなかったタチバナとの関係が安定した。
結果、ガラス越し状態だった世界をちゃんと生で見るようになった。
地に足ついた、ともいう。
「とはいえ、あまり今までと変わらない気がするな」
「そうよねぇ。まぁ、ちょっとは踏み込むようになるくらいかしらね」
「お願いですから手加減してください」
恥ずかしさで死ねる。とシキは真っ赤になる。
だが、ワクワクもしていた。
明日は、いや、今からでも、何を話そうか。
地球の家族の事?
友人の事?
自分の事?
きっと話のネタは尽きないだろう。
そして聞くだろう。
あなたは、何をしてきましたか?
あなたは、何を思っていますか?
相手がタチバナであれ、カレンであれ、フィリーであれ。
それはきっと楽しいだろう。
そうでないこともあるだろうけれど、生きているのなら当然だ。
それが、世界で生きるということなのだから。
実は異世界で生きていく覚悟が無かったシキのお話。