もの
その女が現われた瞬間、タチバナは真っ青になりながら硬直した。
手に持っていた籠がばさりという軽い音を立てて地面に落ちる。
女は、一人だった。
カフェの入り口で艶美に微笑みながら立ち、タチバナを見ながらくるくるとその豪奢な金の巻き毛を指に絡ませている。
何時も微笑みを絶やさないタチバナのその恐怖に震える姿を見たカフェの客などの周囲の人間たちは、息を呑んでタチバナと女を交互に見る。
ざり、と摺り足でタチバナが後ずさる。
その様子に、女は真っ赤な唇をニィ、と弧に歪ませた。
「クサイ、クサイと思ったら…おまえだったのね?十五番目」
艶やかなアルトの声が、タチバナを指して十五番目と呼んだ。
それを意味するところを知るカレンとフィリーは、反射的にそれぞれの武器を手につかんだ。
フィリーは短剣を、カレンは軍刀を。
そして、シキは。
「何の用?」
タチバナを庇うように女と彼との間に立ちふさがる。
その周囲には風が渦巻いていた。
「あらぁ、おひさしぶりですわ聖女様。こんなところでお会いできるなんて」
「御託はいい、答えろ」
いつもの朗らかな声ではなく、地を這う様な低音でシキは女の言葉を遮る。
異様な雰囲気に飲み込まれる周囲だが、カフェ・ミズホの常連であるギルドの人間や、この店を贔屓にする冒険者たちが、それぞれいつでも援護に入れるようにと密かに立ち位置を修正する。
当然、戦闘能力を持たない、もしくは通りすがりの人間は彼らによってそっと店の外へと誘導される。
冒険者の多く集まる都市ゆえ、誰もが店内でトラブルにあった時の対処法は心得ている。
もっぱら酒場でしか発生しないが、大衆食堂でも時折見られる光景だ。
「あらあら、そんなに睨み付けないでくださる?」
「……手を出せばどうなるか、警告はしているはずだ」
「えぇ、知っていますわ?わたくしはただ、船を利用するために来ているだけですもの」
女はその豊かな胸元から、一枚の木板を取り出す。
それは、東大陸に渡るための船の乗船証明だ。
「それにしても、あぁ、獣クサイこと。聖女様も、いい加減目を覚まされたらいかがでしょう」
「……」
「汚らしいケダモノなどを庇うのではなくて、もっと他に護るべきものはありますでしょう?」
「……」
あざけるように女は言葉を連ねる。
その言葉たちがどれだけシキの神経を逆撫でるかを知っていて、男ならば一度はと夢見るほどに妖艶な顔に嘲笑を浮かべる。
けれど、ここでシキから手を出すわけにはいかないのだ。
正当防衛は認められていても、無抵抗な女を傷つけてしまえば、それはシキの過失になる。
冒険者同士の諍いならば注意で終わるだろうが、この女はそんな生易しい存在ではない。
かつては召喚されたばかりの何も知らぬシキの教育係。
リヒトシュタート聖教国、法王の孫娘にして豊穣の神殿の大司祭。
そして、死の翼の調教師の一人。
ブリーキンダ・ベル。
「んもぅ、何もお話してくださいませんのね?あの頃は、無邪気にお国の事を教えてくださいましたのに。わたくし、あのお話がとてもとても好きでしたのよ?おかげで様々な道具を思いつきましたもの。わたくしたちの、ひいては民の生活が向上するのは、とても良いことではなくて?」
「……」
「お返事すらしてくださらないのね。いいですわ、そこのケダモノは用済みですから貴女がどう扱おうが勝手ですし。売ろうが嬲ろうが、慰み者にしようが、お好きになさるといいですわ?あぁ、そういえば、十五番目は大勢に……」
「黙れ」
シキの感情は、ふつふつと煮えたぎっていながら酷く冷静だった。
いや、むしろ水のように澄み渡っていた。
だがそれは氷水のような冷たさで透き通り、奥底の感情を酷くハッキリと自覚させる。
―――殺意。
すでに怒りは通り越した。
無理矢理召喚され、帰れないと知った時にあの国へ抱いたのは怒りを通り越した憎悪だった。
そして、日本人としての倫理観がなんとか押さえ込んでくれているその憎悪の対象に、今では身内、家族とも思っている友人をこうもあからさまに侮辱されては。
だが、ここでその殺意を解放するわけにはいかない。
そんなことをすれば、これ幸いとあの国は色々仕掛けてくるだろう。
いくらシキが手を出してきたら燃やすと脅しをかけていても、搦め手でこられたら己だけならばともかく、タチバナやカレンたちが危険な目に合う。
「うふふふ、そんな怖い顔なさらないで?久々にお会いできて嬉しゅうございました。それでは、船出の時間が近いので失礼いたしますわ」
そう言って、ブリーキンダは艶やかに微笑みながら立ち去った。
途端、周囲の緊張が解け、座り込むものが数名出る。
タチバナも、ぐたりと力が抜けへたりこんだ。
あの女には、正直嬲られた記憶しかない。様々な形の暴力で調教として与えられ、人間としての尊厳を徹底的に踏みつけられた。故に自由の身とはいえ恐怖しか湧かない。
真っ白になった自分の指先を見て、そして庇ってくれたシキを見てギクリとした。
黒の瞳に燃える憎悪と殺意。
噛み締められた唇からは血が伝う。
だが、シキはそれらを深いため息で追い払うと、いつもの少し不敵な愛嬌のある笑みを浮かべる。
そして深く礼をして言った。
「お騒がせして申し訳ございませんでした!」
その言葉を皮切りに、店は元の喧騒を取り戻す。
カレンとフィリーも、手に握っていた武器を仕舞い込み接客を再会させた。
その日の晩。
誰もが寝静まったのを確認したシキは、植樹林に出ていた。
周囲には、月明かり以外の光源はなく。
そして、木々のざわめきと。
淡々とした、低くそれでいて何か恐ろしいものを秘めたシキの声が響く。
「かごめ、かごめ、ものにかられし、かごのなかのとり」
ふと、シキの周辺に夜の闇よりも暗い闇が纏わりついた。
それらは形を変え、密度を変え、ナニかの形をとろうともがく。
「あさにゆうに、ものかこめ」
闇は様々な形をとり、最終的に鳥の姿となって固まった。
それを指先にのせながら、シキは言葉を紡ぐ。
「かせよ、ばくせよ、みたまのおぼゆるまにまに」
指先に止まったその漆黒の小鳥は、羽音をさせることもなく飛び立つ。
それを見送って、シキは後ろを振り向いた。
「何してるの、タチバナ」
「……それは、こちらの台詞です」
強張った表情で、タチバナはシキを見る。
彼女が呟いていた言葉の内容は分からない。分からないが、あの飛び立った小鳥がろくなものではないと言うのは分かる。
「あの小鳥を心配してるの?」
「いいえ」
「じゃぁ、あの小鳥がわたしにどんな影響を及ぼすのか、心配しているの?」
「…そうです」
くすくすと笑いながら、シキはタチバナに近寄り、冷えた指先をその頬に滑らせた。
氷のように冷え切った指先だった。
「大丈夫。人を呪わば穴二つ、だからね。いくらあのバカ女が憎かろうと殺意が湧こうと、呪殺だけはしないよ」
「では、あれは?」
頬をすべるシキの指を掴み、自ら頬に押し付けながらタチバナは尋ねる。
シキらしからぬ暗い笑みを浮かべながら、彼女は答えた。
「因果応報。やったことはやり返される。そういう考えが、わたしの故郷にはあってね。あの女の周囲にある、虐げられたり、嬲られたり、殺されたり、そういうことをされた者たちの残留思念っていうのかな、感情と記憶の残滓を集めて、魔力で固めて、送り返しただけ」
それがどんな結果をもたらすかは知らない、知ったこっちゃない。
そう言ってシキはぽすん、とタチバナの胸に寄りかかった。
けれど、シキはその残留思念が何を引き起こすか、大体予想がついている。
恐らくあの女は、悪夢に苛まれるだろう。
自分が虐げ嬲り殺した相手と同じ体験を、一晩の悪夢として。
仮にも司祭だ。抵抗力は高いだろうから、発狂することはないだろうが。
それに、シキが仕掛けたと分からないように自身の内包する魔力ではなく、世界に漂う魔力を利用しているから、そんなに力を持たない。
だから、一晩。
「カレンたちには、内緒ね?」
「えぇ、わかっていますよ」
彼女たちは知らない。
いつも元気に笑っているシキの中にも、凍える憎悪があることなど。
そして、シキも知られたくはない。
死ぬまで、それこそ永遠に封じ込めていたいものだ。
「んふふ…ごめんね、タチバナ」
「謝る理由が分かりませんよ」
「いいの、わたしが謝りたいだけ」
「そうですか。では、黙っている代わりに一つ我侭を聞いてください」
寄りかかるシキの耳に、小さく我侭を伝えるタチバナ。
その内容に、少しばかり困ったように笑いながらそれでも了承する。
「なんだかなぁ」
「俺もどうしてこうしたいと思ったのか分かりませんが、したいから、でいいんじゃないですか?」
「ま、確かにわたしの行動ってそうだよねぇ…したいからする。しなきゃいけないから、する」
「俺もそうしただけです」
「タチバナの場合、したいからするだけでしょ?これ」
ひょい、と横抱きにされ、植樹林の中を家に向かう。
月明かりしかない中を、確かな足取りでタチバナは進む。
ことん、とタチバナの肩に頭を乗せてシキは言った。
「ま、タチバナだから、いいよ」
『もの』は『隠』そして『鬼』
邪しきもの。人に害成すもの。
害を成した、もの。