オレンジ農家とマスター
春の雨はひどく冷たい。
現代日本であってもそうなのだが、雨の日と言うのは客足が落ちる日だ。
当然、シキがマスターを務めるカフェ・ミズホも、今日に限っては閑古鳥が鳴いていた。
「暇ね…」
「明日の分の仕込みも終わってしまっているしな」
「それでしたらこれの手伝いをしていただいてもいいんですよ?」
「「それは嫌」」
カウンターに一番近い席に座り込んで、シロニバリベースの蜂蜜バター茶を飲みながら午後の休憩としゃれ込んでいるカレンとフィリーに、タチバナの鋭いツッコミが入る。
だが、彼の今やっている作業を手伝う気には到底なれない。
なぜなら、細心の注意を払って行う薬剤調合だから。
天秤に分銅を乗せて、1グラムのズレもなく必要な分量を取り分けるのは、動いているほうが性に合う二人にとって鬼門もいいところな作業だ。
失敗すれば当然、タチバナから冷たい雷が落ちるので更にやろうと思えなくなる。
「はーい、今日のおやつだよー。冷めないうちにどーぞ」
少し深めの木の皿に油を切るための古紙を引いて、その上にもさっ、という表現がふさわしい形で積み上げられているのはサモサだ。
サモサとは本来はジャガイモを潰してそれをパイ生地で包んで揚げたおやつなのだが、これに関してはアレンジが入っていて、使われているイモはベニイモ。
砂糖が無くとも甘いイモで、風味を引き立たせるために少しだけシナモンを入れている。
「いただきます!」
「あ、そんなに急いで口に入れると」
「あぢぢぢぢっ!?」
「……やっぱり」
案の定、あいさつもそこそこにベニイモサモサを口に放り込んだカレンが涙目になって水を飲みほした。
そんな彼女を呆れたように見ながら、フィリーもサモサを一つ手に取った。
ガタガタと椅子を寄せて、シキとタチバナも休憩に入る。
客は一人もいない。
「サクサクでほこほこで、たまらないわねぇ、これ」
「大き目で揚げて、古紙に包んで持ち帰りオッケーとかやってもいいんじゃないか?」
「パイ生地の問題で無理かなぁ…温かくなると途端に生地がダメになるし。黒糖が入ったらサーターアンダギーやるけど」
この世界、冷蔵庫は無い。変わりに、冷気の属性を混めた特殊な煉瓦でつくった氷室の中に冬の間に大量の氷を溜め込んで冷蔵庫にしている。
煉瓦、というだけあってスペースは結構とる。
どの家も、倉庫スペースを床下か地下に作ってどうにかしている。
シキの住むこの家の場合は、改装して無理矢理二か所に作っている。
ショーケースのあたりに、床下収納という形をとって小さいものを一つ。
倉庫に四畳くらいのスペースを一つ。
夏になると、床下収納の方はフル活動だ。
ショーケースの冷蔵は床下収納とパイプをつないでいるので、そこから流れ込む冷気でどうにかしている。
当然、氷が足りない状態に陥るので氷屋を利用している。
一般家庭も利用しているので、そんなに高くないことが救いだろうか。
「むぅ。そうか、パイ生地は冷たくないと駄目だものな。保冷場所に限界があるから、仕方ないな」
「この家の保冷場所って、結構恵まれてるわよ。二か所だもの、二か所。中くらいの酒場レベルなのよ?それでも足りないって…いっそ食堂レベルの氷室入れてしまえばよかったんじゃないのかしら」
「あー、それはそれで予算の限界っていうか。元々あったのを改装してるだけだから」
ぐだぐだと女三人でだべる。
タチバナは無言で茉莉花茶を啜っていた。
二杯目のお茶を注ごうと、ガラスのポットを手に取りかけたタチバナは、ピクリと耳を震わせた。
「……三人とも、お客様かもしれないですよ」
「わ、片付け片付け!」
雨なので閉じている店の入り口の観音開きの扉の前。
一つの足音が止まった音がした。
慌ててテーブルの上のものを抱えて、奥に引っ込むカレンとフィリー。
手早くテーブルを拭いて椅子を整えると同時に、カランという音を立てて人が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
シキがにこやかに声をかける。
ここら辺の対応は、さすがに数年間やってきただけあった。
入ってきたのは、小さな角を生やした獣人。
角の形を見るに、ヤギだろうか。小柄なその体で、かなり大きなカバンを背負っていた。
「……四季の、魔女?それと、十五番目?」
「はい?」
四季の魔女かと確認されるのは何回かあったので不思議でもなんでもなかったのだが、タチバナを指して十五番目と呼びかけたそのヤギの獣人の少女。
反射的に隠し持っていた投擲用のナイフを放とうとしたタチバナだが、シキの周りに薄く渦巻く風を感じて構えるだけにした。
「よかった、合ってた。何年も前だったから自信が無かったけど、ギルドに聞いてよかった」
二人はギルドの単語に警戒の度合いを下げる。
ヤギの少女はにこりと笑うと、カバンの中からさらに何かが詰まった袋を取り出して言う。
「お礼に来たの。二人にとってあれは逃げるための行為だったんだろうけど、おかげであたしはあたしになれた。今のあたしは、二十三番目じゃなくて、イライア。イライア・トゥルーハート」
ヤギの獣人の少女、イライアはそう言ってその袋を開けた。
中から出てきたのは、輝くオレンジ色の沢山のオレンジ。
鼻をくすぐる柑橘の香りが、とても良い。
「今は、拾ってくれたオレンジ農家の所で世話になってる。一緒にいた四十二番目と三十三番目、今はキアラとシャルマって名前をもらった」
「……そっか」
ポツリと、一言シキが呟いた。
袋の中のオレンジを手に取って、泣き笑いで笑う。
「わたしは、助けたわけじゃないよ?少しでも追っ手のリスクを減らしたかっただけ。誰かを殺す覚悟なんて無かったから、首輪を壊しただけ」
オレンジの生産地は、ここよりもう少し南の、大昔に異世界人によって破壊された南地区との境目だ。
リヒトシュタートよりは海沿いである分ラグに近いけれど、それでも中々距離がある。
オレンジが新鮮なうちにやってくるには、船しかないし、陸路よりお金がかかる。
そんな手間をかけてまで、ここにくる意味なんて、シキに礼を言う理由なんて、ないはずだ。
「それでも、感謝はしたいから。本当は三人で来たかったけど、そこまでお金が無くて。危ないことは禁止だって爺さまと婆さまに釘を刺されてもいたし」
「それで、一人でここまで?」
「うん。どうしても、どうしても言いたかったから。十五番目、今のあなたはなんて言うの?」
暗殺者時代の影なんて見せずに、幸せそうに家族のことをほのめかしながらイライアは笑う。
その姿に、タチバナは理解した。
タチバナにとって、シキが救いになったように、イライアにとっても、オレンジ農家の爺さまと婆さまは救いなのだろう。
そして彼らに感謝するからこそ、彼らに出会うためのきっかけになったシキに感謝しているのだ。
「今の俺はタチバナですよ」
「じゃ、あなたにこれはぴったりだね」
「えぇ。ありがたく頂戴しますよ」
シキと同じようにオレンジを手に取り、笑う。
艶も大きさも申し分ない。香りだって上等。
きっとそのまま食べても美味しいだろう。
「四季の魔女、ありがとう。自由をくれて」
「首輪を砕いただけだって。けど、こちらこそありがとう。わたしの甘さが、誰かを幸せにしたのなら、これに越したことはないから」
シキは、あの時の判断は甘さだと知っている。
イライアたちのように、首輪を砕かれたことによって自由を得て、あの国から逃れた者もそこそこいるだろう。
けれど、きっといきなりの自由に混乱して、リヒトシュタートに戻ってしまった者もいるはずだ。そうして戻った者たちがどんな目に合うかは、想像に難くない。
けれどシキは殺せないから、無理矢理に自由を押し付けて本人たちに選ばせた。
責任を放棄したとも言える。
「それを、伝えに来たの。あと、爺さまが商売もしてこいって」
しんみりした空気の中、それを塗り替えるかのようなイライアの言葉にシキの目が点になる。
「あたしのいるオレンジ農家、『トゥルーハートオレンジ農園』と、オレンジをはじめとした柑橘類の取引をしませんか。品質はご覧のとおり一級品。間に商人を挟まないから、値段もお手頃にできるよ!」
どうやら初めて取引を任されて興奮気味らしいイライアが、鼻息荒く言い切った。
その手に持っているカンペは見ないふりをしてあげるのは良心というものだろう。
「どうします?シキ」
笑いを堪えながら意見を求めるタチバナに、シキも笑いながら答えた。
「こんなに質のいいオレンジ、買おうと思うと結構するんだよね。オッケー、商談と参りましょう?」
空気を読んで現れたカレンが、ドアのプレートをcloseに変える。
先ほどまで四人で休憩をしていたテーブルとイスをイライアに薦めて、シキが蜂蜜バター茶を、フィリーがラスクをお茶請けとして提供する。
「どうぞ、召し上がれ」
雨の音をBGMに、元暗殺者なオレンジ農家と、元聖女なマスターの、どこかのんびりとした商談が始まった。