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残月

鮮やかな赤紫の液体が、ゆらりとグラスの中で揺れた。

懐かしい香りに、初老の、けれど老いを感じさせぬ伸びた背筋をした彼女は、思わず唇を綻ばせた。


「ふふ、シキさん。まさか貴女もこれをご存知だったなんて」

「わたしの祖母が作っていた夏の定番ですよ。東大陸の方ならともかく、西大陸こちらの方はどうもこれの香りがダメみたいで、店に出す機会があまりなかったんです」


太陽が頂点より少しだけ傾いた時間。

暑さに客足が遠のく時間を見計らったかのように、彼女はシキの店にやってきた。

銀麗イェンリー・フォン・メリッサ

冒険者ギルド統括にしてラグ支部長であるグランドマスターの奥方にして、東大陸から西大陸に漢方の概念を持ち込んだ第一人者。

『残月』イェンリー。


「伺う、と言っておいて、一年もかかってしまったわ」

「お忙しい身の上でしょうから、気にしていませんよ。予約まで入れて頂きましたし」

「そうねぇ…。入れてよかったわね。懐かしいものを出していただきましたもの」


上品に笑うイェンリーに、シキも苦笑しつつそうですね、と頷いた。

もしも予約無しでギルドのトップの奥方が護衛もつけずに来店した、なんてことになっていればそれはもう凄まじい騒ぎになっていたはずだ。

そう、護衛がついていないのである。

彼女くらいの身分になれば、護衛をつけるのは当たり前だ。

ザフローア公爵やハーフェン伯爵なども結構ホイホイこの店に訪れているが、その背後で護衛がついていることはよく知っている。

それに、ザフローア公爵にいたっては自分の身を護れる程度に強いので安心していられる。


「ゆかりとじゃこの炊き込みご飯、冬瓜煮、きゅうりの芥子和え。蒸し鶏の梅ソース掛け。それから赤紫蘇のジュース。ふふ、美味しかったわ」


イェンリーが来店する、となったとき。

シキはそれはもう必死でメニューを考えた。

王宮の晩餐会などに幾たびも参加し、それ以外にも多くの格調高い場所で最高級の素材と人手を使って作られた料理を食べている彼女に、下手なものは出せないと感じたのだ。

当然、いつも作っているものだってシキの自慢の品だけれど、それとこれとは話が違う。

一般人と貴族が食べているものが同じ種類かと聞かれて同じです、と答えられはしないだろう。

ギルドや王宮への呼び出しなどで、ねだられるから、そして気に入ってくれていると知っているからこそ、善哉や他の菓子を差し入れたり配達したりしているが、気に入られていると知っていなければ戦々恐々としながら作って配達していたことだろう。

ともかく、普段から分かっている連中はともかく、イェンリーのように普段からそれ程関わっているわけでもない自分より格上の人間に、「わたくしのために、お願いしますね?」などとプレッシャーをかけられれば緊張だってする。

国ごと脅したり脅迫したり恐喝したり恫喝したりとシキも色々やっているが、一応根っこは一般市民なのだ。

他の人間は納得してくれないけれど。


「ご満足いただけて、よかったです。お嫌いなものがあったらどうしようかと」

「大丈夫ですよ。むしろ、好物の梅を使ってくださって嬉しいくらい。主人も子供たちも、どうもあの酸っぱさが駄目みたいで」

「独特ですからね。それでも、梅酒や梅ジュースのおかげで結構馴染み深くなってきてはいるみたいですよ」

「あらあら。なら、今度は貴女のお菓子を肴に、梅酒を飲んでみましょうか」


これは土産を催促されてるのかな、と思考の端でメモをとったシキは、さて梅酒にあう肴になりそうなお菓子のストックは何かあっただろうかと思考を巡らせる。だが、現時点でそれは無かったので後日作ろうと決意する。

どうせ梅酒は自分も飲んでいるので。

それよりも先に出さねばならないものを思い出し、一時的にイェンリーの前から引くと、キッチン前のショーウィンドウの陰に隠すように置いたデザートを取り出す。


「あら。あらあらあら、デザートまでありましたのね?」

「えぇ、昨年のお約束どおり善哉にしようかと思ったのですが、イェンリー様の異名を聞いて、これしかないと思いまして」


イェンリーの、それはもう見事に美しく食べ終わった膳を下げ、入れ替わりにそのデザートを置いた。

当然、食後の飲み物は冷たく冷やした水出し緑茶だ。


「残月、と申します」

「まぁ……。わたくしの異名と同じ名前のお菓子がありましたのね」


残月。

イェンリーの銀色の髪と、錬金術師としてではなく、薬士、漢方医として戦場で明け方近くまで怪我人の治療に当たり続けた彼女の姿に、気がつけば誰もがそう呼んでいたそうだ。

きっと、最初にそう呼んだのは東大陸の人間だったのだろう。

残月とは、明け方まで空に残っている月を指す言葉だ。

そして、今シキが差し出した和菓子は、それをモチーフにした菓子である。

小麦粉や上新粉、卵、蜂蜜、そして生姜汁を練りこんだ生地を少し薄めに、円形に焼き上げる。

横長にした餡をその上に置き、二つ折りに。そして円筒に背を押し付け緩やかなカーブをつけ、仕上げにすり蜜と呼ばれる水と砂糖を使って作る飾りのための蜜は無理なので代用として砂糖と卵白で作るグラスロワイヤルと呼ばれるつまりはアイシングの一種を刷毛で薄く塗った菓子。

夏の和菓子で、生地に生姜汁を入れているので、甘いもののどこかぴりっとした大人の味の菓子だ。


「東大陸にも無かったのですか?」

「えぇ。いえ、もしかしたらあったのかもしれません。けれどわたくしは知らなかったのです」

「そうですね……アカレアキツに渡ってきた異世界人も、全ての菓子を伝えられたわけじゃないでしょうから」


どら焼きや団子、餅などは伝わっているようだが、カステラなどは伝わっていなかった。

きっと、名前は知っていてもレシピを知らない、そもそもそんな菓子は知らない、など色々事情はあったことだろう。

全て伝わっているのなら、シキの持つレシピ集が危険物扱いされる理由もない。


「餡は漉し餡なのですね。生姜の香りが甘さを抑えて、どうしようかしら、幾つも食べられてしまいそうです」

「お気に召していただけたようですね。けれど、月は空にひとつ、ですから」

「あらあら、お上手ね」


つまりはお代わりはないです、ということなのだが。

黒塗りの陶器の皿を夜空に、残月を月に喩えてそう伝えれば嬉しそうに微笑むイェンリー。

この返答は気に入ってもらえたようだと、シキはほっと胸を撫で下ろす。

東大陸の人間、特に上流階級に伝手がある人間は、言葉遊びを好む傾向にある。

武人は逆で、実直な言葉を好むようだが。

イェンリーの動きの端々から感じられる気品は、生まれてから今まで常にその動きを意識する人間特有の感じがした。

実際、一般に知られている経歴はアカレアキツの上流階級出身だとなっている。

貴族の家に生まれ、何があったのかは知らないが安定した生活を自由と引き換えここにいるのが、この奥方だ。


「ご馳走様でした」

「お粗末でございました」


グラスに入った緑茶を飲み、口の中の甘味を拭ったイェンリーは、ひとつ礼をするとそう言って微笑んだ。

シキも言葉を返すと、彼女はゆっくりと立ち上がる。


「また、折を見て来たいと思いますの。今日は人を避けましたが、次は喧騒の中、味わってみようかしら?」

「その際は、護衛をお付けください。皆気がいい連中ですが、荒くれ者ばかりです。あなたの身に何かあれば、ギルドマスターも、公爵も真っ青です」

「あらあら、うちの執事と同じようなことを言うのね。大丈夫ですよ、わたくしは『残月』イェンリー。荒くれ者を束ねるのは、慣れております」


微笑んだその瞳には、確かな自信と誇りが浮かんでいる。

そう、この人は荒くれ者ばかりの冒険者ギルドを束ねるギルドマスターの奥方だった。

異名も持つ以上、ただ人ではない。


「近々、梅酒に合うお菓子をお願いしますね」

「ご連絡いただければ、明日にでもお届けいたします」

「では、後日お願いできるかしら?」

「はい。どちらにお預けすれば?」

「支部に伝言を残しておきますわ。ラウラにでも預けてくださいな」

「わかりました。またのご来店を、お待ちしています」


ひらり、と軽やかに去っていったイェンリーを見送って、シキはひとつ息を吐いた。


「はふぅ……。なんだろ、柔らかいのに、迫力のある方だよねぇ、あの人」


逆らっちゃいけない人、というのはああいう人を言うのだと、シキは思う。

彼女が去ったことで、集中しきっていた神経が平静に戻るその感覚が肩の力が抜けるという形でやってくる。


「とりあえず、梅酒に合うお菓子、仕込むかぁ」


店はまだまだ営業中。

太陽が真上にある以上、客足は遠く。

だが、もう暫くすれば煩いいつものカフェ・ミズホに戻るだろう。

雰囲気に呑まれて奥に引っ込んでいたカレンたちにも仕事を割り振るべく、シキは空になった黒塗りの皿を手にキッチンへと歩き出した。



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